◎ウォルター少年と、夏の休日(Secondhand Lions)
ハーレイ・ジョエル・オスメントは見るからに好い子で、なんでこんな子が強欲のかたまりのようなキーラ・セジウィックのひとり息子なのかっていう出だしで、そこへもって偏屈のかたまりのような大叔父がロバート・デュバルとマイケル・ケインっていう展開はいかにもコメディの鉄則を踏んでるんだけど、まあ、おもしろかった。
豚が一匹、犬たちに混じっていつもへこへこついてくるのも、愛嬌あるし。
◎ウォルター少年と、夏の休日(Secondhand Lions)
ハーレイ・ジョエル・オスメントは見るからに好い子で、なんでこんな子が強欲のかたまりのようなキーラ・セジウィックのひとり息子なのかっていう出だしで、そこへもって偏屈のかたまりのような大叔父がロバート・デュバルとマイケル・ケインっていう展開はいかにもコメディの鉄則を踏んでるんだけど、まあ、おもしろかった。
豚が一匹、犬たちに混じっていつもへこへこついてくるのも、愛嬌あるし。
◎ライフ・オブ・デビッド・ゲイル(The Life of David Gale)
性的異常者に味方することで有名とされる記者をケイト・ウィンスレットが演じてるんだけど、あいかわらず性格のきつそうな演技だ。
これもまたあいかわらず露出をしぼった渋い画面。気持ちよく影が黒に潰されてる。いかにも、アラン・パーカー。ミシシッピー・バーニングをおもいださせる不気味な迫力だなあ。刑務所の中を案内されるとき、こんなふうに言われる。
「ここは日本庭園だ。コインを投げ込まないでくれよ」
アメリカらしいなあ。
ちなみに、ケビン・スペイシーは、ジャック・ラカンの言葉を引用して講義をしてる。
「夢想は非現実的でなければならない。実現するとたちまち興味が失せてしまう。生きるためには夢は決して叶えられてはならない。我々が欲するのは、それではなく、それの幻影。欲望が叶うはずのない狂おしい夢を育む」
また、パスカルも引用する。
「人は将来の幸せを夢見る時だけ幸せである」
そしてケビン・スペイシーはこんなふうに結論づける。
「夢を生きがいにすると決して幸せは得られない。知性と理想を持って生きるのが充実した人生。夢が叶うか叶わないかで人生の価値は決まらない」
さらに死刑前日、ケビン・スペイシーはケイト・ウィンスレットにこんな謎かけをする。
「人は日々、死を遠ざけようとする。そのために食べ、工夫し、愛し、祈り、闘い、殺す。だが死の何を知ってる?そこから誰も戻らない場所?だが、ふと人は気づく。ある一瞬、人の心は欲望とか執念を、乗り越える。習性が、夢に勝つんだ。多くを失うと死は喜びだ」
達観したよーな台詞だな~とかおもってると、なかなかそんなではなかったことが、結末のどんでん返しで見えてくる。ローラ・リニーが白血病だってことがわかると、いよいよ、謎めいた事件が明らかになってくる。死を宣告された女がどれだけ強いかってことになるんだけど、死刑を宣告されたようなもので、これはかならずやってくる死なんだけど、死刑は止めることができるというのが、ローラ・リニーの主張するところなんだろうね。それで、その主張のとおりに、マット・クライヴンとケビン・スペイシーが仕掛けてくるっていう寸法なんだけど、う~ん。
つまり、ケイト・ウィンスレットは嵌められたことになるのは、わかるんだけどなあ。
アラン・パーカーも、ラストについて、二重三重のどんでん返しを仕掛けるかどうしようかは迷ったんだろう。その上で、すべて、死ぬことも死刑になることもさらにこの事件のからくりが発見されるであろうことも仕組まれた上でのことという描き方が最善なんだろうと確信したにちがいない。う~ん、どうすればよかったんだろうね、筋立て。
◇キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(Catch Me If You Can)
アメリカ人はこういうドタバタの追いかけっこが好きなんだろうけど、ださい昔気質の日本人の僕はどうにもこういうバタ臭い喜劇はお好みじゃない。1968年の16歳の高校生に翻弄されるFBIや社会人や女の子たちの滑稽さを笑い飛ばすのがどうにも苦手なんだよね。とはいえ、フランク・W・アバグネイル・Jrっていう今では経営コンサルタントになってる人物の実話っていうんだから、すごいわ。
ただまあ、なんていうか、ディカプリオはさておき、スピルバークの往年をとっても朗らかに感じさせるっていうか、トム・ハンクスと組むのが彼の場合はちょうどいい息抜きみたいになってるんだろうか?
◎ティアーズ・オブ・ザ・サン(Tears of the Sun)
前半30分、ブルース・ウィルスがモニカ・ベルッチだけ救出してナイジェリアの民を見捨てるところから、俄然、おもしろくなる。単なる救出作戦から、アフリカの現実との戦いに移行していくんだけど、そのあたりがなんか凄い。
◎殺人の追憶
華城連続殺人事件とかいうのは韓国ではかなりよく知られた連続婦女暴行殺人事件らしいんだけど、まるで知らなかった。
しかし、ソン・ガンホは上手だな。気がつくとこの人の出た映画はよく見てるみたいなんだけど、ごく普通のおじさんみたいなところがリアルなんだろうな。邦画はこうはいかないんだよね。
ソン・ガンホはともかく、雨の日に狙われる女性はみんな赤い服を着ているっていう設定は、なんだか『駅―station―』をおもいだした。もしかしたら、年代的にいって、赤いスカートを烏丸せつこが履いてたのは、この事件が倉本聰の脳裏をよぎったんだろうかとかっておもっちゃったわ。
ポン・ジュノの作品は『グエムル―漢江の怪物―』と『母なる証明』とかを観てるけど、うん、ちからがあるよね。
△FEAR X フィアー・エックス(2003年 デンマーク、カナダ、イギリス、ブラジル 91分)
原題 Fear X
監督 ニコラス・ウィンディング・レフン
出演 ジョン・タトゥーロ、デボラ・カーラ・アンガー、ウィリアム・アレン・ヤング、マーク・ホフトン
△赤いホテル
妻ジャクリーン・ラメルを撃ち殺したのは誰なのか、またその理由はなんなのか。
ジョン・タトゥーロはそれだけを求めて妻が殺害されたウィスコンシン州のショッピングモールの警備員になり、日々、怪しい人間を追い、防犯カメラの映像をひたすらチェックし続ける。同時に、ジョン・タトゥーロは妻の幻想を見る。妻は常に自分に笑顔を向けるものの自分から離れていく。自宅でも、自宅の前でも、宿泊したホテルの部屋でも廊下でも、暗闇の中へ去っていってしまう。
それは死ということなのだろうけど、自宅の正面に建っていて数年先まで団体契約が結ばれている平家にだけは、雪のふりしきる中、明瞭な映像で入っていく。ということはもしかしたらこの幻想だけは現実なのではないか。ジョン・タトゥーロはそうおもって人気はないながらも毎日夕方になると明かりの灯る不気味な家1329番地へ潜入する。
そこでジョン・タトゥーロはフィルムを見つける。フィルムに映っていたのはモンタナ州ルート200にあるレストラン「スティーヴ&ニッキー」の前で戯れる母子だったが、ジョン・タトゥーロにその母子の記憶はない。けれど、その写真を撮ったとおぼしき野郎がドアに映りこんでいた。この野郎は防犯カメラに映っていたピンボケ野郎ジェームズ・レマーだった。
ジョン・タトゥーロはモンタナ州へ急ぎ、かつて妻と訪れたことのある思い出の町モリストンのベル・ホテル305号室に宿泊し、野郎と母子を探していくのだが、野郎はその土地で表彰までされる警官で、母子はその家族だった。どうやら、この野郎は警察のからんだ大掛かりな事件に関与しているようで、その事件に妻も引き摺り込まれていた可能性があることだけはわかった。
しかし謎解きはここまでで、あとはジョン・タトゥーロが怪我を負わされ、モリストンから追い返されるところで物語は終わってしまう。なんじゃこれは!という怒りだけが、ぼくたちに残るのだね。好かったのは売春婦役のアマンダ・オームスがやけに綺麗だったことくらいだ。
まあ、野郎が、その汚職事件だかなんだかに手を染めているとき、ウィスコンシン州へ出張するたびにジョン・タトゥーロの妻と不倫をしていたわけで、たぶん、妻は事件についてもなにか知っちゃったんだろうね、で、殺された。野郎ジェームズ・レマーとしては、この事実を明るみに出されたくない。けど、奥さんのデボラ・カーラ・アンガーは感づいちゃう。このときの追い詰める演技は上手だね。で、これはいかんということで、野郎はベル・ホテルへ乗り込み、503号室へジョン・タトゥーロを呼び出し、幻想的な赤い廊下で殺人未遂をしでかすわけだけれども、やけにいろんな数字にこだわった不思議な雰囲気の映画だった。
単調に進んでいくんだけど、妙な緊張感がある。ずっと奥さんを殺した犯人を突き止めようとしているのを撮ってるからそうなるんだろうけど、でも音楽もないし、行動的なところもない。ただ、効果音っていうのか、空気を震わせるような微妙な音がずっと続いてる。けっこう、鼓膜に残る。濃密な雰囲気なんだよね。警備員をしているスーパーマーケットが騒々しい分、家のある住宅地の森閑とした空気との差がかなりあって余計に緊張感を生んでたかな。
けど、脚本がどうにも中途半端で、赤い部屋と廊下とプールのような雫のような幻想的な映像だけが突出してた。もうちょっとなんとかなったんじゃないかっておもうんだけど、幻想的な雰囲気を濃厚にしたいんならそれ相当の演出もあったろうに、物足りなさがいっぱいだね。
◇ロスト・イン・トランスレーション(2003年 アメリカ 102分)
原題 Lost in Translation
監督・脚本 ソフィア・コッポラ
出演 ビル・マーレイ、スカーレット・ヨハンソン、竹下明子、明日香七穂
◇おしゃれ階級の孤独
日本以外の国で上映されるとき日本語の台詞に字幕はつけられていないらしい。となると、ぼくたち日本人あるいは日本語を理解している外国人だけが日本人とビル・マーレイとの間に起こっている意思疎通について理解できるというわけなんだけど、それにしても、ここに出てくる日本人はなんでひとり残らず鼻持ちならないんだろう?
で、旅をしていると、人間、どうにも孤独に苛まれるものだ。ぼくもひとりで旅に出ているとビル・マーレイと似たような気分になる。旦那について旅行に行って旦那だけが仕事で出歩いて自分はホテルやその近辺に滞在しているっていうスカーレット・ヨハンソンの設定もわからないではないけれど、これは日本人の夫婦の場合あまり考えられないな。だからこちらについてはさておき、ビル・マーレイのような出会いはもちろん滅多にない。ある方が稀だし、だからこそ映画になるんだろうけど、どうにもラストが見えてしまっているものだから、やけに緩慢さが目立ってきて、途中からもういいんじゃないか遠回りしてなくてもと声をかけたくなっちゃうんだよね。だって、これが東京や京都じゃなかったらよかったかもしれないんだけど、ぼくにはこの映画に異国情緒は感じられないんだもん。
だから、そうだな、15分は刈り込んでほしいな。ぼくはそうおもうんだけど、どうやら欧米の批評家たちはそうおもわないらしくて、そこらじゅうでこの映画があれこれ受賞しているらしい。そんなものなんかな~。
◇閉ざされた森(2003年 アメリカ 98分)
原題 Basic
監督 ジョン・マクティアナン
◇熱帯雨林の密林
それがパナマとくれば、もう、麻薬しかない。
案の定、ジョン・トラボルタは麻薬取締局捜査官として登場する。しかも、元レンジャー隊員であり、かつ、今は麻薬密売の容疑までかけられているという設定で、しかも尋問の達人てな扱いだから、まあこの妙に完璧ながらも黒白判然としない人間が登場すれば、このまま捜査を続けて大団円まで持ち込むかあるいはどんでん返しで真犯人の黒幕になるかのどちらかしかない。
で、もうひとりの主役であるサミュエル・L・ジャクソンがやけに最初から悪役で、くわえて豪雨と人間の心によって閉ざされたパナマの密林で、レンジャー小隊を全滅させてしまいさらには自分もまた何者かに殺されちゃってるとかってことになれば、これはもう途中から重要な回想場面に登場してきて事件の鍵を握っているかあるいは黒白どちらかの人間として生きているってことになるんだけど、後者の場合はたいがい好いもんってことに相場が決まってる。
さらにいうと、ジョン・トラボルタの相手役になるコニー・ニールセンなんだけど、彼女の場合、ただ単にトラボルタの助手的なあつかいで狂言回しをするだけなのかといえば、それはちょっともったいないし、そういう立場でもない。となると、これはもうトラボルタの捜査に感心する一方でトラボルタを徹底的に疑い、やがてこいつがダイイングメッセージにもあった「8」なる組織の黒幕にちがいないとおもいこんだ後、なんとまあ鮮やかにも正義の味方になっちゃうか、あるいはトラボルタに不快感をおぼえながらも惹かれていっちゃって、やがておもいもよらないことからトラボルタの真実つまり真犯人であることを知って対決するか、そのどちらかしかない。
こうして見てくると、この作品もまたトラボルタにはありがちな2時間ドラマの大掛かり篇ってことになっちゃうんだよね。ほんとにね、トラボルタはたぶん好いやつなんだろうけど、作品に恵まれてるかといえばちょっとね。ニコラス・ケイジみたいになんでもかんでも出ちゃうっていう、ほんとはそうじゃないんだろうけど、そういう姿勢が必要かもしれないね。
◎ミスティック・リバー(2003年 アメリカ 138分)
原題 Mystic River
監督 クリント・イーストウッド
◎重油の河のような
とにかく重くて重くて、それでも何年かに一度は観たくなる作品のひとつであるのはほぼ間違いない。
あらすじやら分析やらは無数ある批評や雑評に譲ることにして、役者たちの好演とイーストウッドの冷徹で細心な演出を褒めれば、もはやなにもいうことはない。ただ、文明社会の中で、少年愛あるいは幼児虐待などといった異質な事象はいったいいつから現れてきたんだろうと、ふとおもった。
おもいつつ、自分のことに置き換えてちょっと考えてみた。
仲の好い幼馴染はいったい誰だったんだろうってまずおもった。主人公たちのように毎日、ホッケーしていたような友達っていたっけ?と。たしかに、すぐ近くの神社の境内で、ぼくは毎日のように草野球をしていた。三角ベースのソフトボールといった方がより正確だけど、そうじゃないときはやはり近所の子と秘密基地を作ったりしていた。で、今はといえば、誰とも会っていない。少なくとも、高校に入るときにはまるで知らない仲になってた。幼馴染っていうのは、そういう記憶の中にいるのかもしれない。もっとも、小学校の同級生ともなればちょっと違うけどね。ある日、誘拐され、暴行虐待されたりしたら、その思い出はずっと残るかもしれない。
いずれにしても、そんな幼馴染が、やがて、ひとつの事件に絡んだ犯罪者と刑事と容疑者になるってのもかなり強引な設定ではあるものの、小さな田舎町だったら、もしかしたらあるかもしれないなあとおもったりもした。自分の娘が殺されて、その犯人が自分の幼馴染かもしれないとおもったら、ぼくはどうするだろう?いくらもうひとりの幼馴染が刑事になっていたとしても、そいつには任しておかずに、やっぱり自分で殺すだろうなあ。
ところがそれが間違ってたらどうする?ってのがこの映画の凄いところで、実は、娘の友達の弟に殺されてるわけだけど、そもそもその友達の父親ってのが、自分が過去に殺してしまった人間だったりするわけで、これはなんとも因縁深い。さらには容疑者だった幼馴染は、虐待されかけていた少年を救け、その犯人が過去に自分を監禁暴行した人間だと知るや、みずからの手で復讐殺害してしまったために、その血塗られた手のせいで奥さんに疑われ、その奥さんの告げ口によって不幸な間違い殺人が引き起こされるなんてのは、まさしく因果が巡ってる。そんな幼馴染を間違って殺してしまったりしたら、ぼくはどうするだろう?やっぱり、以前に犯した殺人のように死体を川に流して知らんぷりしようとするだろうか?
できないなあ、それは。
☆ベルンの奇蹟(2003年 ドイツ 117分)
原題 Das Wunder von Bern
監督 ゼーンケ・ヴォルトマン
☆1954年7月4日、ワールドカップスイス大会
その決勝戦で、西ドイツが奇蹟的な勝利をおさめた陰で、復活していく家族の絆が主題になってる。
いやまあ、なんだかハリウッドのスポーツ感動秘話を見てるような話の展開だ。サッカー選手ザーシャ・ゲーペルのかばん持ちをしている少年ルイス・クラムロートが、シベリア抑留から帰ってきた父親ベーター・ローマイヤーの情けなさと貧乏臭さに身内にしか感じられない怒りと憐みを感じ、どうしてもなじめずにいたものの、やがてワールドカップに父子ふたりで応援に出かけてゆく旅を通じて、父と子の溝が深まっていくなんて、まさしく物語の王道だ。
でも、世の中というのはよくしたもので、こういう王道の物語がなんだかんだいってもいちばんしっくりくるのかもしれないね。ていうより、当時の風俗はよく再現されているし、ワールドカップに絡めて反戦を語ることも忘れず、なんとも180度転回したドイツの戦後のがんばりようがなんともいじましい。
◇シービスケット(2003年 アメリカ 141分)
原題 Seabiscuit
staff 原作/ローラ・ヒレンブランド『シービスケット あるアメリカ競走馬の伝説』
製作総指揮/トビー・マグワイア、ゲイリー・バーバー、ロジャー・バーンバウム、
アリソン・トーマス、ロビン・ビッセル
監督・脚色/ゲイリー・ロス 撮影/ジョン・シュワルツマン
衣装デザイン/ジュディアナ・マコフスキー 音楽/ランディ・ニューマン
cast トビー・マグワイア ジェフ・ブリッジス エリザベス・バンクス クリス・クーパー
◇1840年3月2日、サンタアニタハンデキャップ
ぼくは競馬をしたことがない。
府中競馬場からさほど遠くないところに棲んでるんだから、
一度くらいは競馬場に行ってみたいとおもってるんだけど、
いまだに行ったことがない。
だから、競走馬の疾走する凄さも感じたことがないので、
競馬のおもしろさがいまひとつわかってない。
でも、これを往年の名馬シービスケットの物語としてだけ捉えずに、
シービスケットとともに、文字どおり人馬一体となって、
人生の再挑戦を成し遂げる男たちの物語として観れば、
たしかに感動的な作品であることはいうまでもない。
ほんと、事実としてこれほど物語性を秘めた設定はないかもしれない。
だって、
子供を自動車事故で失い、妻に出ていかれた自動車ディーラー。
自動車の需要に押されて調教師になるしか道のなかったカウボーイ。
両親が破産し、アマチュア・ボクシングでやがて片目に障害を負った騎手。
かれらが、
馬格が小さく、しかも膝に瘤を抱えて駄馬と目され、
その気性の荒さから調教師たちにさじを投げられていた鹿毛の悍馬に、
人生のすべてを賭けて勝負に挑み、そして勝利を手にするなんてのは、
いやもう、すこしばかりできすぎな物語なんだけど、事実だ。
だから、この映画はおもしろい。
で、ふとおもいだしたんだけど、50年近く前につのだじろうの漫画があった。
『おれの太陽』っていう競馬馬の話で、九州で生まれたアラブ種が、
脚を折りながらもやがて日本ダービーに出場して勝利をもぎとるって話だった。
当時、ぼくはこの漫画が好きで、コミックを買ってぼろぼろになるまで読んだものだ。
となると、案外、ぼくは、競馬を好きになる要素は持ってたのかもしれないね。
◇ワイルド・レンジ 最後の銃撃(2003年 アメリカ 140分)
原題 Open Range
staff 原作/ローラン・ペイン『Open Range』
監督/ケビン・コスナー 脚本/クレイグ・ストーパー
製作/ケビン・コスナー、デイヴィッド・ヴァルデス、ジェイク・エバーツ
撮影/ジェームズ・ミューロー 美術/ゲイ・S・バックリー
衣装デザイン/ジョン・ブルームフィールド 音楽/マイケル・ケイメン
cast ケビン・コスナー ロバート・デュヴァル アネット・ベニング マイケル・ガンボン
◇1882年、西部のどこか
ケビン・コスナーの好きなものを勝手に想像するとふたつあるんじゃないかっておもう。
郷愁と寓話だ。
郷愁はおもに西部劇で語られ、寓話は未来劇で語られる。
男の生きざまみたいなのは現代劇なんだけど、それはほんとうに好きなのかどうか。
ま、そんなところからいうと、この作品はばっちり郷愁西部劇だ。
失われつつあるものの中で決して変わらない魂みたいなものを、
あれこれと悩み苦しみながら考えてやがてそれが戦いによって描かれる。
そういうのが、どうやらケビンの趣味らしい。
そういうことからいえば、
フリー・グレイザーつまり遊牧生活をおくっているカウボーイの顛末ってのは、
まさしくケビンの大好きな世界なんだろう。
ただ、この映画の場合は、ロバート・デュヴァルをずいぶんと頼りにしてるけどね。
でもさ、
アメリカでは最後の決闘20分が西部劇の歴史に残るようなリアリズムといわれたらしいけど、
なんていうのかな、リアルに徹したいのはわからないでもないんだけど、
最初の雨の中のテント張りにしても、
そこまで拘らなくてもよくない?って、おもわずいいたくなっちゃったりもする。
だって、尺がすんごく長いんだもん。
ケビン・コスナーはどういうわけか自分が監督をするようになってから、
どんどん大作志向になり、尺が長くなってる。
まあ、わからないではないんだけどさ。
◎僕はラジオ(2003年 アメリカ 109分)
原題 Radio
staff 監督/マイク・トーリン 脚本/マイク・リッチ
撮影/ドン・バージェス 美術/クレイ・A・グリフィス
衣装デザイン/デニース・ウィゲート 音楽/ジェームズ・ホーナー
cast エド・ハリス デブラ・ウィンガー キューバ・グッディング・Jr サラ・ドリュー
◎サウスカロライナ州アンダーソン
実話らしい。
知的障碍の青年ジェームス・ロバート・ケネディはラジオを聴くことが好きで、
同時に、アメリカン・フットボールにも興味を持っていたことから、ラジオと徒名され、
地元のハナ高校でフットボール部のコーチでもあったエド・ハリス演じる教師と知り合い、
やがてフットボール部のマネージャーのような立場に上っていき、
校長をはじめとする教師たちのはからいで万年2年生とされ、
50歳をすぎた映画制作時においてもいまだにハナ高校に名誉学生のように在籍しているらしい。
エド・ハリスとデブラ・ウィンガー夫妻がやけに温情にあふれた市民を演じてるんだけど、
なんというか、きちんとよくまとめられてる。
学校がラジオに対するような配慮を見せるのは、アメリカではよくある話なのか、
それとも、このハナ高校だけが特別なのかわからないんだけど、
少なくとも日本ではあんまり聞いたことがない。
アメリカっていう国は、ともかく映画で人間愛を真正面から謳い上げる。
映画がそういう役割を与えられているんだろうけど、
ぼくはそういう姿勢は決して嫌いじゃない。
いつも斜に構えてるばかりでもないんだな、実は。
◇ヒットラー(2003年 アメリカ、カナダ 179分)
原題 Hitler: The Rise of Evil
staff 監督/クリスチャン・デュゲイ
製作総指揮/エド・ガーノン、ピーター・サスマン、クリスチャン・デュゲイ
脚本/ジョン・ピールマイアー、G・ロス・パーカー
撮影/ピエール・ギル 音楽/ノーマンド・コーベイル
cast ロバート・カーライル ピーター・オトゥール リーヴ・シュレイバー ジェナ・マローン
◇悪を繁栄させる最も有効な手段
それは、善を行わないこと、だそうな。
言いえて妙だが、善を行わないのは誰だったんだろう?
ヒットラーていうかナチスは、
この作品の中では狂言回しにすぎないんじゃいか?
ワイマール共和国が成立し、やがて崩壊していく過程の中で、
いったい誰が善をおこなったんだろう?
そんな問いかけがなされてるような印象を受けたのは、ぼくだけかしら?
そういう疑問を投げかける役割を果たしているのが、
記者というより語り部に近いマシュー・モディーンだったような気もする。
まあ、そのあたりは意見の分かれるところなんだろうけど、
凄まじい気迫と神経症ぎりぎりの演技をみせたカーライルはたいしだもんだ。
それと、
ピーター・ストーメアがまたいい。
かれが演じたのはエルンスト・レームなんだけど、
ほんとうにホモだったのかどうかは、ぼくは知らない。
でも、かつては自分の子分だとおもっていた男に、
顎でこきつかわれなくてはいけないような立場へと追いやられていくとき、
人はどうしようもない無念さを感じるだろうし、
そうしたときに縋りつくのは、愛人なんだろう。
それが、かれの場合は男だったっていうだけのことだ。
ピーター・ストーメアにかぎらず、
リーヴ・シュレイバーも、
ヒトラーとたもとをわかつことになるエルンスト・ハンフシュテングルの、
祖国を離れなければならない複雑な心情をきちんと演じてる。
ともかく、この作品は長い。
テレビ映画だったせいもあるんだろうけど、
第1部の「我が闘争」と第2部の「独裁者の台頭」に分かれてるとはいえ、
一気に観るのは相当な根性がいったのもたしかだ。
◇アイデンティティー(Identity 2003年 アメリカ)
要するに「そして誰もいなくなった・モーテル版」なわけだけど、
21世紀の話な分、派手でスピーディだ。
なんてジョン・キューザックの口はいつまで経っても半びらきなんだろ?
とかおもいながらのんびり観てたら、
意外にそうでもなかった。
土砂降りが原因の洪水でモーテルが孤島化するのは、
まあ、舞台ができてくるってことでいかにもな演出ながらいいんだけど、
ちょっとばかり追い込まれ型に嵌まりすぎてたきらいがないでもない。
ただ、
多重人格を持った人間の脳内妄想が続いて、
その妄想の中でひとりの登場人物が死ねば、
脳内の人格がひとつ減っていくっていうのは、
いやまあ、夢を観ていて、夢の中の登場人物が人格をもって、
この夢を覚めさせるためにはすべての人間を殺すしかないっていう、
とてつもない消去法によって誰の夢かを判断するのと同じなわけよね?
まあ、途中途中で伏線は張られてて、
いったい誰の脳内妄想なのかってことの方に興味がシフトする。
そういう意味ではなかなかよく練られた脚本といえるし、
ポスターの絵柄がこうした世界を上手に表現してる。
いいんじゃないかな~。