かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠364(中欧)

2017年12月13日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠50(2012年3月実施)
  【中欧を行く 秋天】『世紀』(2001年刊)91頁~
   参加者:N・I、K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:崎尾廣子
   司会とまとめ:鹿取未放
   
364 いまの地球救ひうる一人缺けてゐる英雄広場の酸性の雨

     (まとめ)
 酸性の雨の降るうすら寒い英雄広場に立って、今の地球を救う一人が存在しないことを嘆いている。もし藤本さんのいうようにかつてのハンガリー革命の英雄の一人が欠けているということなら「いまの地球」という表現にはならないはずだ。また、『プラハの春』は1956年の事件を題材にしているので、ハンガリー革命の英雄とは結びつかない。
 ちなみに英雄像十四体の内、最後の像は一九四八年にハンガリー革命一〇〇年を記念して入れ替えられたそうだ。その入れ替えられた十四体めが、レポーターが362番で書いているハンガリー革命の指導者で亡命しイタリアで客死したコッシュートである。入れ替えられる前は、英雄広場建設当時のハプスブルク皇帝フランツ・ヨーゼフの像であった。(当時ハンガリーは、ハプスブルクとオーストリアとの二重帝国の時代だった。)
 この歌が歌われてから20年ほどが経過した現在、更に世界は昏迷を深め、今の地球を救う一人が存在しない感は深くなる一方だ。(鹿取)

     (レポート)
 この歌を読みすすめてゆくと散文を読んでいるように思えたりもしたが、3句、結句は歌の韻律を踏んでいる。ここに深い思いが感じられる。酸性の雨も降り始めの頃は声高に警告していた科学者もいたが、今日ではあまり話題にのぼらない。英雄広場に感じたであろう空しさに自身が日頃感じているであろうと思われる地球への愁いを重ねているようだ。だが「救いうる一人」の「うる」にかすかではあるが望みは失っていない胸の内が感じ取れる。今の日常に目を向けさせる歌である。「いま」のひらがなに地球のあやうさを、「缺けてゐる」に潜む地球への強い愁いを感じ取る。(崎尾)

     (当日発言)
★今は英雄という人がいない。(N・I)
★なぜ一人なのか?一人だけなのか?(T・H)
★T・Hさんの疑問はもっともで、期待する英雄は一人だけでなくたくさんいてほしいですよね。
 でもまあ、ここは修辞です。たとえば「いまの地球救ひうるあまた缺けてゐる」と言ったら歌に
 ならないでしょう。(鹿取)
★作者はこの旅行の前に『プラハの春』を読んで行ったそうだ。十四体以外に入るべき人がいる
  はずなのに入っていないと言っている。ハンガリー革命の英雄の一人か?(藤本)
★ここに十四体のかつての英雄が顕彰されているが、今現在の混沌とした世界を救う人物が存在し
 ないと嘆いている辛辣な歌。レポートについてですが、「救いうる」の「うる」は可能の助動詞
 で、救うことができる」という意味です。直後にその一人が「缺けてゐる」と否定されますが。
 また、「いま」をひらがな表記にしたことで、ことさら地球のあやうさを感じ取れるようにでき 
 ているとも思えない。ついでにいうと「3句、結句は歌の韻律を踏んでいる」というのは何のこ 
 とか分からない。「韻律」は踏んでいるとは言わな。それでは「韻を踏む」の間違いかと思って
 も3句、結句は韻は踏んでいません。(鹿取)