鯨方一条のまとめ
熊野灘に面する古座浦捕鯨業は、江戸時代、紀州藩が創設に係わった半官半民の鯨漁で、その点、古式捕鯨で著名な近くの太地浦の捕鯨業が民間の経営であったのと大きな相違です。鯨方の「方」とは、役所の意味も含みます。又捕鯨業以外にも、難破船の救助や、異国船の見張りなど海防の役目も担っていたと言うことです。(以上先生に教えて戴いた話です。)
この古文書は、第一ページが古座組の隣の、江田組大庄屋が、古座鯨方の事件に関与して罰せられた、古座組大庄屋の替わりに古座組大庄屋兼務を命じられたと言う文書から始まっています。
二ページからは、鯨が捕れた時に、鯨方と商人が結託して、入札のたびに不正をしてお金を積み立てて置き、商人どもに用立てしたり、内部で貸し付けしたりしていた事が発覚し、それぞれ処罰すると言う判決文のような文書が九通続きます。最初、古座浦の庄屋は、責任上「浦追放」と言う重い罪。鯨漁師と商人にははそれぞれ罰金刑。 大庄屋は免職で自宅謹慎四十日の判決です。
これに対し、各浦村の庄屋連名で、当組の大庄屋は住民の為によく尽くしてくれた人で、是非お情けをもって、元通り大庄屋の役をさせてあげて下さい、それが駄目なら、せめてその息子に大庄屋の役を命じてくださいと言う陳情書が最後にあります。
古座組は、紀伊半島南部の「口熊野」の一部で、明治以降は和歌山県東牟婁郡に属し、その後昭和、平成の世に町村合併を繰り返し、平成二十三年現在、海岸沿いの地区は西牟婁郡串本町と合併して、東牟婁郡串本町となり、海岸以北は東牟婁郡古座川町となっています。
古座川は、四国の四万十川に匹敵する清流と言うことで有名で、上流域山間部は紀州材の産地で、終戦後まで製材業でも栄えました。現在は外材に押され、製材業者はほとんど廃業しています。清流の鮎釣り・鮎の「火振り漁」・レンタル・カヌー・河内祭り等、川に関連したレジャーで観光客を誘致しています。古座の獅子舞は、当地方各所の獅子舞の原点と言われています。