Kinema DENBEY since January 1. 2007

☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

ガメラ3 邪神覚醒

2014年11月28日 02時42分39秒 | 邦画1991~2000年

 ◎ガメラ3 邪神覚醒(1999年 日本 108分)

 英題 Gamera 3 : Revenge of Iris

 staff 監督/金子修介 脚本/伊藤和典、金子修介 特技監督/樋口真嗣 撮影/戸澤潤一 美術/及川一 怪獣造型/原口智生 怪獣デザイン/前田真宏、樋口真嗣 繭雛型/竹谷隆之 衣裳/石川純子 音楽/大谷幸 主題歌/ユリアーナ・シャノー『もういちど教えてほしい』作詞:金子修介、作曲:大谷幸、編曲:ヨシオ・J・マキ

 cast 中山忍 前田愛 藤谷文子 安藤希 山咲千里 手塚とおる 螢雪次朗 仲間由紀恵 生瀬勝久 渡辺裕之 本田博太郎 八嶋智人 川津祐介 三田村邦彦 かとうかずこ 清川虹子 徳井優 伊集院光 斉藤暁 根岸季衣 田口トモロヲ 石橋保 鴻上尚史 渡辺いっけい 草野仁 小沢遼子 松本志のぶ 小松みゆき 石丸謙二郎 上川隆也 津川雅彦

 

 ◎特撮とボク、その64

 かっちょええ~!

 もはや、平成ガメラについては、ここでメモしておくものはなにひとつとしてないんだけど、2009年2月4日に観て以来、ひさしぶりに観直したものだから、ずいぶんと忘れてるところってあるもんなんだな~って感じだ。でも、どのカットもガメラの登場しているところはかっこいい。地球を滅亡の淵に追い込んでしまうかもしれない連中がわんさとたむろしているとガメラに判断されたともおもえる渋谷の破壊から、奈良から京都へと移動していく空中戦、さらには京都駅から東寺にかけての一帯を火の海にした最後の決戦にいたるまで、いやあ、凄い。

 南明日香村の柳星張のくだりと、それに絡んだ山咲千里と手塚とおるのコンビの画策がちょいとばかりまだるこしいのと、ガメラを憎み、イリスと融合する少女前田愛の設定が物語上どれだけ必要なことかはわかるんだけど、イリスと出会うまで、さらにはイリスと融合するまではなんだか手間が掛かってる感じがするんだよな~。あのあたり、もうすこし刈り込んだらもっとおもしろいんじゃないかっておもうんだけどね。

 まあ、それでも脚本は上手にすべてを絡ませてて、これまでの伏線もしっかりと活きてて、きわめて満足できる作品に仕上がってる。水野美紀の出番を後撮りしてでも入れてほしかったってのはあるけど、それはまあ、我慢するしかない。ただ、螢雪次朗については非常に満足してる。あ、でも、これは大迫警部補の流浪の物語でもあるわけで、螢雪次朗と中山忍の運命的な巡り合いがあるのなら、やっぱり1の段階でもう少し別れをおしといてほしかった気もしないではないけどね。

 問題は、この後だ。ハイパー・ギャオスの大量発生の後はどうなるのか。もはやぼろぼろになったガメラは左手のみで戦えるのか。地球のマナはどうなってしまうのか。このシリーズは超古代史を基にした長い物語で、ギャオスの亜種となるイリスは延長線上の新展開だっただけに京都駅の格闘だけで話が終わるのは辛い。つまりは、21世紀にガメラは復活するかってことだ。ガメラ4ができるかどうか、いやまじ、どうなんだろね?

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ガメラ2 レギオン襲来

2014年11月27日 12時52分45秒 | 邦画1991~2000年

 ◎ガメラ2 レギオン襲来(1996年 日本 99分)

 英題 Gamera 2 : Attack of the Legion

 staff 監督/金子修介 脚本/伊藤和典 撮影/戸澤潤一 美術/及川一 レギオン・デザイン/前田真宏、樋口真嗣 音楽/大谷幸 主題歌/ウルフルズ『そら』作詞・作曲:トータス松本、編曲:太田要

 cast 水野美紀 永島敏行 石橋保 吹越満 藤谷文子 螢雪次朗 川津祐介 鈴井貴之 大泉洋 田口トモロヲ 養老孟司 長谷川初範 ラサール石井 ベンガル 角替和枝 沖田浩之 小林昭二 渡辺裕之 辻萬長 大河内浩 前田亜季 関谷亜矢子 薮本雅子 福留功男 小松みゆき 徳間康快

 

 ◎特撮とボク、その63

 平成ガメラは怪獣映画の傑作シリーズだとおもうんだけど、この作品はその中でも白眉だ。

 レギオン(マザー、ソルジャー、プラント)の宇宙怪獣としての納得のゆく設定といい、自衛隊の戦いぶりといい、水野美紀をとりまく男ふたりと両親との微妙なバランスといい、ガメラとそれを信じる人々との連携といい、なにより、進化したガメラの飛行と戦いぶりが実に巧みに散りばめられている。

 たしかに、地球の超古代文明をひきずった第1作と第3作の間にあって、ひとつとびぬけた設定と展開ではあるんだけれど、その分、単体としても楽しめる。邦画の場合、第2作目はたいがい前作よりも見劣りしたりするものなんだけど、この作品はそうじゃない。進化してる。それが凄い。

 おそらく、邦画の怪獣映画の中で、この作品ほど自衛隊がかっこいい作品はなく、人間と怪獣が共同戦線を張るというのはこういうことだと突きつけられているようで、そのあたりの清々しさがなんともいえない。そう、この作品において人間たちはちゃんと生きてる。石橋保が激烈な戦闘中に聖書をおもいだしてレギオンと名づけるのはちょっとありえないだろっていう突っ込みもあるけど、自衛隊というか軍人のある意味においてのかっこよさはしっかりと描かれている。

 いやまじな話、伊藤和典の脚本はこの作品では神がかってんじゃないかっていう感まである。戦争で東京を焦土にされた小林昭二の諦観ともつかない「今度こそ守ろうや」という台詞を筆頭に、随所に見られる自衛官たちのそれぞれの立場による言葉の数々は、逃げたって誰も文句はいいやせんというリアリズムに裏打ちされているようで、見ていておもわず唇をひきむすんでしまうほどだ。戦車の移動する際のリアリズムもそうで、昭和ガメラの常連大村崑の琺瑯看板での特別出演もあるが、ともかく、終始自衛隊はかっこいい。

 もちろん、自衛官だけでなく民間人の台詞もまたいい。子供たちのガメラへのおもいのつよさもぐっとくるけど、なんといっても水野美紀だ。軍人の妻となってもいいような「ご武運を」を台詞だけでなく、子供ような「ガメラの敵にはなりたくないよね」という締めくくりにいたるまで、終始、決まってる。

 ただ、水野美紀はなんでそんなに寒い中をいつもミニスカートでパンプスなんだっていう疑問もある。これはもしかしたら、生来のニンフで、ミニのまま吹越満がPCをいじってる机に腰かけたかとおもえば、台の上にいる彼女に対して永島敏行が手をさしかけるを無視してすたっと下りてしまったりと、常に男どもを惑わす妖しい魅力が無意識の内に備わっているんじゃないか。男ふたりが実家の薬局店を訪ねてきたときも「パワーバランス」といってミニスカートの奥を見せるような見せないような仕草でベッドに座る図など、どことなくあどけなさの残った顔を持ちながら、酒を隠し持っていたりするアンバランスさはまちがいなく男を虜にしてしまう凄さを秘めてるんだと見ながらおもってしまったのは、もちろん、ぼくだけじゃないはずだ。

 すごいぞ、水野美紀。

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ガメラ 大怪獣空中決戦

2014年11月26日 18時40分14秒 | 邦画1991~2000年

 ◎ガメラ 大怪獣空中決戦(1995年 日本 95分)

 英題 Gamera:Guardian of the Universe

 staff 監督/金子修介 脚本/伊藤和典 特技監督/樋口真嗣 撮影/戸澤潤一 照明/吉角荘介 美術/及川一 怪獣造型/原口智生 衣装デザイン/馬場紀子、長田好宣 音楽/大谷幸 主題歌/爆風スランプ『神話』作詞:サンプラザ中野 作曲:ファンキー末吉、斉藤かんじ、井上鑑 編曲:井上鑑、爆風スランプ

 cast 伊原剛志 中山忍 藤谷文子 螢雪次朗 本郷功次郎 小野寺昭 本田博太郎 長谷川初範 久保明 松尾貴史 袴田吉彦 渡辺裕之 渡辺哲 風吹ジュン 夏木ゆたか 石井トミコ 大島蓉子 真山勇一 木村優子 大神いずみ 古賀之士 永井美奈子 若林健治

 

 ◎特撮とボク、その62

 実に、おもしろい。怪獣映画の中では五指に入るんじゃないかって、ぼくは信じてる。

 いまさら物語をつづったところでどうなるものでもないから書かないけど、脚本の見事さに加えて、編集が小気味いいんだよね。予算の足りなさを編集が補ってる感じがひしひしとする。余計だなと感じたのは主題歌で、関係した人達には申し訳ないけど、ぼくは常に邦画の主題歌や挿入歌については見え見えのタイアップに嫌気がさしてるものだから、特別な場合を除いてすべて余計な物として排除したいっておもってるんだよね。

 この平成シリーズでいちばんの注目はやっぱりなんといっても螢雪次朗で、ぼくとしては本郷功次郎の出演が嬉しくてたまらないけど、螢雪次朗の師匠の螢雪太朗が『ガメラ対ギャオス』ですっ飛ばされてるのをおもうと、ほんと、このキャスティングは嬉しい。

 当時、ゴジラの復活が最初の一作を除いてあらかた期待外れに終わり、その絶望感に反してこの作品の圧倒的なおもしろさは意外をとおりこして驚きだった。金子修介はアニメや漫画の実写化においては世間の認めるところだし、ぼくも好きな監督のひとりではあるんだけど、この作品に関してはおもいきり拍手したいくらいだった。

 藤谷文子の素人くさい演技がちょっぴり辛いところでもあるんだけど、それはまあ仕方のないこととおもうしかない。とはいえ、さすが血はあらそえないっていうのか、存在感はあるんだよね。だから、この後もシリーズの狂言回し的な役割を演じていったのはよくわかる。

 物語についてよかったことは、ガメラの設定をまったくやり直したことで、ギャオスが孵化しなければガメラは蘇生しなかったというアトランティス文明の滅亡と希望のからくりは実に興奮もので、こののち、ゴジラでも似たような超古代史を組み込んできたのは失敗だったんじゃないかとおもうものの、こちらはいうことなしだ。もちろん、原口智生の造形もいい。子供じみたガメラやギャオスを脱却して、破壊的な印象が濃い。これがいいんだ。

 音楽もまたいい。大谷幸の主題曲はようやくにしてガメラのテーマが世に出たって感じがして、歓迎することこの上ない。昭和ガメラはもうギャオス以降はきわめて残念で、そのあたりは昭和ゴジラの後半期とほとんど同じで、特撮映画とともに育ってきたぼくにとってはとっても悲しい展開だったんだけど、そういう無念さを吹き飛ばすようなちから強さのある音楽なんじゃないかしら。

 ということで、ひさしぶりに観ても、やっぱりよかったわ。

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カリブの白い薔薇

2014年11月25日 23時01分15秒 | 洋画2005年

 ◇カリブの白い薔薇(2005年 スペイン、キューバ 94分)

 原題 Una Rosa de Francia

 staff 監督/マヌエル・グティエレス・アラゴン 原案/ホセ・マヌエル・ピエト 脚本/マヌエル・グティエレス・アラゴン、セネル・パス 撮影/アルフレッド・マヨ 音楽/シャビ・カペラス

 cast アナ・デ・アルマス アレックス・ゴンサレス ホルヘ・ペルゴリア ブロセリアンダ・エルナンデス ロクサーナ・モンテネグロ ヨライシ・ゴメス

 

 ◇20世紀の半ば、キューバ

 時代は、実をいうとはっきりしない。

 たぶん、どうでもいいのかもしれないんだけど、とにかく、密輸船に乗り込んでる連中がアメリカの巡視船に向かって「ヤンキーは朝鮮から出ていきやがれ!」というんだから、おそらく、朝鮮戦争の真っただ中なんじゃないかって気がするんだけど、どうもカリブ海の雰囲気を観てると、もう少しばかり前の時代なんじゃないかって。まあ、そういうくらい呑気な風情をかもしてて、時代考証ものんびりしたもんじゃないのかな~て感じの映画なんだけど、いかにもラテン系な感じでいいじゃんね。

 で、カリブ海といえば、中南米からアメリカへ密入国したいと望んでる連中がわんさかいるわけで、この物語の主人公である新米船員もやっぱりそんな望みを抱えてる。けど、アメリカの巡視船がそんなことは許してはくれないし、密入国者を乗せた船はかたっぱしから砲撃される。そんな中、この新米が船長を助けることで物語は展開する。船長は助けてくれたお礼にと娼婦の館へ連れていってくれるわけだ。この娼館は船長も経営に絡んでるらしく、マダムとは好い仲だったりもする。そこで、新米は16歳の美女とアナ・デ・アルマスと出会うわけだね。

 カリブの青い海に、銃撃と流血、そして娼館とくれば、もはや待っているのは恋と逃避行しかない。

 アナ・デ・アルマスは船長も大切にしていて、高く売れるんだから誰も処女を犯したら許さないとかいってるんだけど、ほんとは自分がかなり入れ込んでるわけで、そんなアナと恋仲になった新米を許しておけるはずもない。新米が船の中にアナを隠して出航し、アメリカ領の島へ向かったことを知ったらもうふたりを殺すしかないってことで、無人島での銃撃戦が展開し、ほんのちょっとだけ迫真性が漂ったかとおもえば、すぐにふたりの逃避行が成功するっていう簡単さはさすがラテン映画としかいいようがない。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 ひたすら、アナ・デ・アルマスの官能的な可愛らしさを愛でられればそれでいいんだとおもわれ。

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秘剣ウルミ バスコ・ダ・ガマに挑んだ男

2014年11月24日 12時13分21秒 | 洋画2011年

 ◇秘剣ウルミ バスコ・ダ・ガマに挑んだ男(2011年 インド 160分)

 原題 Urumi

 マラヤーラム語題 Padhinaitham nootrandu uraivaal

 英題 Urumi: The Warriors Who Wanted to Kill Vasco Da Gama

 staff 監督・撮影/サントーシュ・シヴァン 脚本・原案/シャンカール・ラマクリシュナン 製作/ポール・ハーダート、サントーシュ・シヴァン、キョウコ・ダン、スリ・ゴパラン、シャジ・ナテサン、ムビーナ・ラットンセイ、プリトヴィーラージ、ミリンド・ベラケール 美術/スニル・バブ 衣装デザイン/エカ・ラクハニ 視覚効果/ニール・カニンガム 編集/シュリー・プラサード 音楽/ディーパク・デーヴ

 cast プリトヴィーラージ プラブ・デーヴァ ジェネリア・デソウザ ヴィディヤ・バラン

 

 ◇16世紀、インド南部ケララ州

 胡椒に目が眩んだバスコ・ダ・ガマの侵略によって両親を殺されて故郷を焼かれた男プリトヴィーラージが、成長するかたわら剣の修行を積み、ふたたびインドへ上陸してきたバスコ・ダ・ガマに一矢報いるという物語で、もちろん、歴史上の真実を探ろうとするものではなく、ひたすら活劇に徹してる。とはいえ、冒頭とラストは現代にされ、プリトヴィーラージとプラブ・デーヴァのコンビが現代でも登場する。学校に提供していた自分の土地に鉱山の価値があると知って、それを求めた土地開発会社に売るかどうかというせちがらい話とバスコ・ダ・ガマの侵略とが掛けられてるわけだ。でもまあ、それも構成上そうなってるだけで、大切なのはやっぱり恋と歌と踊りなんだよね。

 ちなみに、題名にもなってるウルミなんだけど、これは実在する武器で、鋼鞭剣っていう。アジア武術の元祖ともされるドラヴィダ武術をもとにするカラリパヤットっていう武術で使うものらしい。このカラリパヤットはケララ州の発祥らしいから作品の舞台にも合致してるし、動きのあるヨガともいわれるほどで、医療や薬草マッサージも含み、関節を柔らかくしたりする身体の鍛錬法としても伝えられているそうだから、インド映画のモチーフとしてはもってこいの武術なんだろね、たぶん。

 ただ、みずからウルミを作り、それを手にして戦うのはいいんだけど、もうすこしウルミがらみの話っていうか、ウルミの凄さがきわだつ戦い方というか、そういうものが出てればタイトルと違和感もないような気がするんだけどな~。

 ところで、プリトヴィーラージは新進気鋭の役者らしいんだけど、ちゃっかり製作も兼ねちゃってるし、単にたれ目で濃いめの顔をしてるってわけでもないらしい。まあ、男優には興味がないので、ジェネリア・デソウザやヴィディヤ・バランのことだ。どうしてこうも綺麗なんだろう。スタイルも抜群だし、もう、インドに行って人生やりなおしたいくらいにおもっちゃうわ、いやまじで。

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友よ、風に抱かれて

2014年11月23日 00時16分51秒 | 洋画1981~1990年

 ◇友よ、風に抱かれて(1987年 アメリカ 112分)

 原題 Gardens of Stone

 staff 原作/ニコラス・プロフィット『Gardens of Stone』 監督/フランシス・フォード・コッポラ 脚本/ロナルド・バス 製作/マイケル・レヴィ、フランシス・フォード・コッポラ 撮影/ジョーダン・クローネンウェス 音楽/カーマイン・コッポラ

 cast ジェームズ・カーン アンジェリカ・ヒューストン メアリー・スチュアート・マスターソン ジェームズ・R・ジョーンズ

 

 ◇1968年、バージニア州フォート・マイヤー陸軍基地

 まあ、戦争映画っていうよりは明らかな反戦映画なんだけど、コッポラにしてはなんとも地味な小品っていう印象が濃い。どういうわけかこの作品が封切られたときのことはよく覚えてて、それほど観客もいなかった劇場に出かけて観、それで「へえ~」と感心し、ちゃんとした映画じゃんかとおもいながら帰ったおぼえがある。

 というのも邦題がいかにも友情物語のようで、ベトナム戦争の戦場と祖国を行き来するんだろかっておもってたのがまるで違って、アメリカの墓地と基地に終始した物語だったからだ。墓地というのはバージニア州のアーリントン国立墓地で、軍人の墓碑が並んでいることで知られる。原題の「石の庭」はもちろんこの墓地のことだ。このアーリントン墓地に戦死者を埋葬する役目を担っているのが第3歩兵隊(オールド・ガード)で、この部隊は米軍兵士の中では憧れの部隊のひとつらしい。

 で、そこで曹長となっているのがジェームズ・カーンなんだけど、恋人のアンジェリカ・ヒューストンはワシントン・ポストの女性記者で平和運動家でもある。つまりは戦闘にちょっと嫌気がさして、もはやベトナムに兵士を送り込むべきではないっておもいはじめてる。ところが、かつての戦友の息子D・B・スウィーニーが部下として配属され、こいつが戦意ばりばりの出征希望者だったことでひと波乱ある。結局、D・B・スウィーニーは恋人のメアリー・スチュアート・マスターソンと添い遂げることもなくベトナムで戦死するんだけど、こういう家族のようなものの死による喪失を見つめていくことで、しみじみとした反戦映画になってる。

 実に、うまい。

 すべてはメアリー・スチュアート・マスターソンが参列し、ジェームズ・カーンが差配する葬列、つまり、D・B・スウィーニーの納棺から始まり、回想によって構成され、そしてふたたび葬儀で終わるという形式なんだけど、かっちり構成された筋立てと、まったく無駄のない演出と編集で、見本のような映画に仕上がってる。

 さすが、コッポラだよね。

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北のカナリアたち

2014年11月22日 13時02分35秒 | 邦画2012年

 △北のカナリアたち(2012年 日本 130分)

 staff 原案/湊かなえ『二十年後の宿題』 監督/阪本順治 脚本/那須真知子 撮影/木村大作 美術/原田満生 音楽/川井郁子 編曲・音楽監督/安川午朗

 cast 吉永小百合 森山未來 満島ひかり 勝地涼 宮あおい 小池栄子 高橋かおり 藤谷文子 石橋蓮司 塩見三省 松田龍平 柴田恭兵 仲村トオル 里見浩太朗

 

 △20年前の宿題

 とかいわれるとなんとなく抒情的な感じがするんだけど、これはないわ~。

 ぼくはその昔、かなりのサユリストだった。だから、こういう意見を吐いてもいいだろう。

 末期癌の旦那がいて、その転地療養のために実家のある北海道最北端の離島にやってきてそこの分校の教師をしながら暮らしていたっていう設定からして、ちょっと待ってよとおもったりする。だって、もう旦那は余命いくばくもないんでしょ?だったら、もうすこし気候の温暖なところで過ごさせてあげたいっておもわない?それとも吉永さんは柴田恭兵にさっさと死んでもらいたいとはおもってたわけ?と聞きたくなっちゃうじゃん。

 分校の先生をして、子供たちの合唱を見ていくってのはいい。なんだか『二十四の瞳』みたいだけど、ちょいと比べるのはきついかもしれない。

 けど、そんなことはさておき、この作品はきわめて陰湿な話なんじゃないかっておもうんだよね。

 人間の心の奥底はわかんないんだけど、やっぱり吉永さんは夫殺しをたくらんでたんじゃないかって気がする。末期癌の人間をさいはての島へ連れていって、なかば放っておくようなことをすれば死期を早めるのは自明のことで、そんな夫がいるにもかかわらず、若い刑事くずれの警官仲村トオルと不倫するんだから、もはや、夫への愛情なんてものは冷め切ってる。夫もそれがわかってるもんだから復讐心に燃えててっていうより、怒りに任せて犬を殺したりするほど心が捻じ曲がってるもんだから、海辺でバーベキューしてるときに「愛人に逢いに行ってこいよ」とかいって吉永さんを送り出してまもなく海へ飛び込む。

 生徒と助けるとかそういう人道的なことじゃなく、もはや自殺に近い。

 腹いせだよね。

 で、田舎の人間ってのは口さがないから、旦那をおいて不倫しているすきに旦那が自殺まがいの死を迎えたっていう事実が島中に広がる。当然、島にはいられないよね。ここでおもうのは、子供たちにしてみれば裏切られたっていうおもいが強いわけで、いくら先生のことが好きでも、自分たちをおいて乳繰り合ってたばかりか、その間に旦那が死んじゃったりした教師をいつまでも好きでいられるんだろうか?そのあたり、まるで現実味がない。やっぱり『二十四の瞳』にはおよばない。

 で、20年後だ。

 どうして成長した生徒たちはみんな自分たちを裏切った先生に対して素直なんだろう。いや、それどころか、先生もまたなんで反省の色が見られないんだろう。子供たちの心配をしてるお節介な元先生って感じにしか見えなくて、そもそも生徒たちの心に深い傷をつけたのが自分だっていう意識がほとんど見られない。こういう演出はないわ~。それと、現代が舞台になったとき、吉永さんは一挙に脇役になっちゃうんだよね。そりゃあ子供たちのつながりの話になるんだから仕方ないにせよ、どうしてみんながみんな画一的なんだろね。

 吉永さんがいつまでも綺麗なのはわかる。

 20年前を演じるための若づくりもまあいろんな意見はあるもののやっぱりたいしたものだ。

 けど、いつまでも可憐でいいはずがない。島を追われ、図書館の司書になって人目を避けるように暮らしてきたんなら、もっとぼろぼろになってて、髪も真っ白で生活ももうちょっと惨めな感じでいた方がよかったんじゃないかしら。モデルルームのような綺麗なマンションに棲んで、引退して悠々自適に棲んでる独身元教師に見えちゃう。過去の自分のしでかしたことへの戒めもないし、島の暮らしは忘れ去られてるし、だいいち、置いてきた父親の里見浩太朗との関わりはどうなってんだろう。つまり、吉永小百合という映画女優を汚すことはご法度なのだね。そのために、どんな汚れ役であろうとも綺麗にしないといけないような不文律ができちゃってるのかもしれない、それも製作者側の無意識の内で。恐ろしい話だ。

 でもさ、ほんとうに吉永さんのことをおもって、欧米の映画に負けないようなリアリズムの映画を作ろうとするんなら、とことんまで老けメークをして、みじめな環境に追い込んで、自分の不倫中の夫の自殺はなかば夫殺しともいえるような自戒の中で生きてて、かつての教え子を訪ねてもけんもほろろの扱いをされて、それでも生徒のことが心配だといったら「この偽善者がっ」と怒鳴られるくらいな役どころでないとダメだったんじゃないかっておもうんだよな~。

 ま、余計なお世話かもしれないけどさ。

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あるスキャンダルの覚え書き

2014年11月21日 23時50分29秒 | 洋画2006年

 ☆あるスキャンダルの覚え書き(2006年 イギリス 92分)

 原題 Notes on a Scandal

 staff 原作/ゾー・ヘラー『あるスキャンダルについての覚え書き』 監督/リチャード・エア 脚本/パトリック・マーバー 撮影/クリス・メンゲス 美術/ティム・ハトレー 衣装デザイン/ティム・ハトレー 音楽/フィリップ・グラス

 cast ジュディ・デンチ ケイト・ブランシェット エマ・ケネディ シリータ・クマール

 

 ☆1997年2月26日、メアリー・ケイ・ルトーノー逮捕

 メアリー・ケイ・ルトーノーはアメリカ合衆国の元既婚女性教師で、児童レイプの罪で懲役7年の刑を受けたんだけど、結局、この生徒と結婚し、2人の娘を妊娠出産したことで知られてる。その顛末を記したのがゾー・ヘラーの原作なんだけど、どうも映画の中身とはかなりちがってる。というのも、メアリー・ケイ・ルトーノーはケイト・ブランシェットの演じた女性教師で、本編の主役はジュディ・デンチ演ずるストーカーといってもいいようなレズビアンの女性教師だからだ。

 冒頭、映画はおぞましい展開をまるで想像させない静かさから始まる。実に戒律的な模範教諭であるジュディ・デンチは、もはや老年ながらも周りから筋のとおりすぎた四角四面で禁欲的な勤勉教師として一目置かれている。けど、実は女性にしか興味をもてない性癖を抱え、常に相手とした女性を徹底的に束縛し、支配しなければ気がすまない。つまりは、レズビアンのストーカーだ。この餌食になりかけたのがケイト・ブランシェットなんだけど、彼女もまた誰にも知られたくない性癖があった。というより、不道徳な恋に落ちた。15歳の生徒との恋で、美術教室でセックスしてしまったところをジュディ・デンチに目撃されたことから、この複雑な関係が恐ろしい悲劇に向かって急な坂を転げ落ち始める。つまり、とんでもない醜聞が露見するわけだ。

 ジュディ・デンチもケイト・ブランシェットも、決して褒められることも尊敬されることもない女性像を生々しく演じてる。そのあたりはたいしたものだけど、そもそも役者というものは、こういう恐ろしいちょっとばかり精神の破綻した役どころを見事に演じてこそ、価値がある。ていうか、真価を問われる。やっぱり、欧米の俳優はたいしたものだ。

 性癖というのは底知れぬ恐ろしさを秘めていて、それは別に特別なことじゃなくて、誰にでも当てはまる。あるとき、自分でも知らなかった性癖に気づく者はまだしも、気づかない内にとんでもない性癖に溺れてしまっていることだってある。そうなると、もはや取り返しも引き返しもできず、どんどんと泥沼に嵌まっていく。ジュディ・デンチの性癖がまさしくそれで、職を失うことになろうとも、どんな手を使ってでも支配しようとした獲物を追い求めてやまない。ところが、いったんふられてしまうと、その熱情は狂気じみた憎悪に変わり、相手のすべてをとことんまで潰そうとする。ケイト・ブランシェットの場合、ジュディの怒りを買ったのが生徒との不倫というとんでもない醜聞だったから、なおさらだ。けど、ジュディの恐ろしさは、そんなケイトへの熱情が冷めるとまったくなかったことのように次なる獲物を追い求め始めることだ。

 ただ、こういう人間は決してめずらしくなく、それどころか誰にだって大小の差はあれ、あてはまる。

 だから、この映画はおもしろくて、なまなましいのだ。

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さよなら。いつかわかること

2014年11月20日 18時56分01秒 | 洋画2007年

 ◇さよなら。いつかわかること(2007年 アメリカ 85分)

 原題 Grace is Gone

 staff 監督・脚本/ジェームズ・C・ストラウス 製作/ジョン・キューザック、グレイス・ロー、ガルト・ニーダーフォファー、ダニエラ・タプリン・ランドバーグ 撮影/ジャン=ルイ・ボンポワン 美術/スーザン・ブロック 衣装デザイン/ハー・グエン 音楽/クリント・イーストウッド 編曲/カイル・イーストウッド、マイケル・スティーヴンス

 cast ジョン・キューザック シェラン・オキーフ グレイシー・ベドナルジク ダナ・リン・ギルホレー

 

 ◇シカゴからフロリダ

 この頃、主夫って言葉が市民権を得てきたような気がしないでもない。そんなこともないか。一過性のものだったような気もするしね。そもそも男と女の立場の差ってのはいつできたんだろね。男は外で働くものだと威張ってた時代はたしかにあったけど、それは今となっては昔のことで、男は外で働いてりゃいいんだと叩き出される時代もまた今は昔の観がある。かといって主夫が歓迎されるかといえば、そうでもない。女性はやっぱり専業主婦が気楽でいいっておもうものなのかもしれない。

 で、この作品だ。

 ジョン・キューザックは主夫だ。シカゴのホームセンターで働いているものの、ダナ・リン・ギルホレーが陸軍の軍曹で現在イラクに単身赴任しているものだから、家の中の面倒はすべて見なければならない。娘ふたりはまだ幼いし、まったくめんどくさいことこの上ない。そんな中、ダナ・リン・ギルホレーの戦死の報せが届いてくる。けど、ジョン・キューザックはその事実を娘たちには語れず、悲しみを紛らわすようにいきなりフロリダへ旅立つ。キューザックはいつかわかることとはいえダナの死を語れず、毎夜、自宅の留守電に録音されたダナの声を聞くことしかできない。で、イラクへとつながっているフロリダの浜でようやく語るっていうだけの話だ。

 ロードムービーの秀作といってしまえば簡単なんだけど、現代のアメリカの一面を見つめてもいる。そうおもいつつも、家族ってのはいったいどこまで心のつながりがあるんだろうっていう世界共通の投げかけもまた為されてるような気がして、いやまあ、けっこうしみじみ父と娘の旅を眺めちゃったりするんだよね。

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オンリー・ユー

2014年11月19日 23時40分47秒 | 洋画1994年

 ◇オンリー・ユー(1994年 アメリカ 108分)

 原題 Only You

 staff 監督/ノーマン・ジュイソン 脚本/ダイアン・ドレイク 製作/ノーマン・ジュイソン、ケアリー・ウッズ、ロバート・N・フライド、チャールズ・B・マルヴェヒル 撮影/スヴェン・ニクヴィスト 美術/ルチアーナ・アリジ 衣装デザイン/ミレーナ・カノネロ 音楽/レイチェル・ポートマン 主題曲/ルイ・アームストロング『オンリー・ユー』 挿入曲/マイケル・ボルトン『Once in a Lifetime』

 cast マリサ・トメイ ロバート・ダウニー・Jr ボニー・ハント

 

 ◇デイモン・ブラッドリー

 役者というのはたいしたものだとおもわせるのは、この主演のふたり、マリサ・トメイとロバート・ダウニー・Jrは1980年代の後半、つきあっていたらしい。となると、別れてすぐの頃か、それとも別れるあたりかはよくわからないけれど、この作品の撮影があったことになる。出演するのが嫌だったかどうかはさておき、よくもまあノーマン・ジュイソンがキャスティングしたものだ。

 とはいえ、この映画が撮られたとき、ふたりはそろって低迷している頃で、実をいえばこの映画だって封切られたときの記憶はまるでない。マリサ・トメイは『いとこのビニー』で衝撃的なかわいさを披露したけど、それから10年間くらいはまるで記憶がない。ロバート・ダウニー・Jrも似たようなもので、なんだか、このふたりの経歴はよく似てる。だからといって、運命的ななにかがあるんじゃないかとまでおもったりするわけでもないけどね。

 まあ、それにしても、ジプシー占いで聞かされる運命の人の名前デイモン・ブラッドリーだけれども、いかにもありそうな、それでいて印象の強い名前なのはどういうことなんだろね。まあ、そう感じるのはぼくだけなのかもしれないんだけど、ずっと前にこの映画を観た後、中身はすっかり忘れてたんだけど、デイモン・ブラッドリーっていう名前だけはしっかりおぼえてた。

 なんだか、マリサ・トメイみたいな話だけど、ぼくにとってはものすごく印象が強かったっていうか、語感がよかったのかもしれない。だって「デイモン・ブラッドリーっていう名前が頭の片隅にあるんだけど、これってどんな人間だっけ?」みたいに、実在していたかあるいは実在しているかする人間の名前だっておもってたんだから、いやすごい。

 ただおもうのは、イタリアってどうしてこうも恋物語の旅行先に選ばれるんだろね。『ローマの休日』の影響がいまだに残ってるのかな。ほんとにふしぎなんだけど、イタリアには人間を恋の虜にするなにか特別な空気でも漂ってるんだろうか?

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八甲田山

2014年11月18日 18時00分10秒 | 邦画1971~1980年

 ☆八甲田山(1977年 日本 169分)

 英題 Mt.Hakkoda

 staff 原作/新田次郎『八甲田山死の彷徨』 監督/森谷司郎 脚本/橋本忍 製作/橋本忍、野村芳太郎、田中友幸 撮影/木村大作 美術/阿久根巖 助監督/神山征二郎 音楽/芥川也寸志

 cast 高倉健 北大路欣也 緒形拳 栗原小巻 森田健作 秋吉久美子 前田吟 大滝秀治 藤岡琢也 島田正吾 小林桂樹 神山繁 竜崎勝 東野英心 新克利 下条アトム 菅井きん 加藤嘉 花沢徳衛 田崎潤 浜村純 大竹まこと 丹波哲郎 加山雄三 三國連太郎

 

 ☆追悼、健さん

 2014年11月10日午前3時49分、高倉健死去。

 享年83。

 ぼくみたいな門外漢がなんかいったところでどうにもならないけど、健さんという人は映画俳優を超えたところにあるいわば孤高の存在だったような気がしないでもない。高倉健という映画俳優であるということをとことんまで突き詰めて、最後まで映画俳優として人生をまっとうした。だから、ほんとうの健さんがどんな人だったのかを知っている人間はもしかしたらきわめて少ないんじゃないかって気がしてならない。

 とっても明るくて、気さくで、おしゃべりで、さびしんぼうで、たとえていえば珈琲好きな近所のおじちゃんみたいな、しかも田舎っぺで、けっこう乱暴なところもあったりして、けど、物事の筋道や礼儀をとおしてないと機嫌が悪くなるような、そんなどこにでもいる人だったんじゃないかって想像したりするんだけど、それが映画になるとさらに寡黙で、いっそう頑なで、じれったいほど不器用で、情熱をおもいきり内に秘めた、求道的な稀れ人になる。それはそのまま高倉健という人間で、健さんの場合、どんな映画であろうともその役は「健さん」だった。それは演技が上手とか下手とかいったものではなくて、ある物語に高倉健という人間がそのまま放り込まれたような演じ方だった。でも、それでいいんだよね。

 で、この作品だ。

 健さんの映画はいくつも好きな映画があるけど『八甲田山』は群を抜いてる。なんでなんだろって自分でもおもう。わからない。わからないながら、なにかどこかで自分の趣向と映画に描かれてるものが合致してる。ま、そんな自分でもわからないものをここで記しておこうとしたところで記せるはずもないわね。

 この作品が封切られたとき、ぼくは高校生だった。もう観たくて観たくて、結局、授業を抜け出した。

 当時は土曜日も学校があって、半ドンといわれてて、午前中だけ授業があった。でも、四時間目まで授業を受けていることに耐えきれなくて、脱走した。ぼくの田舎には駅前の坂をちょっと下った右手の路地に東宝の封切館があった。もちろん、そこへ急いだ。当時は映画は斜陽で、邦画なんて特にそうで、田舎の封切館なんて道楽で開けてるとしかおもえないような状態だった。だから、いつ来てもがらがらだった。世の中では大ヒットといわれてる作品も、そうだった。もちろん『八甲田山』だって例外じゃない。ぼくをふくめて10人いたかどうかって感じだった。で、またがらがらか~とおもってたら、その中に知った顔があった。いまでは故郷で教師をしている男だけど、当時、ぼくと顔が似てるとかいわれてた。なんでいるんだよと聞いたら、向こうも同じ質問をしてきた。授業中だろと。ま、おたがいどうやって抜け出したかはともかく、一緒に観た。

 感動した。すげー感動した。

 雪の中をひたすら歩み続けるのが、なんだか大学受験の勉強の日々のようにおもえた。ぼくはまるで勉強しなかったし、だから浪人もしちゃったし、ほんとにぼくみたいな怠け者はめずらしいっておもうんだけど、でも、この映画を観た帰り道だけは「がんばって大学の門まで歩いていこう」とおもったもんだ。けど、大学受験のことよりも映画製作のことに興味がどんどんと傾いた。困ったもんで、結局、それは受験勉強から逃避に過ぎないんだけど、橋本忍の書いたものをかたっぱしから読むようになっちゃった。当時、橋本忍は『砂の器』や『八つ墓村』とかいった大作をつぎつぎにヒットさせてて、ぼくは大がつくほどのファンだった。

 その橋本忍の作品に、高倉健が出てる。

 もう観なくちゃいられない作品だったんだよね。

 当時の健さんは『幸福の黄色いハンカチ』『冬の華』『海峡』『新幹線大爆破』『野生の証明』『君よ憤怒の河を渡れ』『遥かなる山の呼び声』『ブラック・レイン』『四十七人の刺客』とか立て続けに出演してて、もう70年代の後半から80年代の健さんは大変な存在だった。『四十七人の刺客』だけ90年代だけど、ぼくの贔屓の作品はみんな当時に制作されたものだ。

 そんなこんな、ともかくいろんなことがごっちゃになって『八甲田山』はぼくの中で特別な映画になってるんだけど、そうかあ、健さん、亡くなったんだね。この作品の冒頭には4人の主演級の人達がクレジットされる。高倉健、 北大路欣也、加山雄三、三國連太郎の4人だ。もう、ふたり亡くなっちゃったんだね。出演者の人達もそうだけど、少なくない人が鬼籍に入ってる。健さんと三國さんといえば、もはや別格といっていいような映画がおもいうかぶ。内田吐夢の『飢餓海峡』だ。哀悼もかねて、ひさしぶりに観ようかなあ。

 ちなみに、こんなことをおもった。

 健さんの葬儀は近親者のみで執り行われたらしい。それでこそ、高倉健らしいけりのつけ方だとぼくはおもう。この先、ひょっとすると「健さんを送る会」とかいって、映画関係者や俳優の仲間たちが声を出し、集まり、やけに賑々しく、かつ仰々しく、なにごとかの会がどこぞの葬儀場あたりで催されるかもしれないけど、はたして健さんはそんなことを望んでるだろうか。健さんにお世話になった人がもしも健さんを送ってあげたいとおもうなら、誰にも告げずにひとりで一輪の花を手にしてお墓を訪ねればいい。そして、ゆっくりと健さんに語り掛ければいい。それをしないで、社葬のような大きな場に大輪の花束を掲げてもらいたいとか、そんな形ばかりのことを健さんは期待しているだろうか。

 断言してもいいが、それはない。

 そんなことをされてしまったら、健さんが83年間にわたって積み上げてきたものが音を立てて崩れてしまいかねない。ぼくは、そうおもう。別な考え方もあるかもしれないけど、ぼくの考えはそうだ。もしも、健さんを送ってあげたいとさまざまな人達がおもったのなら、邦画各社が寄り集って、健さんのフィルムをデジタルリマスター化し、新国立劇場あたりをまるっと1か月借り切って、健さんの主演映画100本を無料で上映すればいい。そうしたことが、おそらくは、文化勲章を初めて授与された映画俳優への野辺の送りとなるにちがいない。

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フォー・ウェディング

2014年11月17日 12時30分39秒 | 洋画1994年

 ◇フォー・ウェディング(1994年 イギリス 117分)

 原題 Four Weddings and a Funeral

 staff 監督/マイク・ニューウェル 脚本/リチャード・カーティス 撮影/マイケル・コールター 美術/マギー・グレイ 衣装デザイン/リンディ・へミング 音楽/リチャード・ロドニー・ベネット 主題曲/ウェット・ウェット・ウェット

 cast ヒュー・グラント アンディ・マクダウェル クリスティン・スコット・トーマス ローワン・アトキンソン サイモン・キャロウ ジョン・ハナー

 

 ◇生粋の英国人気質ってなんだ?

 ヒュー・グラント演じる32歳独身の英国人はそういう気質のために結婚し遅れてるらしい。けど、どんな気質なんだ、それ?っておもったりする。現在活躍している俳優の中で、ヒュー・グラントは稀有な存在といっていい。インテリジェンスにあふれながらも優柔不断で、お人好しで、たれ目で、顔が長くて、にもかかわらずナルシストで、けっこうわがままで、情にもろくて、甘ったれた小心者を演じたら右に出る者はいない。もちろん、この作品でもまちがいなくそうだ。で、英国人気質ってなんだ?

 そんなの知らね~よ。

 なんにしてもヒュー・グラントは、クリスティン・スコット・トーマスの重っ苦しい気持ちを知っているはずもないままに、結婚相手を探してるくせにまるで結婚する気もない呑気な怠け者で、時間にルーズで、女に手が早く、それでいて純真だったりする。けど、優柔不断なことは人後に落ちず、だから、本心も告げられないままに結婚へと流され、ほんとなさほど好きでもないアンナ・チャンセラーと結婚式を挙げることになるんだし、さらに式の真っ最中、結婚の誓いを破棄してぶん殴られるという、史上最強の情けない男にまで落ちていく。

 これが生粋の英国人気質なのかどうかはわからないけど、要するに典型的なダメ男だ。

 ところが、ヒュー・グラントって人はほんとに得な人だね。どんなに不幸になっても誰かが手をさしのべてくれたりする。甘ったるいマスクのせいなのか、母性本能を刺激する風情のせいなのかわからないんだけど、この物語の役はヒュー・グラントにしかできないのかもしれないね。だって、自堕落な3枚目は誰にでもできるけど、それなのにアンディ・マクダウェル演じる超金持ちの超美人と結婚できることになっていくっていうとんでもない大逆転をすんなり受け入れ、観客もまたそれを認めちゃうような俳優はそんじょそこらにはいない。

 ただ、どうなんだろう、世の中の男どもはそんなヒュー・グラントに憧れるんだろうか?

 ちなみに、ぼくは憧れるぜ。

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スイートプールサイド

2014年11月16日 15時38分50秒 | 邦画2014年

 ◇スイートプールサイド(2014年 日本 103分)

 staff 原作/押見修造『スイートプールサイド』 監督・脚本/松居大悟 撮影/塩谷大樹 美術/塚本周作 衣装/眞鍋和子 特殊メイク/江川悦子 音楽/HAKASE-SUN 主題歌/モーモールルギャバン『LoVe SHouT!』

 cast 須賀健太 刈谷友衣子 落合モトキ 荒井萌 谷村美月 木下隆行 利重剛 松田翔太

 

 ◇これをフェチといわざるべきか

 そもそも思春期に、制服、ブルマ、スクール水着、太腿、パンスト、下着、乳房、髪、指先、体毛、そして性器などに執着するのは決して偏愛とはいいきれない面もあり、どちらかといえば健康的な男子の指向といってもいい。たとえば、戦時、出征する兵士たちは許嫁や恋人の陰毛を後生大事に手帳にはさみ、いついかなるときも肌身離さず戦い続けた。これがフェチにあたるのかどうか。ただ、女性の身代わりとなるようなものはすなわち物神であり、物神を崇拝することをしてフェチズムのひとつと考えられているから、人間はそもそも偏愛的かつ偏執的な知的生命体ということになるのだろう。

 で、毛である。

 体毛の濃さに悩んでいる女子高生と、体毛の薄さに悩んでいる男子高校生の物語とはまったくよくおもいついたもので、この発想はなるほどたいしたものだ。しかも、その女子高生が見事なまでに不器用かつ天然で、純粋無垢のおぼこ娘であり、ひるがえって男子高校生が陰毛がいつまでも生えてこないことに悩み悶えているほかは女子好きのするちょっぴりぷっくりしたつやつや肌をもった年の割には純情奥手とくれば、当然、美しい青春の展開が期待できるというものだ。

 これが、百戦錬磨のふたりだったら、というより、処女でも童貞でもない、ひねくれた存在つまり大人というどうしようもない生き物になりさがってしまったら、単なる変態物語にしかならないだろう。つまりは、きわめてすれすれの実にきわどいところでこの青春映画は成り立っているのである。

 毛の濃さに悩んでいる女子高生は、単に「毛を剃るのがうまいかもしれないし真面目だから口も堅そうだ」という、異性としてまるで意識していない男子高校生に「わたしの毛を剃ってくれない?」と頼む。これが青春のパンドラの匣を開けてしまうわけだけれども、女子高生にほとんど罪の意識はなく、単に恥ずかしいというだけの気持ちがあるのに対し、男子高校生の方はもうどうしようもないくらい妄想的性生活のまっただなかにいるだけでなく「この子すげー可愛いじゃん」ていうふしだらの塊みたいな気持ちを抱えているから、この温度差はもう破壊的ですらある。それが、ぼくらにはわかっているから、この映画はぎりぎりのところでおもしろいのだ。

「毛を剃ってくれない?」

 といわれたら、ふつう、陰毛を想像する。それは、ぼくたちが助平なおとなになってしまっているからで、天然ボケの女の子とおぼこ娘はどこの手かわからないし、毛が濃くて悩んでいるとか聞いたら「あ、腕か脚ね」と考えがちだ。この差が、徐々に興奮度をあげていくわけで、それが「腋毛」となったとき、ちいさなピークに達する。

 そう、腋毛。

 腋というのは、股に匹敵するほど魅惑的なものであることはうたがいなく、腋フェチは立派なフェチのひとつと考えられるし、腕や脚の毛を剃ってあげるくらいまだまだ興奮度は低いが腋を剃ってほしいといわれた途端、男子高校生の興奮はいっきょに沸点ちかくまで昇り詰めるだろう。実際、毛が生えている腋を覗き込んだときの須賀健太はそうだった。

 結局、かれの興奮が爆裂したときには「お願いだからあそこの毛を剃らせてくれっ」と土下座することになるし、いろいろあって感情をおさえきれなくなった刈谷友衣子もまたやけのやんぱち売り言葉に買い言葉となって「じゃあ、剃らせてあげるわよっ」と叫んだときに、ふたりの関係は爆裂し、プールに落ちていくことになる。こういうところ、たしかに大仰ではあるんだけど、青春ドラマの照れ臭くもついつい見ちゃう王道的な展開だろう。

 ただ『アフロ田中』のような、どはずれてくだらない物語ほどに突き抜けたものが感じられなかったのは、どういうことだろう。やはり、主人公はあまりにも好い子すぎたのだろうか。まあ、こういう映画はいろんな分析するのも愚かだし、楽しめたんだからそれでいいか。

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キャスト・アウェイ

2014年11月15日 18時40分23秒 | 洋画2000年

 ◇キャスト・アウェイ(2000年 アメリカ 144分)

 原題 Cast Away

 staff 監督/ロバート・ゼメキス 脚本/ウィリアム・ブロイルズ・ジュニア 製作/スティーヴ・スターキー、トム・ハンクス、ロバート・ゼメキス、ジャック・ラプケ 撮影/ドン・バージェス 美術/リック・カーター 衣装/ジョアンナ・ジョンストン 音楽/アラン・シルヴェストリ

 cast トム・ハンクス ヘレン・ハント ジェニファー・ルイス クリス・ノース

 

 ◇FedExとWilson

 ハリウッドの俳優はときおりとてつもない減量をしたり、強靭な肉体を造ったりする。かれらの芝居に対する態度はとても真摯なもので、こういうところ、どの国とはいわないが、役者なのかタレントなのかよくわからない中途半端な感じのする人々は見習ってほしいとおもったりする。その昔、老いさらばえた役だからと歯を抜いてしまった役者もいるにはいたが、ハリウッドの役者たちのような凄さはもうない。

 で、トム・ハンクスなんだけど、がんばってる。

 物語の出だしと最後では体重差が25キロあるそうだ。たしかに痩せこけてる。たいしたものだっておもうし、髪や髭についても同様だ。もっとも、かれの場合、もともと大柄なせいもあってそんなに減量したのかっておもわせちゃうところもあるけど、全編の約8割をひとりで芝居しなくちゃならなかったわけだし、当然、その肉体も目立つことがわかってるから徹底した減量とメイクの必要には迫られたにちがいない。役者根性の凄さだ。

 ロバート・ゼメキスはこういう大掛かりなエンターテイメントはお得意なんだろうけど、それでも相当な予算が掛かったんだろうか。国際航空貨物取扱業のFedEx Corporationの敏腕社員という設定で、もう画面のいたるところにロゴが登場する。けど、FedExもたいしたものだなっておもうのは、自社の航空機が墜落し、荷物もばらばらになったりして、もう大変な状況に追い込まれる話ながら、文句のひとつもつけないところだ。映画と現実とは違うんだと胸を張っているところは、実にたいしたものだ。映画なんだから楽しんでくれればいいのさという声まで聞こえてきそうだ。タイアップってのはこうやってやるんだっていう見本みたいなものだよね。

 タイアップといえばもうひとつ。

 ウィルソン・スポーティング・グッズ社のバレーボールだ。そもそも、ぼくたち日本人にはあまり多くないかもしれないけど、アメリカ人は愛用品に名前をつけるのは大好きだ。だから、孤独な人生を送っている人間はときおり大切にしている物に名前をつけて話をする。たったひとりで無人島に漂着しちゃったんなら、なおさらだ。この設定がよくできてる。というのも、トム・ハンクスが怪我をし、おもわずバレーボールに血の手形がついてしまったことで、まるで炎の化身が刻印されたかのように見え、それにちょっと手をほどこしていかにも赤ら顔の相棒のようにして、ウィルソンと名づけるんだけど、いや、よく考えてるよね。

 だって、孤独な人間にとって、独り言を喋るよりも、なにか話し相手になる物があった方がいいわけで、それは鏡の中の自分だったり、写真だったり、絵だったりするんだけど、ともかくそこに目鼻のある物でないと話し相手にはなりにくい。だからボールじゃダメなんだけど、手形による顔で、しかもそれが自分の血であればもはや分身に等しい。これでトム・ハンクスの鬱はすこしは治まるし、なにより観客に対して心模様を語って聞かせられるという抜群の効果まで生み出す。

 劇中、トム・ハンクスは何度「ウィルソン」って呼ぶんだろう。もはや数え切れない。さらには途中からウィルソンにはなんの植物かわからないけど毛も生えて、どんどん擬人化が進んでくる。バレーボールだから当然受け答えてくれるわけもないんだけど、話が進んでいく内に妙な実在感が漂い始める。いや、実際、ウィルソンは大切な相棒となり、筏に乗って島から脱出していくときも一緒に行く。けど、やがて離れ離れになって海へ消える。これって、無人島という異世界から現実の社会へ戻るときの儀式のようにも感じられる。もはや、バレーボールの相手はいらない。これからは生きた人間が相手になるんだっていうような。ともかく、こういうところはうまい。

 まあ、解釈はいろいろあるだろうけど、ウィルソン社にとってはほんとに拍手物だよね。

 ところで、最後まで開けなかった羽の描かれた箱なんだけど、この中身については実はどうでもいい。トム・ハンクスがそれまでの恋人が待ってくれているものと信じていたところで、現実はなかなか夢のようにはいかない。いろんな事情と機会が重なり、別れざるをえなかった。ところが、Federal Expressの勇気ある社員トムは、この羽の箱を届けることにこだわる。それは自分の仕事に対する義務感や責任感つまりは誇りを最後まで持ち続けるってことにつながるんだろうし、なにか運命的なものを感じたのかもしれない。で、その運命は、羽をモチーフにしている芸術家で、しかも冒頭では結婚していたはずが最後の場面では離婚しているっていう展開で、ふたりの次なる恋へ導くものになるわけだから、中身なんざどうでもいいんだよね。

 こういう展開は嫌いじゃないけど、ちょっとここにいたるまでが長いんだよな~。

 もうちょっと刈り込めなかったんだろかっておもうんだけど、無理か~。

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アンダー・ザ・スキン 種の捕食

2014年11月14日 21時37分04秒 | 洋画2014年

 ◇アンダー・ザ・スキン 種の捕食(2014年 イギリス 108分)

 原題 Under the Skin

 staff 原作/ミッシェル・フェイバー『Under the Skin』 監督/ジョナサン・グレイザー 脚本/ジョナサン・グレイザー、ウォルター・キャンベル 撮影/ダニエル・ランディン 音楽 /ミカ・レヴィ

 cast スカーレット・ヨハンソン ジェレミー・マクウィリアムス クリシュトフ・ハーディック

 

 ◇捕食することの意味?

 ヨハンソンが一枚一枚服を脱いで男を誘い込み、コールタールの海の中に沈めて体内の水分をなにもかも吸収してしまうという、ただそれだけの狩りを続けているわけだけど、このコールタールなのに水中に入っちゃうと透明にも感じられる不思議な海の正体はいったいなんなのだろう?

 森の中でレイプされかけたときに現れるヨハンソンの正体もまた真っ黒な生命体なんだから、おそらくはあのコールタールの海は映像的な象徴であって、おそらくは異星人であろうヨハンソンの正体が咥え込んで、皮だけ残してすべて吸い取ってしまったのだと考えるのがいちばん妥当なのかもしれない。

 ただ、ヨハンソンの捕食する相手は常に男で、それも海に落ちた夫婦を助けようとして溺れた男を石で殴り殺して運び去ったことを除いて、すべて、自分の色香によって誘い込んでいる。つまり、ヨハンソンは自分の容姿が官能的な魅力を備えていることを承知しているわけだ。もっともこの姿態のせいで、ラスト、木材運搬車の運転手に強姦されかかることになっちゃうわけだから、なんとも皮肉なものだよね。

 ま、それはいいとして、ヨハンソンはおそらく雌で、本物のオートバイレーサーでもあるジェレミー・マクウィリアムスが演じているオートレーサーはほとんど疾走しているだけなんだけど、彼はもしかしたら冒頭にあったように女を獲物にしているんだろうか?

 ヨハンソンがエレファントマンに似た顔の崩れた男を誘い込む場面はちょっと居たたまれないものがあるんだけど、それは言及せずに場面のもたらす結果だけをいえば、ともかくこの男によってなんでか知らないんだけど、人間の美醜と生きていくことの意味について悩み始めるんだよね。食べ物を口に入れてみたいとケーキを食べてみるもののまるで受け付けず、ほんとうのセックスをしてみたいと挑戦するものの外見だけのヴァギナではペニスを受け入れられるはずもないのに、あれこれ挑戦する。もともと色香で誘い込むっていう男の心理はよくわかっているのに、地球の食べ物とセックスについてはまるで無知というきわめてアンバランスな異星人ということになる。

 けれど、この異星人は人間の水分を吸いつくすか、人間の皮をかぶって成り済ますことのほかにはなにもできないという奇妙な異星人で、しかも恐ろしく弱い。だから木材運搬車の運転手に強姦されるがままになっちゃうんだけど、服を一枚ずつ引き破られていく内に、かぶっていた皮膚までも引き裂かれてしまうという惨めさはどうだろう?

 こんなふうに見てくると、実はこの異星人、単なる心象風景だったということも考えられる。

 独立問題で揺れるスコットランドのなんとも陰鬱な大気の中で、たとえば、拒食症の女性がいたとしよう。彼女はもともと均整のとれた体つきをしている。つまり、男好きする肉体を持っている。しかし、処女だ。それも、性に関しては稀有なほど未熟だ。ただし、過去に何があったのかトラウマを抱えており、余人では想像もおよばぬような殺戮願望を抱えている。彼女は行動に出た。強姦されて殺された女をまのあたりにしたとき、突き上げるような衝動に襲われ、死体の顔に似せた化粧をし、それまでとはまるで他人になったような肉感的な格好をするようになり、つぎつぎに男を誘い出し、殺した。死体は腹を裂いておもりをつけ、水中に投棄した。しかし、すべての女性から忌避されるような男を誘ったとき、殺すことができなかった。彼女は変貌した。拒食を直そうと挑戦した。けれどダメだった。男を殺さずにセックスを受け入れようとした。けれどダメだった。自暴自棄になり、樹海をさまよった。そのとき、強姦されかけた。逃げた。だが、捕まり、石油をかけられ、殺された。もしも、この彼女が自分は異星人だと信じていたとしたら、どうだろう。この作品と寸分たがわぬ物語になっちゃう。

 スカーレット・ヨハンソンはほんとうに異星人だったんだろうか。真っ黒な顔と肉体は、彼女の心象風景だったのではないのか。だとしたら、捕食というのはすなわち殺戮を意味しているのに過ぎないのではないのか?

 そんな気にさせる物語だった。

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