かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠356(中欧)

2017年12月05日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠50(2012年3月実施)
   【中欧を行く 秋天】『世紀』(2001年刊)91頁
   参加者:N・I、K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:崎尾廣子
   司会とまとめ:鹿取未放
   
356 ハバロフスクの上空に見れば秋雪の界あり人として住む鳥は誰れ (後編)

 ※以下、ブログを読んでくださった方々からの意見です。
  
           ◆(後日意見)①
とても魅力的な歌。その超常的な魅力はやはり下の句の「人として住む鳥」にある。秋雪の界に人として住む鳥は、神話的で、この世ならぬスピリチュアルなイメージもあります。「人として住む鳥」は誰か。やはり生身の人間ではないのだと思います。飛行機のなかで、シベリアの雪景色を見ながら初めてそんな存在が感受できたのではないかと思いました。鹿取さんのおっしゃるように、シベリア抑留の死者のたましいが重ねられているのかもしれないと思います。(N・U)

           ◆(後日意見)②
 鶴の恩返しの話から解釈するのがいいかもしれない。抑留の話まで広げるのはやはり無理かもしれませんが、そんな鳥が今すんでいるのかもしれないと見下ろしているのではないか。シベリアからやってきて日本で越冬する鶴や昔話へ思いが飛んで、飛行機から物語の世界へきたように見ているのだろうか。ロシア民話の変身譚などを思い出しました。
                       
           ◆(後日意見)③ ロシア文学に出典があるのではないか。(田村広志)

        ◆(後日意見)④
 イシュトヴァーンを調べる段階で、「伝説の鳥」の話に行き当たった。ウラル山脈あたりに住んでいたマジャル民族が西進して住み着いたのがハンガリーの起こりだそうだが、その部族長アールパードをこの伝説の鳥が生んだと伝えられている。初代国王イシュトヴァーンはその子孫にあたるそうだ。飛びつきたい伝承だが、いかんせんハバロフスクとウラル山脈は離れすぎている。
 スウェーデンの童話「ニルスの不思議な旅」も気になる。小さくされてガチョウに乗ったニルスが空の旅をしつつ成長する話で、大江健三郎がノーベル賞受賞の折の講演で引用しているが、これもいかんせんシベリアとは離れすぎている。(鹿取)

      ◆◆(後日意見)⑤(2015年4月)
 先日、NHKで放映された「遠野物語」に関する番組で、馬追鳥(ウマオイドリ)の話が紹介された。ホトトギスに似た鳥で、胸に轡のような型があるという。お話は、奉公人が山へ馬を放しに行くが、戻ろうとしたら一頭足らず、逃げた馬を探し回っているうちに馬追鳥になったというもの。そして深山に住んでマーオー、マーオーと鳴いているらしい。遠野だけでなく近隣に似たような話があり、奉公人が継子だったり、逃げたのが牛だったりといろいろなバリエーションがあるようだ。
 これまで、「鶴の恩返し」、イシュトヴァーンの「伝説の鳥」、「ニルスの不思議な旅」など「人として住む鳥」について意見が出されたり、私自身も考えたりしたが、今回、「遠野物語」を聞いていて、場所が離れていることにはそれほどこだわる必要がないのだと気がついた。
 ハバロフスク上空を飛行機でよぎる時、秋なのにもう雪に埋もれた地が見下ろせた。その時ふっと上記のお話の「人として住む鳥」が脳裡をよぎった。「人として住む鳥」という言いまわしは分かりづらいのだが、哀れさを誘われるかなしい鳥なのだろう。その思い描かれた鳥は、作者が見たと言っているわけではないから雪の積もったハバロフスクに住んでいる必要は無いわけだ。ただ、哀れさの連想からいくとイシュトヴァーンの「伝説の鳥」、「ニルスの不思議な旅」などは消えるかもしれない。この時作者が馬追鳥のお話を思い浮かべたとしてもおかしくはないように思われる。そもそも「人として住む鳥」を特定する必要もないだろう。(鹿取)