Kinema DENBEY since January 1. 2007

☆=☆☆☆☆☆
◎=☆☆☆☆
◇=☆☆☆
△=☆☆
▽=☆

山猫

2013年04月30日 15時57分25秒 | 洋画1961~1970年

 ◎山猫(1963年 イタリア、フランス 187分)

 伊題 Il gattopardo

 仏題 Le Guepard

 staff 原作/ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ『山猫』

     監督/ルキノ・ヴィスコンティ

     脚本/ルキノ・ヴィスコンティ スーゾ・チェッキ・ダミーコ エンリコ・メディオーリ

          パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、マッシモ・フランチオーザ

     撮影/ジュゼッペ・ロトゥンノ 美術/マリオ・ガルブリア

     音楽/ニーノ・ロータ ジュゼッペ・ヴェルディ

 cast バート・ランカスター アラン・ドロン クラウディア・カルディナーレ ジュリアーノ・ジェンマ

 

 ◎1860年、赤シャツ隊、シチリア上陸

 なにが凄いって、もちろん、舞踏会の場面なんだけど、

 ふたつ、疑問がある。

 ひとつは、舞踏会に参加している面々で、

 当時、なにごとにも完璧を期したいヴィスコンティは、

 シチリア島に代々命脈を保ってきた貴族の末裔たちが出演者として招き、

 ほんものの舞踏会であるかのように撮影したという。

 でも、ほんとうだろうか?

 こんなに大勢の人達が、ひとり残らず貴族の末裔なんだろうか?

 一般の民衆とどんなふうに違うんだろう?

 って、貴族の血が一滴も流れていないとおもわれる僕なんぞは、

 疑いのまなこで観ちゃうんだよね、まったく困ったもんだ。

 疑問のふたつめは、照明だ。

 ヴィスコンティは、本物の貴族の舘を借り切って撮影したものだから、

 大掛かりな照明を持ち込むような無作法をせず、

 無数の蝋燭を立てて撮影したらしい。

 たしかにおびただしい蝋燭のせいで、室内はむせかえるような暑さになり、

 貴族の末裔たちはみんなが扇子を開いて風をおくってる。

 アラン・ドロンの額も汗だらだらで、

「こりゃ、まじに暑いんだろな~」

 ってことは一目瞭然なんだけど、

 ほんとに、蝋燭の灯かりだけで撮影できたんだろうか?

 キューブリックの『バリー・リンドン』は特別なレンズを用いたから、

 たしかに蝋燭の灯かりだけで撮影も可能だったんだろうけど、

 ヴィスコンティがいくらこだわりの王者であっても、可能だったんだろうか?

 だって、天井ちかくまでくっきりと映ってるし、

 蝋燭のシャンデリアの上部がまるで影になっていないのは、

 かれらの頭の上に、巨大な照明が置かれているからじゃないのかしら?

 ってことだ。

 蝋燭がどれだけ明るくても、天井ぎりぎりの明るさはかなり乏しいはずだし、

 当然、炎のかすかなゆらめきが影をつくるんじゃないのかな~と。

 ま、そんな重箱の隅をつつくことはないんだけど、

 それくらいしか突っ込みどころのないほど、

 完璧な映画に仕上がってるっていうことだろう。

 バート・ランカスターは落魄してゆく貴族を堂々と演じていたし、

 村娘の気の強い美人を演じたクラウディア・カルディナーレも強烈な個性美だったし、

 なんといっても、天下の2枚目アラン・ドロンのぎらぎらした美しさは比類がない。

 野心と情熱の塊で、名と実をあげることに躍起になっている若き貴族という役は、

 おそらく、当時、アラン・ドロンをおいてほかに演じられるような役者はいなかったろう。

 このあともヴィスコンティと組んで欲しかったけど、

 そのあたりのことは、ふたりにしかわからない微妙な話だろうから、

 地球の裏側の庶民がなにをどう願ったところで仕方がない。

 ちなみに、今回観たのは、

 製作後30年経った2003年に、

 当時の撮影監督ジュゼッペ・ロトゥンノが監修して、

 ようやく完成させた『イタリア語・完全復元版』だったんだけど、

 最後にもうひとつだけ疑問がある。

 緑の色だ。

 陽光に満ちたシチリア島は、そこらじゅうが輝き、乾燥しきっているから、

 たしかに緑は日焼けし、色褪せてしまっているかもしれないんだけど、

 それでも、みずみずしい緑が撮られていたんじゃないだろうか?

 フィルムはどうしても寒色系から色が抜けていくから、

 もしかしたら、青や緑の退色はもはや修復できないほどになっちゃったんだろうか?

 てなことも、なんとなくおもってしまったのでした。

コメント

ベニスに死す

2013年04月29日 18時22分37秒 | 洋画1971~1980年

 ◎ベニスに死す(1971年 イタリア、フランス 131分)

 伊題 Morte a Venezia

 英題 Death in Venice

 staff 原作/トーマス・マン『ベニスに死す

     監督・製作/ルキノ・ヴィスコンティ 脚本/ルキノ・ヴィスコンティ ニコラ・バダルッコ

     撮影/パスカリーノ・デ・サンティス 音楽/グスタフ・マーラー

     衣裳デザイン/ピエロ・トージ

 cast ダーク・ボガード ビョルン・アンドレセン シルヴァーナ・マンガーノ ロモロ・ヴァッリ

 

 ◎1911年、ベニス

 大学時代、都内にはたくさん名画座があった。

 いまの若い人達に名画座といってもわかんないかもしれないけど、池袋文芸坐、池袋文芸地下、飯田橋佳作座、飯田橋ギンレイホール、大塚名画座、大塚鈴本シネマ、中野名画座、三鷹オスカー、八重洲スター座、銀座並木座、新橋文化、高田馬場パール座、そして、早稲田松竹など。

 名画座にはそれぞれの町の名前が冠されていて、ぴあを片手に毎日のように名画座へ通い、固い椅子に身を沈めた。お金がなくて(今もないけど)、佳作座に行ったときだったか、電車賃をひくと250円しか残っていなかった。日は暮れるし、お腹は空いたし、下宿に帰っても米粒ひとつないし、一緒に見に行った同級生もやっぱり300円くらいしか持ってなくて、結局、飯田橋の駅前にある洋食屋に入って、オムライスをひとつだけ注文して、ふたりで分けて晩ご飯にしたこともある。

 大学時代は4年間を通じてだいたいそんな感じで、電車がなくなるとオールナイトにもぐりこんだ。もちろん『人間の条件』とか『戦争と人間』とか『仁義なき戦い』とか、全作一挙上映のオールナイトに行くときは、おもいきり昼間寝て挑戦した。浅草東宝で黒澤明オールナイトがあったときは、同級生4人で出かけて、朝、映画館を出た足で鎌倉まで遠征した。

 名画座にはそれぞれの特徴があって、八重洲スター座ではよく溝口健二を上映にしてた。銀座並木座は黒澤明と小津安二郎、新橋文化も黒澤明だった。高田馬場パール座は春になると決まって『青春の門』を上映してたし、早稲田松竹では『スティング』と『明日に向って撃て!』が定番で、ときどき『追憶』や『卒業』や『俺たちに明日はない』が入れ替わってることもあった。

 ルキノ・ヴィスコンティ(この頃では、ルキーノと書くらしい)は池袋文芸坐の得意技で、あらかたの作品を、そこで観た。この『ベニスに死す』も、そうだ。けれど、1971年に封切られたこの作品は、きっかり40年後の2011年にニュープリントで公開された。今回、早稲田松竹で観たのは、どうやらそれらしい。

「早稲田松竹でヴィスコンティをやるのか~」

 と、なんだか不思議な感慨だったけど、いそいそと出かけた。

 この世界的な名画について、いまさらどうこういうつもりもないし、だいいち、ヴィスコンティを論じられるほど、ぼくは知識も教養もない。さらに困ったことには、美少年をめでるような芸術的感性もない。だから、台詞がいっさいないビョルン・アンドレセンの美しさもよくわからない。ヴィスコンティがヨーロッパ中をめぐり歩いてようやく見つけた美少年らしいけど、メイキングを観るとなんだか無邪気に笑ったり、妙にはにかんだりしてて、それが本編になると神秘的な雰囲気を醸し出してくるんだから、こういう凄さが、ヴィスコンティの演出力なんだろう。

 ダーク・ボガードの一連の行動、平凡さゆえに指揮者として大成しえず、傷心のひとり旅に出た先で、美少年をめで、同時に自分の老いに悩み、醜態をさらすようにして付きまとい、その果てに、南から吹くシロッコに乗ってきたコレラに罹患して死への旅に出るさまは、若い頃に観たときよりもより醜悪で、惨めで、儚く、そして悲しかった。

「映画に限らず、どんなものでも、おそらく、鑑賞する際の年齢は重要だわ~」

 てなことも、うすぼんやりと考えたりした。

 さて。

 劇中、ボガードは「芸術は自然に大成するものなのだ」というような意味の呟きめいた台詞を吐くが、たしかにそうで、芸術はみずから求め、みずから創り出そうとしたところで、それは所詮、作り物でしかない。ビョルン・アンドレセンに象徴される少年の美を芸術とするのかどうかはよくわからないのだけれども、少なくとも人の容貌がかぎりなく美しいと感じられるとき、それが自然に出来上がったものであれば、たしかに人の手によらない方が美しいかもしれないなどともおもったりした。

コメント

ヒステリア

2013年04月28日 20時42分07秒 | 洋画2011年

 ◇ヒステリア(2011年 イギリス、フランス、ドイツ、ルクセンブルク 100分)

 原題 HYSTERIA

 staff 監督/ターニャ・ウェクスラー 脚本/スティーヴン・ダイア

     撮影/ショーン・ボビット 美術/ソフィー・ベッチャー

     音楽/ガスト・ワルツィング 衣裳デザイン/ニック・イード

 cast マギー・ギレンホール ヒュー・ダンシー フェリシティ・ジョーンズ ルパート・エヴェレット

 

 ◇1890年、大英帝国

 ぼくは、これまで、

 いわゆるバイブという代物は日本人の発明だとおもいこんでた。

 それが、第二次産業革命のもたらしたものだなんて、

 さらにいえば、医療用のマッサージ器具として開発されただなんて、

 まるで、知らなかった。

 いや~、無知ということは恐ろしい。

 ただまあ、監督が女性っていうこともあるんだろう、

 電マとはほとんど関係ない並列した恋愛話として爽やかに仕上げられてる。

 マギー・ギレンホールが電マの開発にまったく関与しないばかりか、

 あんなものは医療とは関係ない性具よってな感じで、

 さらりと断言しちゃうんだから、

 いったい、この映画の主題はなんなんだろうって、ちょっと考えちゃう。

 電マの開発秘話なのか、

 それとも、

 ヴィクトリア朝における参政権も与えられてない女性蔑視の克服と、

 貧者の施設の充実をめざす女性の恋愛話なのかって。

 たしかに、

 女性の権利を訴えればヒステリーという名の病気だと烙印をおされ、

 それを治癒させるためには子宮摘出しかないなどとされたのが真実なら、

 こんなあほな状況は打破しないといけない。

 迷信の先行する男中心の社会は根本から覆すべきだよね。

 それに、

 お金持ちの女性はヒステリーという病気があるという前提に立って、

 旦那や彼氏との間に欲求不満が解消されないでいるから病気になるとして、

 医者に性的なマッサージを受けることで癒されていたなんて状況も、

 やっぱり、あかんでしょ。

 性的な欲求不満は、成人であるかぎり男女を問わず当然のことで、

 それを解消できる性具があるなら、きわめて真摯に開発しないと。

 ただ、どっちが、映画の本題なんだろう。

 せっかく、誰も映像化しなかったヴィクトリア朝のバイブ開発秘話なんだから、

 それを、狂言回し的な扱いじゃなくて、話の臍にもってきて、

 マギー・ギレンホール演じるところの闘争的な姉もそれを認めて、

 みずから開発に手を貸すっていう設定にした方が、

 ぼくとしては納得しちゃうし、おもしろいとおもうんだけどな~。

 でも、性具というのは、ほんとに扱いが難しいよね。

 日本のこういう技術はきわめて優秀だから、

 日々、進歩と充実が図られてるし、需要もあるはずなんだけど、

 どうしても、日のあたる所に出てこない。

 とくに、欧米よりも日本の場合は、

 つつましやかで禁欲的な生き方が美徳とされているから、

 陰の代物になって、一部の人達だけの愉しみになってるし、

 多くの一般女性は、これを知らずに寿命をまっとうしちゃう。

 むつかしいところだよね、いやまじに。

コメント

天使の分け前

2013年04月26日 16時47分19秒 | 洋画2012年

 ☆天使の分け前(2012年 イギリス、フランス、ベルギー、イタリア 101分)

 原題 THE ANGELS' SHARE

 staff 監督/ケン・ローチ 脚本/ポール・ラヴァーティ

     撮影/ロビー・ライアン 美術/ファーガス・クレッグ 音楽/ジョージ・フェントン

 cast ポール・ブラニガン ジョン・ヘンショウ シヴォーン・ライリー チャーリー・マクリーン

 

 ☆ほう、キルトの下はふりちんなのか~

 初めて知った。

 でも、ひとつ、知りたいことができた。

 女性の場合は、どうなんだろう?

 ま、そんな下世話な好奇心はおいといて、

 チャーリー・マクリーンという人は、

 ほんとに、テイスティングの世界で名を馳せてる人なんだね。

 この人をテイスティングの名人役で出演させて、

 その上で、オークションの結果、

 味のわからない金持ちの米国人に満悦至極の表情をさせるってのは、

 いや~勇気のいる皮肉だな~と。

 プラス、軽犯罪を犯したことで何百時間かの勤労奉仕をさせられている連中が、

 天使の分け前のさらに分け前を頂戴することで更生されるかといえば、

 そんなことあるわけないじゃんっていうのも、かなり効いてる。

 ただ、どうなんだろうね。

 チンピラだった青年が、

「恋人に子供もできたことだし、なんとか更生したい」

 とおもっているのに、グラスゴーのチンピラどものせいでなかなかできずにいるのは、

 とってもよくわかる設定で、たぶん、こういう青年は多いんだろうけど、

 その踏み台に選んだものが、

 自分にテイスティングの才能があるとわかったため、

 発見された300年前の幻のウイスキーの樽から、

 天使の分け前を盗んで金にすればいいじゃないか、

 っていうのは、どうなんだろう?

 ぼくのせちがらい、偏狭な、かつクソまじめな考え方でいくと、

 自分の置かれている理不尽な境遇から立ち直ろうともがいている青年が、

 どれだけ心やさしくて、どれだけピュアであっても、

 人生の旅立ちに、醸造所への不法侵入と盗難を選んだ場合は、

 それが発覚して、もう人生まっくらじゃんってな立場に立たされて初めて、

 ほんとうの意味での旅立ちになるんじゃないのかなっておもうんだけど、

 そのあたりのことはさらっと受け流してしまってもいいんだろうか?

 せっかく人並みはずれた才能があることがわかったんだから、

 最後の最後にはそれを公に活かして旅立つべきじゃないかな~と。

 ケン・ローチはさすがに上手で、

 人間には多かれ少なかれ裏があるんだよ、

 だからそのあたりの機微を承知した上で、人生のきっかけをお祝いしてやろうよ、

 てな感じの曖昧さを、小気味良さでくるんでる。

 もうひとついうと、醸造所に忍び込んで、幻のモルトを4本分盗み出すくだりは、

 ものすげー緊張させられました。

 このあたりは、ほんと、上手だよね。

 役者たちがみんなグラスゴーもしくはその周辺の出身ってのも、リアルでいいし。

 あ、そうそう。

 子供を授かったシヴォーン・ライリーは、気持ちのいい美しさでした。

コメント

めがね

2013年04月25日 21時31分33秒 | 邦画2007年

 ◎めがね(2007年 日本 106分)

 staff 監督・脚本/荻上直子

     撮影/谷峰登 美術/富田麻友美 音楽/金子隆博

 cast 小林聡美 市川実日子 加瀬亮 光石研 もたいまさこ 橘ユキコ 薬師丸ひろ子

 

 ◎旅と人生と死の関係

 旅の終わり、人生の始まり、

 人生の終わり、旅の始まり。

 どちらでもいいんだけど、この映画について、

 映画を観終わってすぐに、こんな話を聞いた。

「あれって、死後の世界の話じゃない?」

 だって、南の島に旅に出るってのはわかるけど、

 時の流れがまるでないし、生きているせせこましさもないし、

 ただたそがれるだけというのに、現実感がまるでないし…。

 授業をしなくてもいい、メルシー体操だけすればいい、かき氷も無料、

 ハマダの食材はいつのまにか揃ってるし、

 かき氷の元になる氷も、小豆も、食器を洗う水も、機械を動かす電気も、

 どこから持ってきているのかわからないけど、まるで足りなくならないし、

 いや、だいいち、宿賃すら払ったかどうかよくわからないし、

 そもそも民宿ハマダに辿り着くまでもいろいろな道をさまよってるでしょ?

「なるほど」

 と、おもった。

 だから、小林聡美は帰ろうにも帰れないのか?

 加瀬亮は後追い自殺でもしでかしたのか?

 市川実日子も授業ノイローゼになって人生をはかなんだのか、と。

 で、こんなことをおもいだした。

 昔の知り合いに、とあるお寺の和尚さんがいた。

 その和っさんがいうには、極楽と地獄の差は、人のおもいやりだけだそうな。

 極楽も地獄も俗世とほとんどおんなじなんだけど、ひとつだけ異なっているものがある。

 箸の長さなんだと。

 それも、1メートルくらいありそうな箸なんだって。

 箸が長いと食べるのにものすごく苦労するっていうか、ほとんど食べられない。

 だから、極楽ではおたがいに食べさせてあげるからお腹いっぱい食べられるけど、

 地獄は自分のことは自分でしないといけないので、他人に食べさせるのはあかんと。

 で、

 薬師丸ひろ子のマリン・パレスで野良仕事に従事させられるのは、

 自分のことはすべて自分でするっていう決まりだから、地獄ってことになる。

 してみると、小林聡美を迎えに来て、

 極楽へ連れ帰ってくれるもたいまさこは地蔵菩薩なんだろか?

 あのかき氷屋は地蔵堂なのか?

 もたいまさこがときおりいなくなるのは地獄と俗世をめぐっているからか?

 てなことをおもった。

 お地蔵さんは実をいうと閻魔大王の変わり身で、

 地獄に落ちた亡者を救いに来てくれるんだと。

 蜘蛛の糸を垂らしてくれるのはお釈迦さんだから、

 もしかしたらお釈迦さんなのかなとおもうけど、風貌からだとお地蔵さんだよね。

 こんなふうに考えていくと、

 つまり、あの美しい海は、三途の川なのね?

 とか、

 沖縄みたいなところだから、ニライカナイってことかしら?

 とかいった想像が働いちゃう。

 これは、もう一回、観てみる必要あるわ。

 とはおもったものの、このゆるさは嫌いじゃない。

 時間に余裕があったら浸っていたいところなんだけどね。

 ただ『かもめ食堂』でもそうなんだけど、

 ひとつの完成された世界があって、そこに異邦人がやってくるという設定は、

 どうやら、この映画でも踏襲されているらしい。

 異邦人がその世界をかき回すかどうかは別にして、

 とある、まとまりのある世界を認識することによって、

 ようやくその世界の住人になれる、つまり、自己と他者を肯定できる、

 っていうことなんだろうけど、

 この映画ではその世界が、天国かどうかって話だ。

 さて、どうなんだろう。

 たしかに南の島は、天国にいちばん近い島かもしれないけど。

 あ、でも。

 こんな解釈は、製作した人達にしてみれば、

 めいわくな事、この上ないよね。

コメント

三国志英傑伝 関羽

2013年04月24日 21時04分51秒 | 洋画2011年

 ◇三国志英傑伝 関羽(2011年 中国 109分)

 原題 關雲長

 英題 THE LOST BLADESMAN

 staff 監督・脚本/フェリックス・チョン(莊文強) アラン・マック(麥兆輝)

     撮影/チャン・チーイン 美術/ビル・リュー リウ・チンピン 音楽/ヘンリー・ライ

     衣裳/チャン・リン 武術指導/ドニー・イェン(甄子丹)

 cast ドニー・イェン(甄子丹) チアン・ウェン(姜文) スン・リー(孫儷)

 

 ◇後漢末期、建安5年(200)

 関羽、千里を行く、

 というのは、三国志演義にある、

『美髯公、単騎、千里を走り、

 漢寿亭公、五関に六将を斬る』

 というところだが、この映画の場合、

 献帝の人となりなど、映画なりの脚色がほどこされている。

 好みかどうかは、観客によっていろいろと分かれるだろう。

 でも、これまでにも書いてきたように、事実は事実、映画は映画だから、

 正史や三国志演義がどうだろうと、映画独自の筋立てに納得できればそれでいい。

 関羽が劉備の許嫁だった女人とかつて恋仲だったという設定は、

 別段、とっぱずれたものでもないし、

 たとえば、別な物語ができて、

 赤壁の戦いの後に、劉備が呉から後室を娶る際、

 警護を任された趙雲と呉夫人とが抜き差しならない仲になったとしても、

 それはその物語に必要な設定であれば、それでいいとおもっちゃう。

 今回の場合もそうで、関羽の恋心がなければ盛り上がらないし、仕方のないことだ。

 けど、どうせなら、

 劉備のふたりの夫人のどちらかとそういう仲であってほしかったわ~。

 ま、それはともかく、

 甄子丹は小柄ながら、見事なものだった。

 とくに、左右に高い壁をめぐらせた回廊での一騎打ちはたいしたものだ。

 曹操の設定も悪くない。

 このところ、曹操の造形は悪役ではなく不世出の人物として捉えられることが多い。

 好いことだ。

 ただな~、この映画に限らず、たいがいの史劇は、

「民のために」

 とかいうんだけど、

 そういうあたりが、どうにもリアリズムに欠けてる気がしてならないんですわ。

コメント

アイズ ワイド シャット

2013年04月23日 23時49分06秒 | 洋画2000年

 ◇アイズ ワイド シャット(1999年 アメリカ、イギリス 159分)

 原題 Eyes Wide Shut

 staff 原作/アルトゥール・シュニッツラー『夢小説』

     監督・製作/スタンリー・キューブリック 

     脚本/スタンリー・キューブリック フレデリック・ラファエル

     撮影/ラリー・スミス 美術/レスリー・トムキンズ ロイ・ウォーカー

     音楽/ジョスリン・プーク 衣装デザイン/マリット・アレン

 cast トム・クルーズ ニコール・キッドマン シドニー・ポラック ヴィネッサ・ショー

 

 ◇ファック

 のっけから困ったもんだけど、

 そもそも題名の「Eyes Wide Shut」の意味ってなんだろう?

 実は、そんなものは、ない。

 英語の慣用句で「eyes wide open」ってのは、ある。

「目ん玉、おっぴろげて、しっかり見ろい」

 てな意味になるらしく、これと反対に「eyes shut tight」ってのがあって、

「ぎゅっと目を瞑ってな」

 てな意味になる常套句も、ある。

 けど「Eyes Wide Shut」なんていう言葉は、ない。

「目を大きく瞑って」

 とか、いわないもんね。

 じゃ、なんでまたキューブリックは、こんなありえない言葉を題名にしたんだろ?

 ま、想像するに、

「ほんとは、目ん玉ひん剥いて見たいんだろうけど、見ないでちょーだいね」

 っていう意味になるんだろう、たぶん。

 世の中には見てもいいものと、決して見てはいけないものがある。

 それは、

 足を踏み入れてもいいところと、決して入ってはいけないところがある、

 っていうのと、ほぼおんなじだ。

 知りたいんだろうけど、知ったらあかんこと。

 ほんとはあるんだけど、あったらあかんもの。

 それって、誰もが本能的に、

 見たいし、知りたいし、入りたいし、触りたいし、体験したい。

 なにかっていえば、おとなだったら誰でも想像がつくとおり、

 性の深淵、だ。

 この映画でいえば、黒マント仮面乱交変態パーティ、となる。

 こんなふうに書くと、なんだかキワモノ作品みたいになるけど、

 宴に参加しているのは社会的にも経済的にも恵まれた紳士淑女で、

 もちろん、そこらの会員制秘密変態倶樂部なんぞとは比べ物にならない。

 ましてや、巷にあるカップル喫茶みたいに、誰でも会員になれるところじゃない。

 参加条件に満たない者は口にするのも憚られる、

 いや、存在してはならない宴なのだ。

 つまり、Eyes Wide Shut。

 だから、仮面ひとつにしても、そんじょそこらの意匠じゃないわけで、

 ニコール・キッドマンとの間で、倦怠期にさしかかったトム・クルーズが、

 偶然に彷徨いこんでしまったこと自体、罪になる。

 そういう、妖しくもおぞましいところが舞台になる作品の映像化なんだけど、

 まあ、さすがにキューブリックだから、非常に節度が保たれ、品が好い。

 内容が内容だけに、ぞくぞくするような緊迫感よりも好奇心の方が勝ってしまう分、

 ゆるい作品に仕上がってしまったのかもしれないね。

 ま、そんなところで、筋らしい筋があるわけではなくて、

 妻の不倫を妄想して娼婦を買い求めて深夜の街を彷徨い歩く男が、

 ふとしたことで紛れ込んでしまった仮面の宴を忘れられず、

 そこにふたたび潜入して咎められ、自宅で待っていた妻に、

 ふたりに必要なものはいったいなんなのか、

 世の男と女の絆とはなんなのかって、

 いちばん大切なあることを突きつけられるられる話なんだけど、

 最後のキッドマンのひと言が、このキューブリックの遺作を明解に物語ってる。

「Fuck」

コメント

ダウン・バイ・ロー

2013年04月22日 16時53分46秒 | 洋画1981~1990年

 ◎ダウン・バイ・ロー(1986年 アメリカ、西ドイツ 107分)

 原題 Down by Law

 staff 監督・脚本/ジム・ジャームッシュ

     撮影/ロビー・ミュラー 美術/ジャネット・ディンスモア

     音楽/トム・ウェイツ ジョン・ルーリー マーク・リボー アート・リンゼイ

 cast トム・ウェイツ ジョン・ルーリー ロベルト・ベニーニ ニコレッタ・ブラスキ

 

 ◎氷菓!

 舞台は飛騨高山、じゃなくてルイジアナ州ニューオリンズ。

 筋立ては単純明快。

 刑務所の雑居房に放り込まれた元DJとポン引きとイタリア人の流れ者が、

 気は合わないけれども一緒に脱走し、森を抜け、沼を抜け、酒場に辿り着くんだけど、

 結局、3人同居の留置場みたいな感じになるものの、

 元DJとポン引きは、

 酒場の女にひと目惚れされたイタリア人だけ残して、別々の道をとっていく、

 っていうだけの他愛ないものだ。

 ところが、秀逸。

 なにが凄いって、白黒の画面と音楽。

 ことに、移動撮影が効いてる。

 川が流れるように、人生も流れるように、立ち止まることなく移動していく。

 この移動撮影に、アバンギャルドなインストルメンタルが被さることで、

 なんだか、前衛芸術でも観てるような気分になれたりするんだから、ふしぎだ。

 くわえて、ロベルト・ベニーニの語呂合わせがまたいい。

「I scream,you scream,we all scream,for ice cream」

 日本語訳にしたら、

「おれも叫ぶから、おまえも叫べ、おう、みんなで叫ぼうぜ、アイスクリームってよ!」

 当然、なんにも、おもしろくないけど、

 実はこれ、マザーグースなんだよね。

 あ、ちなみに原題の「Down by Law」の意味は、たぶん、

「ダチ公」

コメント

ある公爵夫人の生涯

2013年04月20日 18時05分29秒 | 洋画2008年

 ◇ある公爵夫人の生涯(2008年 イギリス、フランス、イタリア 110分)

 原題 The Duchess

 staff 原作/アマンダ・フォアマン『Georgiana : Duchess of Devonshire』

     監督/ソウル・ディブ

     脚本/ソウル・ディブ ジェフリー・ハッチャー アナス・トーマス・イェンセン

     撮影/ギュラ・パドス 美術/マイケル・カーリン 音楽/レイチェル・ポートマン

     衣装デザイン/マイケル・オコナー ヘアーデザイナー/ジャン・アーチボルド

 cast キーラ・ナイトレイ レイフ・ファインズ シャーロット・ランプリング ドミニク・クーパー

 

 ◇1774年6月6日、ジョージアナ、結婚

 ジョージアナ・キャヴェンディッシュことデヴォンシャー公爵夫人が生まれたのは、

 1757年6月7日だそうだから、結婚した翌日に17歳になってる。

 にしても、たった17歳で英国屈指の名門に嫁がされるってのは、

 現代のぼくらから見ると、ちょっとばかし酷かもっておもっちゃう。

 恋愛の経験もないだろうし、まだまだやっぱり子どもだもんね。

 それはさておき、ジョージアナの生涯はなかなか波乱万丈だ。

 だんなの公爵がちょっとばかし女好きすぎたのか、

 女召使を孕ませてしまったもんだから、生まれた娘の養育もしないといけなかったし、

 ジョージアナの親友のエリザベス・フォスターを愛人にしちゃったために、

 24年間も3人で暮らさないといけない羽目になり、

 くわえてエリザベスは、この間に、1男1女を産んじゃってる。

 なんだか『華麗なる一族』をおもいだしちゃうけど、ともかく、公爵、すごいです。

 とはいえ、ジョージアナもなかなかのもので、

 人並み外れた美貌と知性でもって社交界の花になって、一大サロンを形づくり、

 チャールズ・グレイ伯爵(紅茶のアールグレイで知られた、後の首相ね)と不倫して、

 娘をひとり産んじゃった。

 この娘は、グレイ家にひきとられちゃうんだけど、

 だんなとの間にも、ふたりの娘とひとりの息子を産んでるし、

 それよりなにより、選挙と飲食と賭博が大好きだったみたいで、借金まみれだったらしい。

 これがそのまま映像化されてたら、なんだか、すさまじい映画になったんだろうけど、

 この映画は、ジョージアナの不倫を中心にして、綺麗かつ儚く撮られてる。

 ま、めりはりのきいた顔と態度のキーラ・ナイトレイが超豪華な衣装をまとってるし、

 そうしたところは目の保養にはなるんだけど、

 夫に愛されず、単に世継ぎを産むためだけの道具のように扱われ、

 くわえて親友を愛人にされたばかりか同居までさせられることに耐え切れず、

 真実の愛を求めて不倫に走り、それを認めてほしいと嘆願したら、

 その台詞が逆鱗に触れてしまったのか、暴力的に犯されて、

 もう産みたくもなかったはずの夫の子を身ごもり、まわりの期待どおり男の子を出産する、

 っていう展開は、ああ、そうか、そういうことだったのかって感じで、なんだか息苦しい。

 さらに、夫の愛人になって一緒に住んでる親友はあいかわらず優しく接してくれるし、

 一連の不倫劇を経てから、

「おまえの苦しみは理解していたのだよ、わたしも」

 ってな態度で夫が接っしてきたことで、なんだか、心底からの悪人はいないって感じで、

 結局は、

「王室には絢爛豪華な暮らしとひきかえに真実の愛には恵まれない時代があったのだよ」

 とか聞かされてるような気も、ちょっとだけ、した。

 まあ、考えてみれば、どこの国だって似たようなもので、

 名門の血を継がせるための生殖がいちばんの役割という立場は、なんだか哀れだ。

 ただ、どうだかなあ、彼女の悲しさや儚さは十分にわかるし、不倫する気持ちもわかるし、

 不倫相手の子を身籠りたいだろうし、でも産んだら産んだで引き裂かれる辛さもわかる。

 だけど、

 ジョージアナの人生が真実の愛を求めてるだけなように見えちゃうのは、ちょっとね。

 現実の彼女は、彼女なりに頑張って生きてるんだから、

 もうすこし生き生きさせてほしかったな~とかおもうのよね。

 あ、ちなみに、

 だんなの飼ってる2匹の犬は、ジョージアナとエリザベスの暗喩かしら?

コメント

PEACE BED アメリカ vs ジョン・レノン

2013年04月18日 00時32分25秒 | 洋画2006年

 ◇PEACE BED アメリカ vs ジョン・レノン(2006年 アメリカ 99分)

 原題 The U.S. vs. John Lennon

 staff 監督・脚本/デヴィッド・リーフ ジョン・シャインフェルド 監修/オノ・ヨーコ

     撮影/ジェームズ・マザーズ 音楽/ジョン・レノン 編集/ピーター・S・2世

 cast オノ・ヨーコ ジョン・ウィーナー ロン・コーヴィック アンジェラ・デイヴィス タリク・アリ

 

 ◇WAR IS OVER IF YOU WANT IT

 ぼくは、いまだにビートルズの全曲を聴き終わっていない、とおもう。

 それだけ、音楽が身近な存在じゃないからだ。

 中学3年のときだったか、生まれて初めてビートルズを聴いた。

 その頃のぼくは、映画にようやく目覚め始めた頃で、

『小さな恋のメロディ』があったから、ビージーズを、

『卒業』があったから、サイモン&ガーファンクルを聴いていたくらいで、

『イエロー・サブマリン』を観たところで、ビートルズには向かなかったろう。

 それくらい、ぼくは音楽に疎かった。

 もちろん、威張れた話じゃないけど、いまも疎い。

 その疎さをごまかすようにして、

 高校の頃は、誰も買わないような映画のサントラばかり買ってた。

 だから、ほかの音楽、ことに洋楽はなかなか手が出なかった。

 なぜって?

 英語がちんぷんかんぷんだったからだ。

 ぼくはおもうんだけど、

 世の中の人達は、洋楽を聴いたり歌ったりしてるのは、

 みんな、歌の意味をちゃんと聴きとれてるからなんだろうか?

 曲調ていうか旋律が、あるいは雰囲気が好いから、

 好きだわ、これ~とかいって聴いてるんだろうか?

 もしも、世の中の人達がみんなぼくくらいな英語の読解力しかなくて、

 単純に「あ、この曲、かっこいいじゃん」とかいって、

 歌詞の意味とかまるでわかんないまま聴いてるんだったら、

 たぶん、外国の歌手は「なんだよ、わかんねーのかよ」って残念がるだろう。

 当時のジョン・レノンなら、特にそうだ。

 かれは、平和を心の底から愛していた。

 と同時に、戦争や暴力を心の底から毛嫌いしていた。

 それが、かれに歌を作らせる原動力となり、メッセージもまた歌に込められた。

 もちろん、ジョン・レノンだけじゃない。

 当時、ことにアメリカの、少なくない歌手が戦争を反対し、歌にした。

 英語のわからないぼくは、そのメッセージがよくわからなかった。

 訳詞くらい読めばいいのに、それすらめんどくさがるような、あほたれだったけど、

 日本でもジョン・レノンのメッセージを受け止め、

 かつ、自分なりに歌に託して、若者に支持された歌手が登場するようになった。

 思想が歌を作らせ、歌によって思想の語られる時代の到来だ。

 ジョン・レノンは、その先頭で旗をふる役割に立たされてしまった。

 若者たちはそんなかれを支持し、かれの行動はさらに突き抜けた。

 1969年、オノ・ヨーコと結婚したとき、新婚旅行先のアムステルダムで、

「戦争をする代わりにベッドで過ごそう、髪を伸ばそう、平和になるまで」

 といってベッドの上で日々を送ることを宣言し、マスコミも殺到した。

 ここでいう戦争は、泥沼と化したベトナム戦争で、大統領はニクソン。

 レノンとヨーコの静かにして過激な行為は、ニクソンの目の上のたんこぶになった。

 新婚旅行が終わり、

 ニューヨークでふたたび「peace bed」の暮らしをはじめたかれらに待っていたのは、

 かれらを戦争反対の御輿に据えようとする運動家と、

 かれらを戦争反対の象徴と捉えて排除したいとおもいはじめた米国家そのものだった。

 監視、盗聴、永住権の申請拒否、国外退去の勧告…。

 よくもまあ、超大国をあいてどって、たったふたりで戦う気になったもんだけど、

「ぼくは戦争は嫌なんだ、人を殺したくないんだ、歌を歌っていたいだけなんだ」

 という若者に対して、こうも本気になって国家が挑みかかるという事実にも驚く。

 時代ってやつかもしれない。

 あまりに安易なまとめ方だから恥ずかしいんだけど、それ以外にいいようがない。

 ベトナム戦争が泥沼化していったのも時代なら、

 戦争反対を唱えて、歌に託していった若者の象徴に、

 かれらが押し上げられたのもまた時代だろう。

 純粋といえば純粋、知的といえば知的、過激といえば過激、

 そして、まちがいなく誰もが真剣、

 真剣に人生を語り、歌を語り、国を語り、戦争を語り、地球を語り、

 戦争するくらいならベッドの上で愛し合っていようと真剣に主張した。

 そういう時代だ。

 この映画は、そうした時代をぼくらに語り、

 そしてポスターにあるように、

『もし変えようと思うなら

 ほんとうに変えようと思うなら

 世界は変えられる』

 という主題を伝えようとしていること以外にないんだよね。

 ただ、1980年12月8日、かれは凶弾に倒れた。

 とうに過ぎ去ってしまったはずの時代の亡霊が、かれを殺したのか、

 それとも、単純に、愛されすぎてしまったために殺されたのか、

 どっちなのか、ぼくにはわからない。

コメント

トスカーナの休日

2013年04月17日 19時42分59秒 | 洋画2003年

 ◇トスカーナの休日(2003年 アメリカ、イタリア 113分)

 原題 Under the Tuscan Sun

 staff 原作/フランシス・メイズ『イタリア・トスカーナの休日』 原案/オードリー・ウェルズ

     監督・脚本/オードリー・ウェルズ 製作/オードリー・ウェルズ トム・スターンバーグ

     撮影/ジェフリー・シンプソン 美術/スティーブン・マッケイブ 音楽/クリストフ・ベック

 cast ダイアン・レイン サンドラ・オー リンジー・ダンカン ラウル・ボヴァ マリオ・モニチェリ

 

 ◇花を捧げる老人が好い

 マリオ・モニチェリっていう映画監督なんだけど、これは話の要所に出てくるだけ。

 で、トスカーナ地方の町コルトーナでのおとなのおとぎ話。

 人って、恋愛や結婚にやぶれると、なんでか知らないけど旅に出ちゃいません?

 ていうか、そういう設定が多いかもしれないんだけど、

 古今東西、なんかそういう映画の多い気がする。

 そこで、この映画。

 作家にして評論家のダイアン・レインは、

 しこたま儲けたお金を、夫とその愛人と生まれてくる子供に譲り渡し、

 傷心のマンション暮らしをしていたところ、女友達から貰ったチケットで旅に出、

 売りに出ていた廃屋をひと目で気に入り、修復している内に、

 やっぱりアメリカから旅行に出てきた作家と恋に落ちて新たな生活を…、

 てな話なんだけど、まあ、ご都合主義かどうかは別にして、

 廃屋はダイアン・レインの見立てなんだよね。

 ぼろぼろになった築300年の洋館と、アラフィフの女、

 でも、磨けば、見違えるほど素敵になるんだから、

 人生、ため息ついてちゃダメなんだよって。

 そんなことわかってるし、トスカーナの綺麗なところで家がさっと買えて、

 しかも、近所の人達は言葉も通じるし、朗らかで好い人だし、

 なんていう設定だったら、ぼくだって旅に出ますがな。

 だけど、これは、廃墟の家の塀にいつも花を捧げる老人を観てもわかるように、

 おとなのおとぎ話なんだから、こまかいことを突っ込んだらいかんのです。

 ところで、

 この洋館は「ブラマソーレ・太陽に焦がれる者」っていう、

 いかにもイタリアらしい名前なんだけど、

 ここにかぎらず、

 廃墟と見まごうばかりの屋敷を改造するって、いいもんだよね。

 その屋敷が悲しく打ち沈んでいるのがわかるから、

 こんなにぼろぼろになるまで放っておくなんて、かわいそうじゃないかっておもうから、

 自分の暮らしを傾けても修復してやりたいっておもう。

 誰が喜んでくれるわけじゃない。

 自分が満足したいから修復する。

 道楽といわれればそれまでだけど、居ても立っても居られないから腰をあげる。

 現実から逃避していたダイアンは、屋敷と出会った瞬間、

 そういう気持ちになったんだろうね。

 でも、それで屋敷が蘇り、喜び、神様に通じて、新しい出会いがあったんだろうね。

 最後に、ちっとも出てくれなかった水道から水が流れ出すのは、

 ブラマソーレが喜んで、ダイアンにご褒美をくれたんだっておもいたいわ。

 あ、もちろん、屋敷がダイアンの見立てとするなら、

 ほとばしる水は、彼女の再生にほかならないよね。

コメント

不惑のアダージョ

2013年04月15日 02時08分40秒 | 邦画2009年

 △不惑のアダージョ(2009年 日本 70分)

 staff 監督・脚本・編集/井上都紀

     撮影/大森洋介 美術/増田佳恵 音楽/柴草玲

 cast 柴草玲 千葉ペイトン 渋谷拓生 橘るみ 西島千博

 

 △このアンバランスな感覚はなんだろう?

 主題はいたってシンプルだ。

 処女のまま不惑を迎えてしまった修道女が抱える不安、焦慮、葛藤、そして性の目覚め。

 これがそのまま素直にあらすじになり、

 植木職人、ストーカー、バレーダンサーとかいった一般的な会社員ではない男とふれあい、

 初潮を迎えた女の子と、赤飯を媒介にして繋がり、それぞれの将来をことほぐ。

 季節と人生の秋がいたるところに見え隠れする、静かで上品な映画だ。

 ただ、主人公の女性はやけにリアルなんだけど、

 どうにもこうにも、絡んでくる男たちがみんなリアルじゃないのは、

 いったいどんな狙いがあるんだろう?

 いちばんわからないのは、

 自転車に乗った彼女を、無数の男どもが追い掛けてくる場面で、

 あれは、脳内幻想なんだろうか?

 女性が、性衝動と性行為、

 それも、不惑となってから恋と性の目覚めを一気に体験するなんていう映画を撮る。

 そうした挑戦には、しっかりと拍手したい。

 でも、これって、観念的っていったら誤解を招いてしまうかもしれないんだけど、

 不惑を迎えてない女性が未知の女性を想像したものじゃない?

 てなことを、女性のことなんかなんにもわかっていない僕はおもってしまった。

 うまくいえないんだけど、女性が更年期にさしかかるときってのは、

 この映画以上に淡々としたものなんじゃないのかな~とかね。

 映画がアンバランスっていうのは、

 空気がなんとなく自主映画じみてて、

 主人公の演技が非常に自然で、とても好感がもてる反面、

 話の展開がドキュメンタリとは対照的に、やけに作り物めいていることかもしれない。

 植木鋏をぞんざいに扱う植木職人に始まり、男たちがやけにカリカチュアされていて、

 なんていうか、現実味が感じられないような演出をしていることなんで、

 いったいどこまでが計算されたもので、どこまでが偶然の演出なんだろう?

 とかいうことをおもわず感じちゃったってことだ。

 観客の女性の立場に立てば、

 彼女が拭いてあげる百合のめしべがすべてを物語ってない?…てのに始まり、

 早すぎる閉経ってほんとに不安だし、誰にでも訪れるのに誰もが不安なんだよ…とか、

 男の人には絶対にわからない女性のひとつの分岐点がリアルに描かれてて…とか、

 これまでの映画は男性目線だから性衝動とか描かれてもみんなオーバーで…とか、

 なるほどそうだよねっていう意見になるんだろうし、ぼくもそうおもいます。

 でも、それなのに、

「どうして、男たちは、設定がどれも濃いのに、透明な印象だけ残してしまうの?」

 っていう疑問がわだかまってしまう。

 なんとも不思議な映画でした。

コメント

青髭

2013年04月12日 17時06分43秒 | 洋画2009年

 △青髭(2009年 フランス 80分)

 原題 BARBE BLEUE

 staff 原作/シャルル・ペロー『青髭』 監督・脚本/カトリーヌ・ブレイヤ

     撮影/ヴィルコ・フィラチ 美術/オリヴィエ・ジャケット 衣装/ローズ=マリー・メルカ

 cast ローラ・クレトン ダフネ・ベヴィール マリールゥ・ロペス=ベニテス ローラ・ジョバンネッティ

 

 △青髭のモデルは、ジル・ド・レイ

 青髭をあつかったベローの小説も、グリム童話も読んだことはない。

 なんでこんなに本を読まないんだろうっていうくらい、恥ずかしい話だ。

 もしも漫画になってたら読んだかもしれないんだけど、活字って読むのめんどくさいんだよ~。

 で、そんな怠惰なぼくは、映画を観て、わかったつもりになる。

 この映画も、そうだ。

 耽美的な映像は非常に好みなんだけど、青髭が花嫁を見つけようとする宴は、

 ちょっとしょぼい感じがしてしまうのは、予算のせいなのかしら?

 映画の構成として興味をひくのは、姉妹が2組出てくることだ。

 童話を読んでいる幼い姉妹と、青髭の見合い相手になる姉妹なんだけど、

 童話の世界が現実だとすれば、青髭の世界は15世紀の幻想に近い。

 原作だと童話を読んでいる姉妹の部分はないらしいから、かなり手が入ってるんだろう。

 なんだかまったく独立したふたつの世界っていう印象なので、

 どうして現実部分が撮られたのかは、ちょっとよくわからない。

 映画の佳境、青髭の首が皿に乗せられているくだりでは、

 多くの人達が『サロメ』を指摘してる。

『サロメ』がモチーフになっているかどうかってことは、

 なるほど、たしかに『サロメ』の絵を観るかぎり納得はするんだけど、

 青髭の妻になる妹が、サロメに見立てられるのかといえば、

 ちょっと人間関係が違うような気もするんだよな~。

コメント

天国の青い蝶

2013年04月11日 23時47分04秒 | 洋画2004年

 ◎天国の青い蝶(2004年 カナダ、イギリス 94分)

 原題 The Blue Butterfly

 staff 監督/レア・プール 脚本/ピート・マコーマック 撮影/ピエール・ミニョー

     美術/イェイム・フェルナンデス 音楽/スティーヴン・エンデルマン

 cast ウィリアム・ハート マーク・ドネイト パスカル・ビュシエール ラオール・トゥルヒージョ

 

 ◎1987年、カナダからメキシコへ

 カナダの昆虫館モントリオール・インセクタリュウムにある巨大コレクションは、

 昆虫学者ジョルジュ・ブロッサールのもので、映画はここから始まる。

 この映画は、かれの体験した不思議な実話らしいんけど、

 環境が劇的に変わることで、ほんとに末期の脳腫瘍が快癒するんだろか?

 でも、当時6歳(映画では10歳ね)だったダヴィッド・マランジェが来日して、

 自分の体験についてインタビューに答えてるんだから、ほんとなんだよね?

 てな疑問を観る前には浮かべていたんだけど、それは無駄な時間だったかも。

 洋画のいいところは、病気を悲劇だと捉え切らないことだ。

 重篤な病気になって病人が苦しんだり、それを見守る家族や関係者が狼狽したり、

 ともかく、

 死を迎えることで、悲しみにひたる映画が感動作だとかいうことに、

 ぼくは、首をかしげちゃう。

 悲しみを見て涙するのは同情で、喜びを見て涙するのが感動だとおもうから。

 この映画も、そういう類いのものだ。

 もちろん、病気と蝶、そして学者と母親の恋愛を媒介にして、

 人間の肉体と心の再生を主題にしている。

 ロケ地は、中米コスタリカの熱帯雨林、トルトゥゲーロ国立公園あたりだそうな。

 実際に蝶を捕まえに行ったのは、アカプルコらしいから、ちょっと雰囲気がちがう。

 より神秘的なロケーションを持っていることがロケハンでわかったからだろう。

 その雰囲気は、この映画には欠かせないもんね。

 ちなみに、モルフォ蝶の美しさといったら、ない。

 ブルーモルフォっていう蝶は、モルフォ蝶の中でも青いやつの総称なんだろうけど、

 その中でも、ぼくは、

 キプリスモルフォとヘレナモルフォっていうやつがお気に入りだ。

 ブローチとかが手に入ったら帽子にでもつけるんだけどな~。

コメント

恋とスフレと娘とわたし

2013年04月09日 13時52分24秒 | 洋画2007年

 △恋とスフレと娘とわたし(2007年 アメリカ 102分)

 原題 Because I Said

 staff 監督/マイケル・レーマン 脚本/カレン・リー・ホプキンス、ジェシー・ネルソン

     撮影/ジュリオ・マカット 美術/シャロン・シーモア 音楽/デイヴィッド・キティ

 cast ダイアン・キートン マンディ・ムーア ガブリエル・マクト トム・エヴェレット・スコット

 

 △やっぱり甘いものが好き

 英語が喋れないのは困ったもので、原題の『Because I Said』ってのもよくわからん。

 勝手に意訳すれば『だから、いったでしょ』とか『ほら、ごらんなさい』って感じなのかな?

 邦画の場合、これをタイトルにするのは難しいよね。

 そんなことはいいんだけど、いかにもダイアン・キートンっぽいタイトルだ。

 ていうか、人物設定も筋立ても、いかにもダイアン・キートンだ。

 ぼくは、彼女がウディ・アレンとつきあってたときから、けっこう贔屓にしてる。

 コメディもシリアスもきちんとこなすし、うまい女優さんだな~とおもってきた。

 今回もそうで、

 スタイルもセンスもよくて、お菓子作りの腕は最高なのに、おせっかいで、口が悪く、

 過保護の塊で、実をいうと娘よりも自分がいつまでも恋をしていたい、

 っていう、なかなかいそうでいない還暦過ぎの母親を、あっけらかんと演じてる。

 下ネタ満載の母子の会話や露骨な冗句に、

 慣れてない人は辟易するかもしれないけど、

 いつまでも若くて、性に関して開放的な感じを出そうとしてるんだろね。

 この頃、ケーキでも、あまり甘くなくて軽い感じです、とかいうのがあるけど、

「ケーキってのは、甘いものを欲しいから食べるんじゃないのかい」

 とかいいたくなっちゃう。

 恋もケーキも、じょわじょわに甘い方がいいじゃん。

 甘いものが出てる映画だと、

 やっぱ『ショコラ』のチョコレートや『アメリ』のクリームブリュレだけど、

 この映画にある『スフレ』もまた象徴的に使われてる。

 結婚適齢期から外れてしまいそうな娘や、恋愛適齢期を過ぎてしまいそうな母親って、

 つまり、焼き上がってからどんどん時間が経ってる『スフレ』なんだよね、

 ヒッチコックの愛したスフレは、焼き立てがおいしくて、時間が経つとしぼんじゃう、

 つまり、恋もスフレもいちばん美味しいときに食べなくちゃいけない、

 かといって、自分の持ってるスフレはひとつだけじゃない、

 還暦すぎても恋のできるダイアン・キートンのように、がんがんスフレを作っていけば、

 人は、何度でも焼き立てのスフレのように美味しくなれるんだ、

 だから、結婚適齢期だの恋愛適齢期だの、

 そんなこと気にしてたら始まらない、

 スフレみたいに甘い恋なんてできないよ、

 てな話だと受け止めればいいんだろか?

コメント