イライラするのは不快だ。
イライラする原因はいろいろで、これは生きてる限りなくなることは
ないだろう。
だけど、ひとつ見つけた。
心と体が離れているとき、私はイライラしやすいようだ。
手は皿を洗っているが、心は(頭は)「あ、カレンダーにあの予定書いとかなくちゃ」と思う。
当然両方はできない。
そのうち心は(頭は)「あ、ノート頼まれてたんだ」「あ、灯油まだあったっけ?」と際限なく
続き、手元に意識が戻ったとき、皿にこびりついたカピカピの卵を見る。。。イラつく。。。
朝起きてから自分の手がしていること、これはすべて動詞にできる。
布団を「つかむ」、体を「支える」、トイレットペーパーを「つまむ」、電気のスイッチを「押す」、
包丁を「持つ」、引き出しを「引く」・・・これは当然手があるからできること。
実は手がしてることはすごいのだ。
でも40年以上も生きてると手がこなしてるたくさんの動詞、に対する意識が薄れる。
心に(頭に)ついてこない手にイラつく。
これでは手がかわいそうだ。
もっと手に敬意を払おう。
私の手がこなす動詞であふれる台所で、最近そう思うことにしている。
イライラする原因はいろいろで、これは生きてる限りなくなることは
ないだろう。
だけど、ひとつ見つけた。
心と体が離れているとき、私はイライラしやすいようだ。
手は皿を洗っているが、心は(頭は)「あ、カレンダーにあの予定書いとかなくちゃ」と思う。
当然両方はできない。
そのうち心は(頭は)「あ、ノート頼まれてたんだ」「あ、灯油まだあったっけ?」と際限なく
続き、手元に意識が戻ったとき、皿にこびりついたカピカピの卵を見る。。。イラつく。。。
朝起きてから自分の手がしていること、これはすべて動詞にできる。
布団を「つかむ」、体を「支える」、トイレットペーパーを「つまむ」、電気のスイッチを「押す」、
包丁を「持つ」、引き出しを「引く」・・・これは当然手があるからできること。
実は手がしてることはすごいのだ。
でも40年以上も生きてると手がこなしてるたくさんの動詞、に対する意識が薄れる。
心に(頭に)ついてこない手にイラつく。
これでは手がかわいそうだ。
もっと手に敬意を払おう。
私の手がこなす動詞であふれる台所で、最近そう思うことにしている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます