馬場あき子の外国詠50(2012年3月実施)
【中欧を行く 秋天】『世紀』(2001年刊)91頁
参加者:N・I、K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾廣子
司会とまとめ:鹿取未放
356 ハバロフスクの上空に見れば秋雪の界あり人として住む鳥は誰れ(前編)
(まとめ)
この旅は11月頃のことであろうか。(歌集巻末に載る中欧の歌の初出が総合誌で翌年の1月号である。)冬の早いシベリアにはもう雪が積もっているのが見下ろせた。四句から五句にかけての「人として住む鳥は誰れ」は難解で、さまざまな意見があった。
一番単純な解釈は、飛行機から見ると一面の雪景色で、その上を鳥が舞っていた。そんな鳥を見ながら、あの中に人間となって住む鳥がいるかもしれないなあと空想している。「鶴の恩返し」などを考えればそれほど無茶な解釈ではない。次の歌が(アムールを越えてはるかに飛びゆくをあなさびし人恋ひて降(お)りゆける鳥)へも自然に繋がるだろう。
もう一つの解釈は、言葉の外側にシベリアで亡くなった日本人兵士を鳥として悼む気持ちが揺曳しているととるもの。これは「住む」が現在形なので少し無理のある解釈かもしれない。とはいえ、作者はシベリア上空を通る度に抑留された日本人兵士のことが気になるらしく、しばしば歌にしているので、何首か挙げてみる。
一万七千の高度よりみる白雲の網に捕らはれし初夏のシベリア
『青い夜のことば』スペイン途上の詠
白光を放つ雲上ひきしまり足下にシベリアの秋ひろがるといふ
『飛種』トルコ途上の詠
シベリアの雲中をゆけば死者の魂(たま)つどひ寄るひかりあり静かに怖る
呼びても呼びても帰り来ぬ魂ひとつありきシベリアは邃(ふか)しと巫(ふ)に言はしめき
魂は雪に紛れてありと言ひて青森の巫の泣きしシベリア
収容所(ラーゲリ)の針葉樹林に死にしもの若ければいまだ苦しむといふ
(レポート)
雪がおおう地が飛び立った旅客機の中で目に入ってきたのであろうか。ハバロフスク、音に勢いのある地名である。広大な原野を想いうかべる初句である。二句、三句の句切れがよくわからない。二句であろうと思われる「秋」がここで静かに立ち上がっている。三句の「雪の界」にこの「秋」が掛かりやや冷たい風の吹く澄んだ雪の界が浮かんでくる。この静けさがあたかも破られるかのように結句の「誰」に目がとまる。やがて来るきびしい季節を知らされるようである。この「住む鳥」はシベリアから日本へも飛来してくる鶴であろう。飛行を続ける中で物語「夕鶴」のおつうが胸の内をよぎったのであろうか。名を名乗っても鶴は鶴である宿命に心を寄せているのであろうと思う。また与ひょうの悲しみに抑留されこの地に果てた兵達の家族の悲しみが重なる。ハバロフスクの秋を詠った印象ぶかい歌である。結句の「誰れ」が宿題を与えられたかのように心にずっしりと残る。
(崎尾)
ハバロフスク:ソ連極東地方の中心都市。シベリア東部のアムール川右岸ウスリー川との合流
点近くにある。シベリア鉄道が通じる。(言泉 小学館 昭和62年版)
(当日意見)
★「ハバロフスク」はソ連ではなく今はロシアですね。歌の切れ目はこんなふうになると思います。
ハバロフスクの/上空に見れば/秋雪の/界あり人として/住む鳥は誰れ
7・8・5・9・7でずいぶん破調の歌です。レポーターが二句、三句の切れ目がわからないと言われて
いますが、そこははっきりしています。3句めの「秋雪」は熟語です。「秋/雪の界」ではありません。
4句が句割れになっています。(鹿取)