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☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

シービスケット

2014年09月30日 01時56分05秒 | 洋画2003年

 ◇シービスケット(2003年 アメリカ 141分)

 原題 Seabiscuit

 staff 原作/ローラ・ヒレンブランド『シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説』

    製作総指揮/トビー・マグワイア、ゲイリー・バーバー、ロジャー・バーンバウム、

          アリソン・トーマス、ロビン・ビッセル

    監督・脚色/ゲイリー・ロス 撮影/ジョン・シュワルツマン

    衣装デザイン/ジュディアナ・マコフスキー 音楽/ランディ・ニューマン

 cast トビー・マグワイア ジェフ・ブリッジス エリザベス・バンクス クリス・クーパー

 

 ◇1840年3月2日、サンタアニタハンデキャップ

 ぼくは競馬をしたことがない。

 府中競馬場からさほど遠くないところに棲んでるんだから、

 一度くらいは競馬場に行ってみたいとおもってるんだけど、

 いまだに行ったことがない。

 だから、競走馬の疾走する凄さも感じたことがないので、

 競馬のおもしろさがいまひとつわかってない。

 でも、これを往年の名馬シービスケットの物語としてだけ捉えずに、

 シービスケットとともに、文字どおり人馬一体となって、

 人生の再挑戦を成し遂げる男たちの物語として観れば、

 たしかに感動的な作品であることはいうまでもない。

 ほんと、事実としてこれほど物語性を秘めた設定はないかもしれない。

 だって、

 子供を自動車事故で失い、妻に出ていかれた自動車ディーラー。

 自動車の需要に押されて調教師になるしか道のなかったカウボーイ。

 両親が破産し、アマチュア・ボクシングでやがて片目に障害を負った騎手。

 かれらが、

 馬格が小さく、しかも膝に瘤を抱えて駄馬と目され、

 その気性の荒さから調教師たちにさじを投げられていた鹿毛の悍馬に、

 人生のすべてを賭けて勝負に挑み、そして勝利を手にするなんてのは、

 いやもう、すこしばかりできすぎな物語なんだけど、事実だ。

 だから、この映画はおもしろい。

 で、ふとおもいだしたんだけど、50年近く前につのだじろうの漫画があった。

『おれの太陽』っていう競馬馬の話で、九州で生まれたアラブ種が、

 脚を折りながらもやがて日本ダービーに出場して勝利をもぎとるって話だった。

 当時、ぼくはこの漫画が好きで、コミックを買ってぼろぼろになるまで読んだものだ。

 となると、案外、ぼくは、競馬を好きになる要素は持ってたのかもしれないね。

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ワイルド・レンジ 最後の銃撃

2014年09月29日 01時38分37秒 | 洋画2003年

 ◇ワイルド・レンジ 最後の銃撃(2003年 アメリカ 140分)

 原題 Open Range

 staff 原作/ローラン・ペイン『Open Range』

    監督/ケビン・コスナー 脚本/クレイグ・ストーパー

    製作/ケビン・コスナー、デイヴィッド・ヴァルデス、ジェイク・エバーツ

    撮影/ジェームズ・ミューロー 美術/ゲイ・S・バックリー

    衣装デザイン/ジョン・ブルームフィールド 音楽/マイケル・ケイメン

 cast ケビン・コスナー ロバート・デュヴァル アネット・ベニング マイケル・ガンボン

 

 ◇1882年、西部のどこか

 ケビン・コスナーの好きなものを勝手に想像するとふたつあるんじゃないかっておもう。

 郷愁と寓話だ。

 郷愁はおもに西部劇で語られ、寓話は未来劇で語られる。

 男の生きざまみたいなのは現代劇なんだけど、それはほんとうに好きなのかどうか。

 ま、そんなところからいうと、この作品はばっちり郷愁西部劇だ。

 失われつつあるものの中で決して変わらない魂みたいなものを、

 あれこれと悩み苦しみながら考えてやがてそれが戦いによって描かれる。

 そういうのが、どうやらケビンの趣味らしい。

 そういうことからいえば、

 フリー・グレイザーつまり遊牧生活をおくっているカウボーイの顛末ってのは、

 まさしくケビンの大好きな世界なんだろう。

 ただ、この映画の場合は、ロバート・デュヴァルをずいぶんと頼りにしてるけどね。

 でもさ、

 アメリカでは最後の決闘20分が西部劇の歴史に残るようなリアリズムといわれたらしいけど、

 なんていうのかな、リアルに徹したいのはわからないでもないんだけど、

 最初の雨の中のテント張りにしても、

 そこまで拘らなくてもよくない?って、おもわずいいたくなっちゃったりもする。

 だって、尺がすんごく長いんだもん。

 ケビン・コスナーはどういうわけか自分が監督をするようになってから、

 どんどん大作志向になり、尺が長くなってる。

 まあ、わからないではないんだけどさ。

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灯台守の恋

2014年09月28日 00時34分29秒 | 洋画2004年

 ☆灯台守の恋(2004年 フランス 104分)

 原題 L'equipier

 staff 監督/フィリップ・リオレ 撮影/パトリック・ブロシェ

    脚本/フィリップ・リオレ、エマニュエル・クールコル、クリスチャン・シニジェ

    衣装デザイン/ピエール・ビガー 音楽/ニコラ・ピオヴァーニ

 cast サンドリーヌ・ボネール フィリップ・トレトン エミリエ・デュケンヌ アンヌ・コンシニ

 

 ☆1963年、ブルターニュ、ウエッサン島

 亡くなった両親の家を売却するために訪れた辺境で、両親のかつての恋を知る話。

 とかって書いたら、なんともありきたりの物語に聞こえるが、骨太の恋愛劇だった。

 話はいたって簡単だ。

 アルジェリア戦争で左手の自由を失った帰還兵が、灯台守を志願して島へやってくる。

 しかし島の住民はケルトからわたってきた連中で恐ろしく閉鎖的だった。

 なかでも灯台守を仕切る親方は、元時計職人の帰還兵につらくあたり、

 荒れ狂う波の砕け散る岩の上に建てられているジュマン灯台でいろいろと苛める。

 けど、常に落ち着いた物腰で優しさを失わない帰還兵を親方は認めるようになり、

 ほかの連中が仲間はずれにするのをただひとり面倒を見てやるようになる。

 ところが、

 親方の妻はもともと島を出たがっていたのだが親方と結婚させられた不満を抱えていた。

 妻は缶詰工場で働いているが灯台守の仕事からこちらに回された帰還兵と恋仲になってしまう。

 帰還兵にしてみれば、

 たったひとりの味方の親方の妻に惚れ、村祭りの花火の下でまぐあってしまうのは罪悪だ。

 自分のことを慕ってくれている村娘の誘いもふりきり、やがて帰還兵は村を去る決意をする。

 で、時が流れ、島に残った親方夫婦にはひとりの娘が生まれていて、

 この両親が死んで家を売却するとき、

 実の父つまり帰還兵の著した『私の世界の果て』を読んで真実を知りながらも、

 父つまり親方はずっと自分を愛してくれていたと涙し、

 かつまた全自動になった灯台の記念館で実の父の遺品と、

 父母と実父が3人で撮った写真を見てふたたび涙するという実に定番の物語なんだけど、

 異様にカメラがいいんだな~。

 役者たちの役になりきった細かい演技も、ブルターニュの自然に溶け込むような滑らかさだし、

 なんといっても、サンドリーヌ・ボネールが際立って綺麗だ。

 こりゃあ、都会に憧れるだろうし、帰還兵と不倫しちゃっても文句はいえないよな~、

 てなことを不埒にもおもった。

 定番かもしれないけど、恋愛映画の佳作であることはまちがいないんじゃないかな。

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ハーフェズ ペルシャの詩

2014年09月27日 18時50分06秒 | 洋画2007年

 ◇ハーフェズ ペルシャの詩(2007年 イラン、日本 98分)

 原題 Hafez

 staff 監督・脚本・撮影・編集・美術・衣装デザイン/アボルファズル・ジャリリ

    プロデューサー/定井勇二、アボルファズル・ジャリリ

    整音/マスード・ベーナム、ホセイン・アボルセデグ

    録音/メールダド・ダドガリ コーディネーター/ショーレ・ゴルパリアン

    音楽/ヤンチェン・ラモ、アボルファズル・ジャリリ

 cast メヒディ・モラディ 麻生久美子 メヒディ・ネガーバン ハミード・ヘダヤティ

 

 ◇時が止まってしまったようなペルシャ

 アボルファズル・ジャリリという監督は各地で賞をとりながらも、

 同時にいろいろと物議をかもしたりしているらしいんだけど、

 もしかしたらこの作品もまた、

 イスラム教の敬虔な信者たちには容れられないところがあるんだろか?

 無宗教のぼくにはよくわからないので、すなおに映像だけを観ることにした。

 前もって知識として、ハーフェズってなんだって話なんだけど、

 コーランの暗唱者にだけ与えられる称号らしい。

 で、そのハーフェズに任されたのが、偉い宗教者の娘を演じる麻生久美子で、

 彼女は母親がチベット人らしく、実家から帰ってきたばかりでコーランを知らない。

 で、ハーフェズが教えてあげることになったんだけど、

 由来、教師と生徒は心が通い始めると、異性の場合はときとして恋に発展するもので、

 結局、そういうおもいがつのりはじめるんだけど、

 宗教者は自分の弟子と娘を結婚させることになっちゃったもんだから、

 麻生久美子を忘れられないハーフェズは自分の称号を奪われても添い遂げたいと願い、

 鏡の請願の旅に出るんだよね。

 7つの村を回ってそこの処女に鏡を拭いてもらって願いを叶えてあげると、

 自分の願いもまた叶うってやつで、

 これがなかなか艱難辛苦の旅なわけで、

 これが結局はコーランの世界に通じてるんだね、たぶん。

 映画が難解な世界に入り込んでいくのはこのあたりからで、

 麻生久美子の内にある水風砂火を、彼はみずから肉体で体験していき、

 やがてそうしたペルシャの自然を体感して、ある種の悟りを得たかに見えたとき、

 麻生久美子が鏡の上にハーフェズからもらった煉瓦を置き、

 さらには彼女のチャドルがふわりと被さり、リンゴがふたつ転がってくるっていう、

 まるで『小さな恋のメロディ』みたいな世界にぼくらはいざなわれるわけなんだけど、

 いやまあ、これが現代とはちょっとおもえない。

 世界はまだまだいろんな世界があるんだな~と。

 ただ、麻生久美子の出番はちょっと少なすぎる気がしないでもないけど、

 ハーフェズの瞳をとおした映像詩だから、これでいいのかもしれないね。

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英国万歳!

2014年09月26日 02時09分23秒 | 洋画1996年

 ◇英国万歳!(1996年 イギリス 111分)

 原題 The Madness of King George

 staff 監督/ニコラス・ハイトナー 原作・脚本/アラン・ベネット

    撮影/アンドルー・ダン 美術/ケン・アダム

    衣装デザイン/マーク・トンプソン 音楽/ジョージ・フェントン

 cast ナイジェル・ホーソーン ヘレン・ミレン イアン・ホルム ルパート・グレイヴス

 

 ◇1811年、ジョージ3世、ご乱心

 こんにちでは、ジョージ3世の乱心はポルフィリン症だったということが、ほぼ定説になってるらしい。

 映画の終わりにそのことわりは掲げられてるけど、ただ、この発病のときに完全に癒えたわけではなくて、結局のところ、愛人と借金の大騒動でジョージ3世をひどく悩ませてたジョージ4世は摂政になって、それまでの放蕩息子ぶりとは打って変わって名君主めいてきて、懸念だったナポレオン戦争も終結させたりしてるわけだから、映画の中で描かれてる肥満の陰謀家でちょっぴりドジな感じとはちょっとちがう。

 ま、それはそれとして、ヘレン・ミレンはここでもたいしたものだ。ジョージ3世の妃、シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツを演じてるんだけど、いやまあ、ほんと、これだけ英国王室の女性を何度も演じてると、普段から気品が漂い始めるんじゃないかってくらい、板についてくる。ただまあ今回は主役ってわけじゃないし、これから先も精神に異常をきたす夫を支え続けていくにちがいない献身的な妻役なわけで、そういう配役からいえばちょっぴり地味だし、活躍の場といったら、28年の間に15人も子供を産んだのよってな話の延長で仲睦まじいところを見せるか、夫がもはやぼろぼろになって引き離され、拘束され、おしめをあてられたまま馬車に引きずり込まれたりするのを見ていられず、助けに飛び込んでくるあたりしかないんだけど、それはそれで充分に存在感を見せてくれる。

 ところで、登場する女性たちの綺麗なことといったらない。これはほんと、目の保養でございました。

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僕はラジオ

2014年09月25日 22時26分57秒 | 洋画2003年

 ◎僕はラジオ(2003年 アメリカ 109分)

 原題 Radio

 staff 監督/マイク・トーリン 脚本/マイク・リッチ

    撮影/ドン・バージェス 美術/クレイ・A・グリフィス

    衣装デザイン/デニース・ウィゲート 音楽/ジェームズ・ホーナー

 cast エド・ハリス デブラ・ウィンガー キューバ・グッディング・Jr サラ・ドリュー

 

 ◎サウスカロライナ州アンダーソン

 実話らしい。

 知的障碍の青年ジェームス・ロバート・ケネディはラジオを聴くことが好きで、

 同時に、アメリカン・フットボールにも興味を持っていたことから、ラジオと徒名され、

 地元のハナ高校でフットボール部のコーチでもあったエド・ハリス演じる教師と知り合い、

 やがてフットボール部のマネージャーのような立場に上っていき、

 校長をはじめとする教師たちのはからいで万年2年生とされ、

 50歳をすぎた映画制作時においてもいまだにハナ高校に名誉学生のように在籍しているらしい。

 エド・ハリスとデブラ・ウィンガー夫妻がやけに温情にあふれた市民を演じてるんだけど、

 なんというか、きちんとよくまとめられてる。

 学校がラジオに対するような配慮を見せるのは、アメリカではよくある話なのか、

 それとも、このハナ高校だけが特別なのかわからないんだけど、

 少なくとも日本ではあんまり聞いたことがない。

 アメリカっていう国は、ともかく映画で人間愛を真正面から謳い上げる。

 映画がそういう役割を与えられているんだろうけど、

 ぼくはそういう姿勢は決して嫌いじゃない。

 いつも斜に構えてるばかりでもないんだな、実は。

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グリーン・ランタン

2014年09月24日 20時53分18秒 | 洋画2011年

 △グリーン・ランタン(2011年 アメリカ 114分)

 原題 Green Lantern

 staff 監督/マーティン・キャンベル

    脚本/グレッグ・バーランティ、マイケル・グリーン、

       マーク・グッゲンハイム、マイケル・ゴールデンバーグ

    原案/グレッグ・バーランティ、マイケル・グリーン、マーク・グッゲンハイム

    撮影/ディオン・ビーブ 美術/グラント・メイジャー

    衣装デザイン/ナイラ・ディクソン SFX・VFX監修/ケント・ヒューストン

    音楽/ジェームズ・ニュートン・ハワード

 cast ライアン・レイノルズ ブレイク・ライブリー ティム・ロビンス ジェフリー・ラッシュ

 

 △1940年にコミック初出

 てことは、昭和15年じゃないか!

 なるほど、だからランタンなのかってあらためてうなずける。

 でも、アメリカっていう国はたいした国で、

 ランタンを掲げた古色蒼然SFヒーローがいまだに新作の主役になる。

 それもCGを駆使した大作の主人公だ。

 これって、

 宇宙少年ソランや遊星仮面やキャプテンウルトラが実写でリメイクされるより凄い。

 日本の場合、ヒーローやヒロインは常に入れ替わり、ちょっとでも古いと捨てられる。

 カビ臭さの中から復活を遂げた金田一耕助や明智小五郎は特異な例といっていい。

 けど、さすがにアメリカではよく知られたヒーローだし、

 6代目(初代の娘)まで入れ替わって続けられている人気作品だし、

 まあわからないでもないんだけど、

 マーベルコミックの主人公たちは日本では馴染みが薄いし、

 ぼくにいたってはまるで知らなかった。

 だもんで、ちょっと入りづらいんだわね~。

 でもまあ、なんていうのかな、

 不死身の種族によって創設された宇宙警察機構グリーン・ランタンの一員になって、

 地球および宇宙の平和のために戦えといわれてみたいっていうのは、

 少年から大人まで変わらぬ夢だろうし、

 そのために鍛えられながらも根っからのお調子者でちょっぴりさぼりたいし、

 誰にも負けないようなちからが備わっているとかいわれてみたいし、

 とかいったまあきわめて王道すぎるほどに王道の物語は、

 この先、続編になっても同じように続けられていくんだろね。

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メリンダとメリンダ

2014年09月23日 03時59分04秒 | 洋画2004年

 ◎メリンダとメリンダ(2004年 アメリカ 100分)

 原題 Melinda and Melinda

 staff 監督・脚本/ウディ・アレン 撮影/ヴィルモス・ジグモンド

    美術/サント・ロカスト 衣装デザイン/ジュディ・ラスキン・ハウエル

    音楽/デューク・エリントン『A列車で行こう』他

 cast ラダ・ミッチェル クロエ・セヴィニー ジョニー・リー・ミラー アマンダ・ピート

 

 ◎悲劇と喜劇

 人生なんて所詮、

「この映画のようにテーブルの上で語られる程度の他愛ないもんなんだよ」

 とかいわれちゃった気分になって、

「いろいろと悩んだり、あくせくしたりしたところで知れてるんだよな~」

 とかおもわずあきらめ半分に苦笑しちゃったりできたらいいんだけど、

 なかなかそうはいかない。

 でも、

 マンハッタンの劇作家連中ってのは、

 ほんと、そんなふうに人生を茶化してしまえる余裕と才能があるんだね、たぶん。

 まったく同じ状況設定から、

 ほんの少し角度を変えるだけで悲劇になったり喜劇になったり、

 まったく言葉と想像だけで、人生の甘辛を作り出しちゃうんだから、たいしたもんだ。

「だから、人生なんてものはほんのちょっとのきっかけと選択と出会いで決まるんだよ」

 ウディ・アレンはそんなふうにいってるんだろうか?

 でもな~。

 あ、どうでもいいことかもしれないけど、

 ラダ・ミッチェルっていう女優さんは、上手だ。

 彼女は、それこそ悲劇も喜劇も、ときにはSFやホラーまでこなす。

 綺麗なんだから、なにもいろんなことに挑戦しなくてもいいのに、

 とか、

 そんなふうにいろいろとキャラを変えるから小器用だとおもわれて損するんじゃないの、

 とかおもっちゃうのは、老婆心なんだろね、たぶん。

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フライド・グリーン・トマト

2014年09月22日 02時47分14秒 | 洋画1991年

 ◎フライド・グリーン・トマト(1991年 アメリカ 130分)

 原題 Fried Green Tomatoes

 staff 原作/ファニー・フラッグ『Fried Green Tomatoes at the Whistle Stop Cafe』

    監督/ジョン・アヴネット 脚本/ファニー・フラッグ、キャロル・ソビエスキー

    撮影/ジェフリー・シンプソン 美術/バーバラ・リング

    衣装デザイン/エリザベス・マクブリッジ 音楽/トーマス・ニューマン

 cast キャシー・ベイツ ジェシカ・タンディ メアリー・スチュアート・マスターソン

 

 ◎1920~50年代、アラバマ州

 話は現代のジョージア州から始まるんだけど、それは語り部のジェシカ・タンディがジョージア州の老人ホームにいるからで、まあ、そんなことはどうでもいい。ドメスティック・バイオレンスに苦しむ女性たちが、おもいきりひらきなおって殺人を仕出かすどころかワニのステーキだとして、カニバリズムにまで発展させちゃうっていう凄まじい内容をなんともさらりと描いているあたりは処女作とはおもえないくらい上手だ。

 総じて面白かったんだけど、わかるようなわからないようなそんな複雑な気になるのは、フライド・グリーン・トマトが題名になってることだ。たしかに南部を代表する料理のようで、その味は甘酸っぱくてちょっと微妙で独特のものなんだけど、実に素朴で、どんな素人にだってできちゃうっていう料理だ。まあ、人肉の料理に関連した題名にはできないわけで、そういうのを暗喩するものとして、この料理なんだろうか?

「ざく切りしてフライにしちゃえば、普段だったら食べられないような青いトマトだって食べられるんだから、人間だってざっくり切ってステーキにしちゃえばいいのよ」

 てな感じで、この題名になったんだろうね。

 すんげえ題名だわ。

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気球クラブ、その後

2014年09月21日 02時29分01秒 | 邦画2010年

 ◇気球クラブ、その後(2006年 日本 93分)

 staff 脚本・監督/園子温 撮影/谷川創平

    音楽/荒井由実 主題歌/畠山美由紀『翳りゆく部屋』

 cast 川村ゆきえ 永作博美 西山繭子 江口のりこ 安藤玉恵 深水元基 長谷川朝晴

 

 ◇荒井由実の『翳りゆく部屋』が主題

 なにかをモチーフにして別な作品を仕上げるというのは、

 これまでにも多くの人達がそうしてきたし、

 これからも多くの人達がそうしていくだろう。

 その時代にはその時代の感覚みたいなものがあって、

 とくに歌や映画の場合は、

 そこに登場している人物たちと同じような年齢や境遇で、

 その作品を観たとき、ことにそれが青春期だった場合、

 その物語は自分の青春の1ページと重なったりする。

 荒井由実は、ぼくにとっては高校時代の記憶と共にときどき蘇る。

 だから、

 この映画の場合、時代は多少ちがうんだけど、

 ああこんな家にみんなで棲んでたことあったな~とかおもうし、

 風船が天井にいくつも上がってるのを見ると、

 そういえば僕の下宿も風船で埋もれたことがあったな~とかおもったりする。

 ただ、赤い風船はやっぱり5つ浮かんでるようにしてほしいなとかもおもったりした。

 なぜって、ぼくはそういう時代の人間だからだ。

 だから、

 この映画に出てくる連中は、ぼくよりもずっと下の学生たちだから、

 どうしても相容れない感覚がある。

 川村ゆきえはたしかに魅力的だけど、

 なんだかはすっぱな感じの設定で、あんまり魅力的な描かれ方じゃなかった。

 それはほかの男たちはとくにそうで、低俗さと調子の良さが空回りする空虚さっていうのか、

 そういう演出がほどこされてるような気がして、ちょいと引き気味だったかも。

 ただ、妙に自主製作映画っぽいところがたくさんあって、

 そうしたところは、それなりに懐かしかったりした。

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GODZILLA ゴジラ

2014年09月20日 20時24分06秒 | 洋画2014年

 △GODZILLA ゴジラ(2014年 アメリカ 124分)

 原題 GODZILLA

 staff 監督/ギャレス・エドワーズ

    原作/東宝株式会社 原案/デヴィッド・キャラハム

    脚本/マックス・ボレンスタイン、フランク・ダラボン

       デヴィッド・キャラハム、ドリュー・ピアース、デヴィッド・S・ゴイヤー

    撮影/シーマス・マクガーヴィ 視覚効果/ジム・ライジール

    美術/オーウェン・パターソン 音楽/アレクサンドル・デスプラ

 cast アーロン・テイラー=ジョンソン ジュリエット・ビノシュ エリザベス・オルセン

 

 △案の定、呉爾羅ではなかった

 わかっていたことだけど、

 ここまであざとく「水爆実験はGodzillaを倒すためのものだった」とかって、

 いくらなんでもそこまでの設定にもってくるとはおもわなかった。

 にもかかわらず、どうしてケン・ワタナベは「ゴジラ」と断言できるのか、謎だ。

 それと、

 ムートー(M.U.T.O)とかいう、

 Massive Unidentified Terrestrial Organism(未確認巨大陸生生命体)と定義される、

 カマキラスかメガヌロンの大型版みたいながら、

 設定と展開は平成ギャオスみたいにも感じられる昆虫型の怪獣が、

 完全に敵役に回されてて、

 ほとんど、こちらの怪獣を倒すことに終始して、

 Godzillaはもうはなっからアメリカ人の味方みたいな描かれ方になってるのは、

 なんだかな~って感じがしてならない。

 まあ、Godzillaっていうスペルに「god」が入っちゃってるもんだから、

 いつのまにかゴジラが破壊神だの荒魂だのっていう定義にされちゃったのが、

 この作品でもそのまま採用されちゃったんだろうけど、

 いや、まじ、こういう続編ありきの怪獣バトル映画にするんなら、

 なにも原子力発電所うんぬんの話はなくてもいいんじゃないかって気にまでなる。

 せっかくジュリエット・ピノシュががんばってたし、

 夫&父親役のブライアン・クランストンも日本に居残って研究してるって設定なんだから、

 こちらをメインにして、

 ケン・ワタナベじゃなくてやっぱり宝田明に登場してもらいたかった。

 なんでも入国管理官だかなんだかの役でカメオ出演してたんだけどカットされたとかで、

 いくらなんでもそりゃないだろ!とかっておもっちゃうんだよね。

 まあそれと、

 Godzillaの造形、あれはないわ~。

 グリズリーのおばけみたいな感じになっちゃってて、

 たしかにCGは見事なもんだったっておもうけど、ちょっとね。

 ゴジラであって非なる怪獣にしかおもえんかった。

 ついでながら、

 伊福部昭がいかに偉大だったかってことは、このたび、あらためてよくわかりました。

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モスラ3 キングギドラ来襲

2014年09月19日 19時11分38秒 | 邦画1991~2000年

 ◇モスラ3 キングギドラ来襲(1998年 日本 99分)

 英題 Rebirth of Mothra III

 staff 監督/米田興弘 特技監督/鈴木健二 脚本/末谷真澄 撮影/関口芳則 美術/櫻木晶 エリアス衣裳デザイン/竹田団吾 衣裳/松山さと子、川崎健二 音楽/渡辺俊幸 主題歌/小林恵『Future』 挿入歌/小林恵、建みさと『モスラの歌』作詞:由起こうじ、インドネシア語訳詞:大槻秀樹、作曲:古関裕而、編曲:渡辺俊幸 ナレーション/山口紗弥加

 cast 小林恵 建みさと 羽野晶紀 松田美由紀 大仁田厚 並樹史朗 上田耕一 田中友幸(写真)

 

 ◇特撮とボク、その61

 また出たか、時間跳躍の必殺技が…。

 なんでキングギドラが関係すると過去にもどってその根源を絶つとかいう戦術が考え出されてくるんだろ。タイムマシンの代わりがモスラになるわけだけど、過去に戻ったら二度と帰れないっていうところからなにかあるなとおもっていれば、眉の中に封じ込められたモスラが最強の鎧モスラになって復活するっていう凄い技はもうこれっきりにしてほしいっておもうわ。

 まあ、エリアスの3姉妹が考えられたときから、この最後の展開は考えられていたかもしれないんだけど、それぞれの宿命として「愛」と「知恵」と「勇気」を持っているというのはいいとして、なんでベルベラが「空から恐怖の大魔王が降りてくる」とかって預言するんだよ。おまえは、ノストラダムスか。

 新しい怪獣を登場させないでキングギドラにしてしまった安易さは、ぼくとしてはあんまり納得できないところがあって、数万人の子供たちを捕食することで自分のエネルギーに変えるっていう設定もちょいと納得できないし、捕食するんだったら次々に食べちゃえばいいものをわざわざ青木ヶ原の樹海の中にドームを作ってそこで飼育するっていうのもちとわからん。だいたい、原始時代においてキングギドラが恐竜を食べていたっていう設定もなんだかよくわからんところがあって、キングギドラって生態系の中に組み込まれちゃうような怪獣なのかって気もしないではない。

 つまり、やっぱり新しい怪獣を創生して、このあんまり品のよくない設定をもうすこし練っていった方がよかったんじゃないかしら。平成モスラの最終作だし、安易な手段はとらずに、せっかく前2作の怪獣がよかった分、なんだか色褪せた感じはいなめないんじゃないかと。

 ま、それと、モルの死と蘇生という主題もあったことだし、ベルベラとの確執が作品の主題にならないといけないんじゃないかっておもうんだけど、そういう発想はなかったんだね。なんだか、物語の臍はなんだったんだろうって気がしちゃうんだよね。インファント島が置き去りにされてるんじゃないかと。

 そういうところもあって、3作目はちょいと見劣りしたかな。

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モスラ2 海底の大決戦

2014年09月18日 18時22分35秒 | 邦画1991~2000年

 ◇モスラ2 海底の大決戦(1997年 日本 100分)

 英題 Rebirth of Mothra II

 staff 企画・原案/田中友幸 監督/三好邦夫 特技監督/川北紘一 脚本/末谷真澄 撮影/関口芳則 美術/清水剛 衣裳/松山さと子 音楽/渡辺俊幸 オーケストレーション/沢田完 エンディングテーマ/Folder『NOW AND FOREVER』 挿入歌/小林恵、山口紗弥加『モスラの歌』作詞:由起こうじ、インドネシア語訳詞:大槻秀樹、作曲:古関裕而、編曲:渡辺俊幸

 cast 小林恵 山口紗弥加 羽野晶紀 満島ひかり 紺野美沙子 細川ふみえ 野波麻帆

 

 ◇特撮とボク、その60

 田中友幸の遺作である。

 それと満島ひかりの初主演作でもある。

 こうやってどこの世界も代替わりしていくんだろうけど、なんでか知らないけど、この平成のモスラシリーズはどことなく片隅に追いやられてるような印象がないでもない。この2ではニライカナイ文明とかいうムー大陸の亜流のような超古代文明が設定されているんだけど、往々にして、超古代の文明は自然や環境について現代社会よりもしっかり考えているわりに制御に失敗して滅んでる。その昔は核戦争とかがあったりしてみずからの文明を破壊してしまって滅んでる。まあそんなところではあるんだけど、怪獣映画の場合、その制御をあやまって破滅を実行をさせたものが驚異的な技術によって創生された怪獣ってことになる。

 海魔獣ダガーラがそうだ。

 このダガーラのデザインと造形はかなりいい。

 平成モスラの怪獣はほんとによく考えられてて、ぼくは贔屓にしてる。なんでゴジラのシリーズよりもちゃんとできてるんだろうっておもうし、なんでもっとファンがつかないんだろうともおもうんだけど、そこがゴジラとモスラの差ってやつなんだろうか。

 ただまあ、登場人物たちはきわめて典型的っていうか類型的っていうか、満島ひかりのことが好きなくせにいじめてて、どこでもくっついてくるデビとチビにいたってはもう頭を抱えちゃいそうになるし、満島ひかりの実家の民宿にとまってる得体の知れない小心者で憎めない心やさしい泥棒もまた溜め息をつきそうになっちゃうんだけど、そこはそれ、邦画の場合はどういうわけか大人目線の子供と悪人が設定されるもんだから、こうならないものはない。

 それと、ここでもそうかってばかりに、インディ・ジョーンズのシャンカーラが登場する。もういい加減にしてくれないかな~っておもうのはぼくだけじゃないような気がするんだけど、そうじゃないのかな。シャンカーラをレリーフの安置場所に置かないとピラミッドが破壊されちゃうみたいな設定は、もうちょいと飽きた。

 モスラが水中バージョンに変身するのはまあ仕方ないとしても、いったいモスラってなんなんだよっていう気にもなってくる。かつてモスラはインファント島の守り神だったはずで、それがいつのまにやら地球の守護神みたいな感じになってきて、妖精の王様なのか怪獣なのかよくわからない。ともかく人智を超えた何物かになっちゃってるわりには寿命があって、前作のように親が斃されて子供がそれを継ぐ。ふしぎな怪獣なんだけど、蛾っていうより蝶々みたいになってきて、あの6本足はちょいといただけない。

 まあ、それはそれとして、海の汚染と破壊について真正面から取り組もうとしている姿勢は評価に値するし、田中友幸という怪獣映画の海の親の遺作としては立派なものなんじゃないかっておもうんだけど、どうかしら?

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モスラ (1996年)

2014年09月17日 18時36分28秒 | 邦画1991~2000年

 ◇モスラ (1996年 日本 106分)

 英題 Rebirth of Mothra

 staff 監督/米田興弘 特技監督/川北紘一 脚本/末谷真澄 音楽/渡辺俊幸 撮影/関口芳則 美術/部谷京子 デスギドラ・デザイン/吉田譲 エリアス衣装デザイン/本谷智子 劇中歌/『モスラの歌』歌:小林恵、山口紗弥加、作詞:由起こうじ、インドネシア語訳詞:大槻秀樹、作曲:古関裕而、編曲:渡辺俊幸 『祈りの歌』『モスラレオ』歌:小林恵、山口紗弥加、作詞:楊銀華、作曲:矢野顕子、編曲:渡辺俊幸

 cast 小林恵 山口紗弥加 羽野晶紀 萩原流行 寺尾聰 高橋ひとみ 梨本謙次郎 本多猪四郎(写真)

 

 ◇特撮とボク、その59

 実は、この新生モスラの3部作は意外によくできてる。

 ていうか、ぼくはけっこう楽しめた。

 ファンタジー色はかなり濃厚で、環境破壊を阻止しなくてはいけないという主題もまた前面によく出てる気はする。特撮もまた合成がよくできてて、デスギドラを封印していたメダル・エリアスの盾を取り合いとなった、家の中での黒い妖精ベルベラとエリアス姉妹による空中追いかけっことか、意外に楽しんじゃったりしたのだ。

 デスギドラのデザイン、ぼくはけっこう気に入ってる。キングギドラの亜種といっていいのかどうか、たぶんそうなのだろうけど、怪獣としての完成度は高いんじゃないかと。ある時期、怪獣のデザインはきわめて行き詰まり、ゴジラのシリーズでももはや二度と観たくないようなものまで出てきちゃったりしたけど、このデスギドラはとてもいい。

 なんていうか、女の子向けの特撮映画ってなかったようにおもうし、そういう雰囲気が漂ってたりする作品はめずらしいんじゃないかっておもうんだよね。妖精たちはたしかに肌はけっこう露出されてるんだけど、でも健康的で活動的だ。まあ、モスラのミニ版のフェアリーは安直な気がしないでもないけど、ベルベラの使う怪獣型のロボット・ガルガルは秀逸の出来栄えなんじゃないかとすらおもったりするんだ。

 それと、小美人、コスモス、エリアスと変化してきた双子の小人なんだけど、今回は双子ではなくて姉妹ってイメージなんだね。ていうか、羽野晶紀演じるベルベラが長女で、3姉妹なのね。知らなかったわ~。ま、役割分担がなされたのは初めてなんじゃないかっておもうし、これはこれで正解だったんじゃないかと。ただ、末っ子のロラはいいとして、モルっていう名前はやめてほしかった。『マグマ大使』じゃないんだから。あ、ところで、ベルばらみたいな名前のベルベラってのはなんで悪者になってんだろう。なんの説明もないのが唐突な気もするんだけどな~。

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ゴジラvsデストロイア

2014年09月16日 13時04分32秒 | 邦画1991~2000年

 ◎ゴジラvsデストロイア(1995年 日本 103分)

 英題 Godzilla vs. Destoroyah

 staff 製作/田中友幸、富山省吾 監督/大河原孝夫 特技監督/川北紘一 脚本/大森一樹 撮影/関口芳則 美術/鈴木儀雄 ゴジラジュニア・デザイン/西川伸司、岡本英郎 デストロイア・デザイン/幼体・集合体・飛行体:吉田穣、完全体:岡本英郎 衣裳/斎藤育子 衣裳コーディネーター/出川淳子 音楽/伊福部昭

 cast 辰巳琢郎 石野陽子 林泰文 小高恵美 大沢さやか 村田雄浩 上田耕一 平泉成 藤巻潤 小野武彦 神山繁 河内桃子 高嶋政宏 中尾彬 篠田三郎

 

 ◎特撮とボク、その58

 ゴジラは、呉爾羅大明神だった過去はもはや片鱗すらない。

 それどころか、原子炉を搭載したサイボーグ怪獣と化したかにすらおもえるような設定は、いったいどんな思考からできあがるんだろう。文系とか理系とかいった差別化は好きじゃないけど、あえてそうするのなら、この物語は理系の脳味噌から生まれてきたとしかおもえない。体内にある核融合炉がメルトダウンをひきおこして大爆発するとかって、まじか?

 しかしどれだけ唖然としたところで仕方がないし、ゴジラと共に育ってきたようなぼくとしては観てそれなりの決着をつけないといけないとおもった。まあ、物語としては理解できる。微小体(クロール体)・幼体・集合体・飛行体・完全体へと変化成長していくデストロイアという怪獣の設定はおもしろいし、この怪獣の生まれた理由がオキシジェン・デストロイヤーによるものという設定もいい。かつてゴジラを斃した際に海底に眠っていた古生代の微小生命体が無酸素環境下で復活し、異常進化を遂げ、急速に巨大化したっていうんだけど、ゴジラと最終的な決着をつけるのはこのよく形のわからないオキシジェン・デストロイヤー怪獣しかないという発想もわかる。

 けど、それだったら、ゴジラジュニアとかいらないじゃん。

 とおもってしまうのも無理のないところなんだけど、3代目のゴジラを想定する上でどうしても必要だったんだろね。こういうあたりがなんとも未練がましい感じもある。けどまあ、できちゃってるんだから仕方がない。メルトダウンしてもはや自滅するしかなくなったゴジラはデストロイアと刺し違えるようにして斃れるんだけど、その際、高濃度の放射能が撒き散らされ、デストロイアによって斃されていたゴジラジュニアにもそれが降りかかり、すでにゴジラのエネルギーを大量に預けられて、かつ天然のウランを浴びてほぼゴジラ化していたジュニアは、ついに放射能の灰の中に立ち上がり、ゴジラとして完全な復活を告げるわけで、これはこれでシリーズを存続させる上ではどうしようもない話だ。

 ちょっとだけ勘弁してよっておもうのは、予告編から本編にいたるまでナレーションも役者の台詞もずいぶんな割合で、デストロイアとはいわずにデストロイヤーといっていることだ。発声がしっかりしていないわけで、ちゃんとしなくちゃダメじゃんね。これは、あきらかな文句だ。

 ただ、この物語は完全に初代ゴジラの初登場した『ゴジラ』から続いている世界で、なんといっても河内桃子の登場にはある種の感動すらおぼえる。この作品を最後にシリーズの製作をおりた田中友幸もそうだけど、伊福部昭のゴジラシリーズ最後となった音楽の気合の入れようたるや、凄い。

 まあ、そんなこんなから観ていくと、総じてぼくはこの作品はそれなりの終止符を打つものだったとおもうわ。

 結局、復活することは自明なんだけどね。

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