かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠372(中欧)

2017年12月23日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
  【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
   参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子
   司会と記録:鹿取未放

372 夫をなくせし市街戦もはるかな歴史にてドナウ川の虹をひとり見る人

     (レポート)
 「夫をなくせし市街戦も」と「も」によって昔語りのように詠い出され、女性にスポットを当て、歴史的事実の周縁を「歴史にて」としていよう。はた「はるかな」と形容しているのは、過酷な歴史を生きた人々が歳月に癒されたであろうと確信しているような視線だ。「虹」があたかもそれを象徴し、時そのものとして流るる「ドナウ川」にかかる。時をつかのま照らすのだ。そしてそれを「ひとり見る人」がいる。いずれにせよ取材によったのではなかろうに断定でとおしていることに違和感がないのは、作者の力のゆえであろう。
 最後に馬場あき子の『太鼓の空間』あとがきより引く。(慧子)
「日常の視線の中にも縦の時間をみることによってその存在を納得しようとする方向をもっていたように思います。それはもう私の癖といってもいいように身についてしまったものの一つですが、この時間空間に漂遊する時が一番私にとっては豊かな思いがあります。」 


      (当日発言)
★「虹をひとり見る人」は371番歌「ケンピンスキーホテルの一夜リスト流れ老女知るハンガリ
 ー動乱も夢」同様、作者の力量で作り出した人物。プロのやり方。(鈴木)
★レポーターの言う「過酷な歴史を生きた人々が歳月に癒されたであろうと確信しているような
  視線だ」というところは反対。人々の気持ちは歳月が経っても癒されきれていないだろう。
    (崎尾)
★生々しい傷は歳月によって薄れているだろう。(鈴木)
★確かに生々しい傷は薄れているのだろう。それが虹を見るという行為で表現されている。しかし
 「ハンガリー動乱」で夫を亡くした老女はその傷を死ぬまで抱えて生きるのだ。三・一一で子供
 や親を失った人も同じだと思う。ただ鈴木さんのいうように実在しない人物を詩の力で登場させ
 たと考える方が歌として深くなるかもしれない。あるいは「ドナウ川の虹をひとり見る」老女が
 いたが、その老女と作者は関係を持たず、したがって「夫をなくせし市街戦」は作者の想像と考
 えることも可能だ。そういう独断が詩を生み出しているとも言える。レポーターもいうように馬
 場の独断・断定の歌には秀歌が多い。また馬場自身朔太郎の「独断でさえないものが詩であろう
 か」というような意味の言葉をよく引用している。(鹿取)
   沙羅の枝に蛇脱ぎし衣ひそとして一夜をとめとなりゆきしもの『青椿抄』馬場あき子





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