永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

シュールな町。

2008-02-28 23:18:11 | 日記・エッセイ・コラム
今日ひさしぶりにある打ち合わせで八幡の前田に行く。九ヶ月振りだ。町のようすは相変わらず時間が止まったままだ。八幡駅北口東田地区は再開発で新しい街ができつつあるが、ここもあまり人の気配がない。建物の隙間から洞海湾をはさんで若松の高搭山が見える。なぜこの光景はせつなく見えるのだろうか。官営八幡製鉄から新日鐵とある時代の栄光があまりにも強烈だったからだろうか。帰りに前田の町を歩いてみた。ある時代の都市の残像があちこちにある。それは、町の様相からすると現代的ではないが、今からつい39年前までには大都会であったと推測できるのである。いわゆる八幡がまだ鉄で潤っていた時の残像である。その時、日本は経済的に鉄の需要があつていた時代である。その時の八幡駅北口の製鉄工場が四六時中、夜ともなると工場の明りが煌々と輝いていたことを僕は憶えている。でも電車から見るその沿線の光景がせつなく思えた。そのせつなさが、今の前田の町の残像のせつなさと同じなのである。前田の大通りには数軒の角打ち屋さんがある。前田の町を少しでも知りたいと思い、そのうちの一軒の店に入ってみた。かなり年配の店主がぽつんとカウンターの向こうで手持ちぶたさに新聞を拡げている。その店主は不機嫌そうに僕の顔を見る。「いらっしゃい」。たぶん、前田が賑わっていた時代には、工場の勤務帰りの製鉄マンが酒をあおっていたのであろう。僕は興味本位で店に入った後ろめたさもあり、場をつくろうのにかっこをつけてビールを注文した。店主は無言でビールとグラスをカウンターに出す。僕は何か話しを切り出すきっかけをつくろうとするが、店主は先程の新聞を広げる動作に戻り無言だ。これは、この町の今と遍歴を重ねた時の流れを意識せずこの町に暮す、座標軸が変わらない店主の日常性なのかもかもしれない。僕も無言でグラスに口をつけ、壁に貼ってある年代物のポスターに目を向ける。カウンターをはさむこの不思議なシュールな空気で僕は八幡の歴史を確認できたのでかもしれない。


わたしにも写せます。

2008-02-27 20:45:10 | 日記・エッセイ・コラム
写真右のカメラはリコーオートハーフモデルです。年代はちょっと解りませんが、デザインがモダンでシンプルですね。昔のカメラにしては結構大胆なデザインです。メタリックなボデーが洒落ています。リコーはもともと光学の企業で、今はコピー機などを主にしていますが、カメラメーカーだったんですね。初代は佐賀出身だそうです。佐賀はお菓子のグリコもそうですね。右の赤い箱は1974年にサクラカラーが100周年記念にプレミアムで出したフィルムです。サクラカラーはその後社名をコニカかなんかに変更したと思いますが、今もその名称は使われているのでしょうか。34年前のパッケージデザインですが、そんなに古く感じません。ただこのパッケージが欲しくて、貰うために何本かまとめてフィルムを買いました。このプミアムは限定でした。今ではちょっとレアものです。当時、広告ではレトロぽいものが流行りでした。資生堂のポスターもレトロ調のものを出していました。アンアンななかも外人モデルに洋服と着物をコラボさせてレトロ調な写真を写していましたね。その頃はパンタロンが流行って、銀座の歩行者天国が始まったのもそのころでしょうか。企業名と言えば、時代の社会状況が激変して、この20年くらいの間にいつの間にか聞かなくなった企業もありますし、全然わけの解らないヨコ文字に変えてしまったりと企業の個性が掴みどころのないものになってきましたね。現代は物事のあらゆる価値観が成熟してしまつて、どこに行こうかと大企業でも迷路に入ってしまっているような時代ですからね。そんなことはさて置いて、話しは元に戻りますが、僕には子どものころから、ものを蒐集する癖がありまして、なぜか日常に使われるものを集める癖がありました。「たんなるゴミ!」と奥さんから迷惑がられていますけど、昔から集めたものを時々引っ張り出して見るとなぜだか安心するんです。奥さんからは「気持ち悪い!」と言われますがね。趣味で集めいるのではないんです。時代にピリッときたものをその時、その時にいつのまにか手元に置いているんです。僕の理想は生きた化石になることです。世の中進化すればいいというもんじゃないんです。退化すると新しく見えてくるものもあるんです。いわゆる価値観の問題ですね。心理学者のフロイト的に言うとどうなるんでしょうか。Rimg0035



玄関上がり口にあった電話。

2008-02-25 21:05:46 | 日記・エッセイ・コラム
今は携帯電話がコンピュータを兼ねてコミュニケーションの必須ツールになっていますが、その昔なぜか電話は玄関の上がり口に置いてありましたよね。なぜなのか、筆者は今もって解りません。冬の寒い時など震えながら長電話。今考えたら不思議でなりません。でも、ジーッ、ジーッとダイヤルを回す期待感と数字の間の時間。こもったような音の響き。これこそアナログの極致です。固定電話が光り電話なるものに代わりつつある今、光りがどうやって声になるのかわたくしには解りませんが。どうでもいいことですけどね。長電話をかけていると親が「もったいない10円が出ていく」なんて怒られていました。そうそう、「恋の長電話」という歌がありましたよね。写真の黒電話は僕のコレクションです。光りにしなかったら今でも使えます。そうそう、カメラのコマーシャルで「わたしにも写せます!」というのがありましたね。扇千景さんがパッチリした目で、少し八重歯ぽっい口もとで決めていましたね。Rimg0034_2



思いでの色は。

2008-02-25 18:26:56 | インポート
いとさんご来館ありがとうございます。今、音までデジタル化してしまって、あまりにもキレイキレイなつくられた音が何だか音のイメージに膨らみがないですよね。子どものころ、ラジオやテレビ、レコードで聴いた音はイメージでしっかり憶えていて、なぜか色がついているような気さえします。僕は決して懐古趣味ではないのですが、思い出は大切にしたいと思います。


恋はみずいろ。

2008-02-24 08:12:59 | 日記・エッセイ・コラム
1960年代となると、よく洋楽を聴いていました。中学生のころラジオから流れるビッキーの♪恋はみずいろ♪がよかったですね。ビッキーのハイな声色ははつらつとしていました。子どもながらに、恋をしたらハートがみずいろになるのかなと思いましたものね。このころの映画もフランス映画が多かったですね。ビッキーは♪悲しき天使♪もよかったですね。ペギーマーチの唄にものめり込んでいました。ペギーマーチは日本で人気があったから、日本の歌謡曲をカタコトで唄っていました。♪いつでも夢を♪わすれないわ♪若いってすばらしい♪。甘くせつなく机の上のラジオから流れる声を、勉強するふりしてじっと聞いていました。ジュリーロンドンの♪ミスティ♪も良かったですね。この方は容姿もバツグンでした。'60年になると当然ビートルズですよね。♪シーラブズユー♪にはじまり、ミーハーになって聴いていました。小さいポータブル蓄音機に友だちからレコードを借り回しです。親からはもちろん“こんなもん聴くな!”です。それでもどこ吹く風。ほうきをギター代わりに俺はポールだ、俺はジョージだなんて、かわいい中学生でしたよ。そろそろ`70年を迎えるのですが、ビートルズは♪リボルバー♪あたりから他のミュージシャンを寄せつけない求道者みたいになっていきました。いよいよ、高校生のころはいわゆるビートルズ狂いですよ。ビートルズは聴くものの精神的なものに音を打ってくるから、こちらのほうとしては精神的な部分を開放しなければなりません。♪サージェントペパー♪なんかになると、もうビートルズは神様みたいなものです。ちょっと風邪なんかひいたりしても、病院にいんないでもレコードを聴いていたら治りました。その後、♪レットイットビー♪にいくわけですが、そのころになるとジョンはアート思考にいくわけで、映画を観ても4人のバラツキ感がありましたね。スタジオでのジヨンは完全に孤立。我が道をいくでしたね。ポールは相変わらずエンターティメントを発揮して俺のビートルズだという感じでした。ポールの唄う発音は♪レルピー、レルピー♪と、僕の聴覚に入ってきました。写真のスケッチブックの絵は1970年の12月、僕が19歳の頃描いたメンバーの絵です。先日物置きを整理していたら、ひょっこり出てきました。絵の線は今も当時と同じです。今思えばよく飽きもせず毎日絵を描いていましたね。我ながら馬鹿じゃなかろうかという位描いていました。だって、絵を描くのが一番楽しかったのです。写真集を見て描きました。こうやって絵にすることによって5人目のビートルズになれるのではないかと思っていました。ビートルズはやはり音楽もですが精神的なものであったのですね。今から振り返れば成人前のかわいい19歳ですよ。Rimg0033