貝ヶ森の一八鮨の建物を取り壊していた。
一八鮨は2011年の12月に店を閉めていたが、突然重機が入った。
以前は一八からよく出前を取っていた。
国見ケ丘に「うまい鮨勘」が開店してから、お客さんが減っていたようだ。
南隣の酒屋「たまげだや」は数年前に閉店して、昨年「貝が森皮膚科」が建った。
(註: 団地は貝ケ森。皮膚科は貝が森。)
「たまげだや」の息子、I君は柔道をしていたが、どこに行ったのだろう。
その南隣の生協貝ケ森店も以前の活気がない。
周囲を、生協八幡町店、生協国見ケ丘店、ヤマザワ、ウジエスーパー、イオンに囲まれた上、貝ケ森団地の人口が減っては存在意義が薄れた。
かつては毎年夏に駐車場で生協祭りというのをやっていた。
我が家も金魚売りの手伝いをしたことがあった。
気仙沼にある「一八」本店も津波にあって閉店した。
それが「鮨智」と屋号を代えて再出発したそうだ。
すし処 「鮨智」
宮城県気仙沼市田中前4丁目3-4
0226-24-9220
先年の河北新報に次の記事が載った。
東日本大震災の津波で、故郷・宮城県気仙沼市の母を亡くした仙台市青葉区のすし店主小関和徳さん(51)は昨年末、母の死の直前まで一緒だったという女性の訪問を受けた。
「助けられなかった」と自責の念を抱き続けていた女性は、家族に最期の姿を伝え、母の様子を知った小関さんは感謝した。
震災から間もなく1年。
一つの出会いが、それぞれの心を癒やし、震災を乗り越えて進もうとするきっかけとなった。
さよ子さんは気仙沼市のすし店「鮨一八」のおかみとして知られた。店を切り盛りしながら、小関さんら息子3人を育て上げた。
店は人に譲り、1人暮らしだった。
昨年11月下旬の葬儀の後、若い女性から小関さんに電話があった。
「震災の日、津波が来る直前までお母さんと一緒でした」。
数日後、さよ子さん宅の近所に住んでいた20代の女性が、小関さんの店を訪ねてきた。
女性によると、地震発生後、偶然居合わせたさよ子さんの手を引いて逃げたが、津波が押し寄せてきた。
「私がおぶるから逃げよう」。
必死でそう言う女性の頬を、さよ子さんは軽くたたいて告げた。
「あなたはまだ若いんだから逃げなさい」。
女性は近くのビルに避難したが、さよ子さんは津波にのまれたという。
小関さんの母さよ子さんは津波にのまれ、昨年10月に遺体で見つかった。
「どうして助けられなかったのか」。女性は悩み、毎月11日、さよ子さんの自宅跡に花を手向けた。
葬儀のことを知り、迷った末に「自分だったら家族の最期を知りたい」と決意。小関さんに連絡した。
女性から話を聞いた小関さんは「母が死ぬ間際も他人を気遣っていたと知り、息子として誇らしくうれしかった」と言う。
「感謝の気持ちでいっぱいだ。どうか自分を責めず、前向きに生きてほしい」と女性を案じる。
女性は現在、気仙沼市内で働いている。「さよ子さんに命をつないでもらった。
その思いを遺族に伝えられて、自分も救われた。
震災から1年を区切りに気持ちを切り替え、命を無駄にしないよう生きたい」、そう語った。