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70億人が幸せになる方法[その12]

2015-08-07 06:21:37 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その12]」です。

初めての友達のけいちゃんは、頭が良くて真面目で、学級委員をやっていたような優等生でした。
そんな子が裏切り事件があったのに、話しかけてくれて、友達にまでなってくれたのにすごく感謝しています。

他のクラスメートは私が何かするたびに、例えば授業で発言したり、笑ったりする度に、
「裏切り者」と陰でこそこそ耳打ちするのです。
私は、本当に針の筵に座らされているようで、自分が撒いた種とは言え、それに耐えるのが精一杯でした。

唯一、けいちゃんだけは、「遊びにこん?」といって、私を自宅に招いてくれました。
けいちゃんの実家は島でも数少ない商店をやっていて、お店の駄菓子なんかをおやつにくれたりしました。

当時、貧乏でお小遣いも貰えなかった私は、初めは駄菓子目当てで毎週のようにけいちゃんの家に遊びに行っていました。
けいちゃんは、自分の集落の色んな所を案内してくれて、そこで色々と遊んだり、喋ったりしていました。
すごく楽しかったのを今でもはっきりと覚えています。

私が小5になった時、もう一人の友達、さとしくんが出来ました。さとしくんは今思うと多分自閉症だったと記憶しています。
その時にさとしくんの集落で秋祭りが開かれるのですが、その山車に乗る太鼓の叩き手になんと私が選ばれました。
さとしくんは太鼓の叩き手の先輩でした。ものすごく太鼓が上手で、それもそのはずで、さとしくんのお父さんが、
代々、子供達に太鼓の叩き方を教えていたのです。

かく言う私も、さとしくんと一緒にさとしくんのお父さんから太鼓の叩き方を教わっていました。
私は初めのうちは目立つ事をする事が嫌で、少し嫌々練習に参加していたのですが、
さとしくんのお兄さんが、面白い人で、太鼓も上手く、自作の漫画を読ませてくれたりしました。
このお兄さんが後々私の今の仕事を始めるきっかけになるのですが、その時は同級生のお兄さんとして、
ちょっと憧れていました。

この集落では祭りに参加するして山車を引っ張ると、なんとお小遣いが貰えるのです。
秋祭りの時、島では「さしましょ」とか「せんだいろく」と呼ばれる山車を小4から中3までの子供たちだけで、
引っ張ったり、山車に乗り込んで太鼓を叩いたりすると、「お花」と呼ばれるお金を子供たちだけで分け合って、
お小遣いにできるのです。

その額は当時の子供たちには、お正月のお年玉以上の金額が臨時に貰えるという、なんとも素晴らしいシステムでした。
「お花」は所謂、神様への奉納金です。それと同時に祭りの運営資金にも充てられていました。
私は現金なもので、お金がもらえると分かった時から、太鼓の練習に励みました。
その甲斐あって、なんと私は、さとしくんと一緒に祭りの山車に乗って太鼓をたたく役目を仰せつかったのです。

私は失敗しないように手にマメを作るまで一生懸命練習しました。
祭りが開かれて祭りは大成功を収めました。練習の成果があったのです。
祭りが終わって子供たちだけでそのお花を分配する時に年齢と役割によって金額の加算が行われました。

なんと私は、当時のお金で5千円も貰うことが出来たのです。さとしくんも5千円です。
私はこの祭りで努力すれば報われることを学びました。

それ以来、さとしくんとは仲良くなっていったのでした。

[その13]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その11]

2015-08-05 06:01:00 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その11]」です。

家でも学校でも居場所のなかった私は、まずは小学校で初めての友達が出来ました。
あの、私の裏切り事件で殴られたクラスメートのうちの一人が、なんと私に声をかけてくれたのです。

私は、驚いたのと嬉しかったのを今でもはっきりと覚えています。
初めての島での友達は「けいちゃん」といいます。

けいちゃんは、私の住む集落より、4キロほど西に離れた漁港のある集落に住んでいました。
初めの頃は毎朝、挨拶をする程度だったのですが、二人目の友達が出来てから、その友達と一緒に、
けいちゃんの家に遊びに行ってから仲良くなりました。

二人目の友達は、私の住む集落より、1キロほど東に500メートル離れたこれも漁港のある集落に住んでいました。
朝、集団登校で私の住む集落で、4人と、その東側の集落から来た3人の7人で通学していたのですが、
そのうちのクラスメートだった2人のうちの男の子の方に私から挨拶を始めて少しずつ話すようになりました。
その男の子は「さとしくん」といいます。さとしくんは、当時から少し変わった子でした。
口数が少なく、かなりの人見知りで、実は私も人見知りだったのですが、さとしくんと毎日一言二言しゃべるうちに、
少しずつ仲良くなっていったのでした。

もう1人の女の子のクラスメートとも、朝の挨拶を始めるようになってから、私の住む集落で年少の子たちと一緒に、
帰宅後近くの「おいべっさん」と呼ばれる神社の境内で遊ぶようになりました。
その女の子は「たかちゃん」といいます。
たかちゃんも、当時人見知りでやはりさとしくんと同じように挨拶を交わすようになって、一緒に通学するうちに、
少しずつ仲良くなっていきました。

私はけいちゃん以外のクラスメートには、すべて苗字で相手の名前を呼んでいました。
そんなに深い付き合いを私からも取らないようにしていたのです。

学校のクラスであの事件があってから、もう友達はできないと思っていた私にも、少しずつでしたが、友達ができていきました。
小学校時代に仲良くなったクラスメートは、その3人だけでしたが、本音でぶつかった事はありませんでした。

いつも私は少し斜に構えて、自分の心を閉ざしていたのです。
でも、一緒に遊ぶうちに、私の心の扉も少しずつその3人のクラスメートにだけは開かれていきました。
けれども、家の中での事については話せませんでした。
なので、当たり障りのない範囲での付き合いしかできませんでした。

島での友達は、その3人が幼馴染といえるでしょう。
初めての島での人間関係は、こうやって少しずつ構築されていきました。

[その12]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その10]

2015-08-02 07:02:03 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その10]」です。

家でも、学校でも居場所のなかった私は、今思うと当時、人間不信に陥っていました。

大阪時代は特に何も考えないでお気楽に過ごしていたのですが、
香川に来た頃から、私は色んな体験をする中で、常に周りの顔色を伺い、何かあると嵐が過ぎ去るのを待つ様な、
子供らしさを無くした生活を送っていました。

ちょうど、いじめが始まった頃から、私と弟はおねしょをする様になったのです。
小学校に入ってから、小4になるまでおねしょなんてした事がなかったのに、
島に来てから急に数日に一回はおねしょをする様になってしまったのでした。

今思うと、多分母親がいなくなり、生活環境が変わった事によるストレスから、
おねしょをする様になったのだと思います。

当時はおねしょがあまりにひどいので、祖母が無理やり私たち兄弟を鍼灸所へ連れて行き、
お灸治療を無理やり受けさせられました。

私たちはその治療が苦痛で仕方ありませんでした。だって、お腹とお尻と足の親指にもぐさを据えられて、
その熱さに耐えなければならなかったのですから。

結局、おねしょは私が小学6年になるまで2年以上続いたのです。
本来なら小児精神科で治療を受けなければならなかったと思います。

その上、家では基本的に祖母から「タダ飯喰らいはさせん」と言われて、やった事もない家事を小4でさせられていたのです。

当時、島の家ではお風呂は五右衛門風呂で、風呂焚きから教え込まれ、洗濯、食事、掃除などの家事全般を、
子供達にさせていたのでした。

今思うと、それは辛かったのですが、独り立ちするには良い経験となりました。今では感謝しています。

母親がいないという事はそういう事だと、心の奥に刻みつけられたのでした。

家ではこき使われ、学校ではいじめられて居場所がなく、本当に私は精神的に追い込まれていました。
こんな生き地獄の様な環境から、どうにかして抜け出したいと強く願う様になったのです。

そこで私は自分に手に職をつけて島を出て働きたいと考えました。とにかく環境を変えたかったのです。
そのために私は自分がやりたい事で仕事をして独立したいと思う様になりました。

当時の私の夢は、第一希望は技術者、第二希望は料理人、第三希望は漫画家になることでした。
それぞれ自分が好きな事で、なりたい順番を付けるとこういう風になったのです。

技術者は小さい頃からの夢で、人が乗れるロボットをつくりたいと思っていました。
料理人は家で家事をやるうちに料理作りに目覚めたからで、初めは苦痛でしたが段々好きになったのです。
漫画家は当時私は、絵を描くのが好きで、暇があったら空想を膨らませて、色んな絵を描いていました。

こんな私でも、夢があったから、なんとかその当時のひどい環境を耐える事が出来たのです。

もちろん、それだけではありません。私の環境も少しづつ変わっていったのです。

[その11]に続きます。

70億人が幸せになる方法[その9]

2015-07-31 05:55:40 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その9]」です。

私の母について、幼少の頃の思い出は、病気や怪我をした時に面倒を見てもらった事と、
たまに作ってくれるカレーライスの思い出くらいです。

基本的に母は専業主婦でした。しかし、家事らしい家事はあんまり上手ではなく、むしろ、無精な方でした。
また、育児に関しては基本的にはほったらかしで、暇があれば横になってテレビを見ている印象しかありません。

放任主義というと聞こえはいいですが、どうやら今でいう育児放棄に近いものだったと記憶しています。

私は特に主婦はこうでないといけないとかはありませんが、それでも最低限、母親としての役割は果たして欲しいと思っています。
子供に教育を受けさせ、躾と食育を行う事が最低限の親の責任だと思います。
私の記憶ではそれらをしてもらった記憶はありません。

もしかしたらそれが功を奏して、小学校に入学する前には自分の事は自分で出来る様になっていました。
また、私自身、割と自由な考え方を持っていて、好きな事には集中して取り組む事が出来ていました。

私が小学校に通う様になった頃には、何かしてもらったという記憶はほとんどありません。
後で父から聞かされた話によると、私が物心つく前に、虐待をされていたという事実があった事は聞いています。

実は私の左手の甲に円形のホクロがあるのですが、それは子供の頃に母から聞かされていた話では、
アイロンの先を誤って手に当ててしまった、という事だったのですが、
父からはタバコの火を押し付けられた、と中学の頃に聞かされて、大変ショックを受けました。

祖母から見たら「とんでもない嫁」だったのでしょうね。今思うと、だから、あんなに母の事を悪く言っていたのだと思います。

また、家庭の金銭事情もよくありませんでした。今でいう貧困層です。
私の記憶では弟が生まれた頃は、水洗トイレのある団地に住んでいました。
しかし、3人目の妹が生まれた頃から、市営住宅に引っ越す事になりました。

父の収入がそんなに多くないのに子供が3人もいると、家計は火の車だったと思われ、
なので市営住宅に住む様になったのだと思っています。

そして、私が5歳の頃にもう一人妹が生まれました。当時の写真が残っていましたが、
写る姿は、その頃には、本当に貧乏で、着ている服もボロボロで、家の建具もボロボロでした。

そんな時私が小学校3年の時に、父が大怪我をおって、母がスナックで夜に働きに出たのです。
その頃には食事はお金を母からもらって、私が弁当と菓子パンを買ってきょうだいに食べさせていました。

でも、まだ自分の置かれた環境の悪さには全く気がついていませんでした。
そんな頃にどうやら母は、スナックの客と関係を持ったのでした。
そして、私が小学校4年の運動会の前日に、父と母が大げんかをしていたのを目の当たりにするのです。
その後、母の失踪と私たちの夜逃げが起こったのでした。

[その10]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その8]

2015-07-29 05:47:52 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その8]」です。

小4の秋に両親が離婚し、父の実家である瀬戸内海の島にやってきた私たちきょうだいは、
祖父と祖母、父と私たち4人きょうだいの7人で暮らす事になりました。

初めの1ヶ月は父が離婚の話し合いに大阪へ行っていました。
父が大阪から帰ってきて、島の車海老の養殖場の会社で働く事になりました。

暫くの間は真面目に働いていたのですが、数ヶ月後に父はそんなに強くないお酒に逃げるようになりました。
今思うと、多分本心を打ち明けられる仲間がいなかったのと、離婚して寂しかったのが原因だったと思います。

それからは家でも少しずつ歯車が狂ってきました。
初めのうちは週に1回程度の晩酌だったのが、ほぼ毎日飲むようになり、しまいには朝から酒を飲んで仕事に行くという、
とんでもない状態になったのです。

それと同時に父からの恫喝と暴力が私たちにはじまりました。今でいうアルコール依存症です。
お酒を飲まない時の父は、おとなしくて私たちが体調を崩して学校を休むと、仕事を抜けて面倒を見てくれていました。

でも、一旦お酒が入ると人格がガラリと変わってしまうのです。
何かにつけ私を怒鳴りつけ、灰皿を投げつけられた事や、包丁で首を切られそうになった事もありました。
お酒が切れると、私に少し離れたお店に、つけで酒を一升瓶で買ってこいと言われ、泣きながら買いに行った事もありました。

私が転校して初めの頃の上級生に付きまとわれている時には相談して、それを聞いてくれていました。
父はその上級生とまずは話し合いをして、釣りに誘う仲になっていました。
そうした甲斐もあってか徐々に私への付きまといが無くなっていきました。
しかし、同級生からのいじめはひどくなる一方でした。

このいじめに関しては当時は誰にも相談できませんでした。なにせ種を蒔いたのは私だったからです。
小学5年の時に、担任の先生が変わった時に、一人づつ個人面談されました。
その時にその先生にいじめについて相談しました。
すると学級会で私のいじめについて話し合いをする事になったのです。

でも、結局いじめは無くなるどころか、告げ口したという事で、余計にひどくなっていきました。
その事を先生に相談すると、「君はルーズだ、君自身が変わらないと何も変わらない。」と突き放されてしまったのです。
私は先生に対する信頼が音を立てて崩れていくのを今でもはっきりと覚えています。

もう誰も信用できない、と私は子供心に大人を信用する事ができなくなったのです。

祖母からは毎日「お前らの面倒はみたくないのに、あのおばはんのせいでこんな事になった」と言われ続けていました。
祖母は以前から母の事を良くは思っていなかったのです。
何もなくても「あのおばはんはポンポンお前らを生みくさって」とか「恨むならおばはんを恨め」とか言われてきました。

私は子供心に母親に対する淡い期待があったので、恨む事などできませんでした。
学校の卒業式や入学式にはもしかしたら会いに来てくれるかも、とか思っていました。
しかし、結局会う事は未だに出来ていません。もう会いたいとは思っていません。
何故なら、私が成長するにつれて色々な事実が解ってきたからなのです。

[その9]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その7]

2015-07-27 03:50:46 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その7]」です。

上級生のつきまといに困っていた私を、クラスメートの何人かが私をかくまってくれる事になりました。

いつもの様に上級生は私の教室に迎えに来たのですが、その時私は教室の配膳台の中に隠してくれました。
上級生は私がいない事に腹を立て、「◯◯(私の名前)はどこに行った!」と怒鳴りながら私を探していました。
私は正直生きた心地がしませんでした。

そして、教室中を探し回り、私がいないのを確認すると、教室から出て行きました。
その後私は配膳台の中から出てきて、帰り支度を始めました。
するとまた上級生の怒鳴り声が聞こえて来るではありませんか。
クラスメートは私を咄嗟に小黒板の裏に隠してくれました。

しかし、結局上級生に見つかってしまい、私は小黒板の裏から引きずり出される事になったのです。
私は目の前が真っ暗になりました。

その後、その上級生は私を無理矢理一緒に下校させられ、その道中、「誰に隠されたんだ!」と私を脅してきたのです。
私は、何とかごまかそうとしました。しかし、上級生は「明日、覚えとけ!」と私に釘を刺し、私はそのまま帰宅したのです。

その翌日、私は登校すると、その上級生が私たちの教室にやってきて、その場にいた数人のクラスメートの前で、こう言い放ったのです。
「誰が◯◯を隠した!言わないとぶっ飛ばす!」と私に言ってきたのです。

私は暫くは口籠っていましたが、上級生のあまりの剣幕に報復を恐れて、仕方なく白状させられたのでした。
私は「この人と、この人と、この人です。」と4人ほどその場にいたクラスメートを指差して、教えてしまったのです。

すると上級生は「一人ずつぶっ飛ばす!」と言って、その4人を一人ずつビンタしたではありませんか。
私もクラスメートも恐怖に顔が歪み、ただ上級生が立ち去るのを待っていました。
そして上級生が立ち去った後、私はクラスメートから、「裏切り者!」と罵声を浴びせられました。

その日から私はクラスにも居場所が無くなったのです。そして、クラスメートから陰湿ないじめを受けることになりました。
私は「ああ、もうおしまいだ」と思って、そのいじめに耐え続ける日々が始まったのです。
自分が撒いた種なので、親にも先生にも告白する勇気が持てなかったのでした。

それからは小学4年から中学3年までの6年間、ずっとクラスでいじめを受けていました。
実は島の小学校は1学年1クラスしかなく、中学校もそのままのメンバーで進級して行ったのでした。

いじめについてはもう、ほとんど考えられるいじめは一通りされていました。
初めは無視から始まって、私が抵抗しないことをいい事に、ありとあらゆる事をされました。
物を隠される、捨てられる、教科書に落書きをされる、椅子に画鋲をしこまれる、などなど肉体的ないじめが行われていました。

中学生にになった時は、精神的ないじめが始まりました。
勉強するな、俺たちのいう事になんでも聞け、死ねばいいのに、などの言葉による暴力が続いて、
お前は裏切り者だから俺たちのいう事を聞くのは絶対だ、とまで言われていました。

その上、家ではまた別の事が起こるようになったのです。

[その8]に続きます。

70億人が幸せになる方法[その6]

2015-07-25 04:43:29 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その6]」です。

両親が離婚して、大阪から瀬戸内海の島に連れてこられた私たちきょうだいは、その日から生活が一変しました。
2学期の途中からの転校で、私は以前の小学校の友達ともちゃんとお別れをしていませんでした。
逃げるように大阪を後にしたのです。

当時私は、とても内向的な人見知りの激しい子供だったので、なんとなくクラスに馴染めませんでした。
最初の一週間は歓迎してくれたのですが、その後、私はある上級生から目をつけられるようになったのです。

その上級生も東京からの転校生で、クラスで一人だけ浮いた存在でした。
その上級生がまた、心に闇を抱えていて、一つ年下の私を目の敵にして、嫌がらせをしてきたのです。

私はクラスに馴染む前に、その上級生に「これから毎朝俺を迎えに来い」というとんでもない命令を私にしてきました。
栄養状態の悪かった私は非常に小柄で、その上級生は大柄でなんでも自分の言う通りにならないと癇癪を起こし、
二言目には「俺のいう事を聞かなければぶっ飛ばす」と私を脅してきたのです。

後で知った話ですがその上級生は今でいうクラスから転校生という事でハブられていたのでした。
そこで、新しく転校してきた私を、まるで獲物を見つけた獣の様に私に付きまとい出したのでした。

私は嫌々ながらも脅される恐怖で登校時と下校時に無理矢理付き合わされて、抵抗できなかったのです。
それから一週間が経った頃、私は下校時に恐る恐る、その上級生に「なんで僕に構うのか」と聞いたら、
「お前は後から来た転校生だから俺のいう事を聞かなければぶっ飛ばす」と、意味のわからない理由で、
私を子分の様に従えていたのです。

本来ならここで、親や先生に相談して対処してもらうべき所でしたが、父は離婚の手続きの為、
ひと月ほど島にはいなかったのです。また、島の祖父母にも相談できる状況ではありませんでした。

何故かというと、島の家では祖母が家の実権を握っていて、嫌な嫁の子供である私たちに対して、
非常にきつく当たってきたのです。
祖母の口癖は「恨むならお前の母親を恨め」と言ってきて、子供心に何も話せない雰囲気を作っていたからでした。
祖母は私たちきょうだいの事を「ポンポン4人も産んでほったらかしにされたお前らの面倒をなんで見ないといけないんだ」と、
毎日の様に言い聞かされていました。

私は家でも学校でもまったく居場所がなく、まさしく針の筵に座らされた状況にあったのです。

そんな私の事を知って、あるクラスメートたちが私をその上級生から解放するべく、協力してくれる事になったのです。
でも、それが後の悲劇に繋がるとは当時の私は思いもよりませんでした。

[その7]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その5]

2015-07-23 05:01:34 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その5]」です。

私の父が大怪我をして、結局1年以上入院する事になりました。
当時、父が勤めていた会社では労災保険に加入していなかったらしく、
健康保険と父が個人で掛けていた生命保険でその入院費を工面する事になりました。

父は中卒で無資格で溶接を行っていました。
そういった事もあってか、会社の対応は悪く、泣き寝入り状態となったのです。

その為、結局父の代わりに母が働きに出る事となりました。
母の勤め先はスナックでホステスとして夕方から夜中まで働く事となったのです。

そして、近所の新興宗教のつながりの知り合いに、ちょくちょく私たちを預けていたのでした。
それからというもの、父が完治するまでの1年以上そんな生活が続きました。

私は母からお金をもらい、近所のパン屋さんで弁当と菓子パンを買ってきて、きょうだい4人で分けて食事をしていました。
その間、本当に貧困状態の生活が続いたのです。

電気を止められた事もありました。
また、カラーテレビのローンが払えなくなり、家にテレビが無い状態も続きました。

本当に最低の生活だったのです。

そうこうしているうちに父が退院してしばらく自宅療養することになりました。
私が小学4年の秋にある事件が起こりました。
それはちょうど運動会が小学校で行われた日、お昼に母がお弁当を作って持って来るはずだったのが、
来なかったのです。

その日、母が失踪しました。

父は思い当たる所をすべて探していましたが、母は結局見つかりませんでした。
母は家にあった預貯金をすべて持ち出して私たち4人の子供を置いたままいなくなったのです。

それからというもの、私たちの生活は一変しました。
結局、両親は離婚し、父の実家の香川県の島に居候する事になったのです。

大阪市内の都会の子供が、いきなり離れ小島に連れて行かれる事になりました。
その日から私は家と学校で大変な目にあうのです。

[その6]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その4]

2015-07-21 05:46:53 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その4]」です。

ここで私が言いたい事は、70億人が幸せになるには、70億通りのモノの考え方がある事を、
まずは認識して、それらを尊重する事だと考えます。

人は生まれながらにして平等ではありますが公平ではありません。それは周りの環境に大きく左右されているのです。
特に親の存在が一番その影響を与えています。

ここで、私の場合を例に取ります。私の場合、このブログの以前の記事にも書いていますが、
親とその親に恵まれていませんでした。

私の記憶が確かなら、生まれてから小学校4年生までの間、両親に育てられてきましたが、
父は外で溶接工の仕事をしており、朝早くから夜遅くまで現場に出て、非常に危険な環境で働いていました。

その間、母が私をはじめ、4人のきょうだいの面倒をみていました。所謂専業主婦というものです。
私が小学校に入学するまでは、面倒を見てくれていましたが、小学校に入ると徐々に面倒をみなくなってきました。

当時はきょうだいがみんな幼少だったこともあり、下のきょうだいの面倒にかかりきりで、
私には割と育児放棄気味だったと記憶しています。

また、母はあまり家事が得意で無い、今でいう「片付けられ無い親」だったのでした。
食事も普通の食事を作ってくれたという記憶もありません。
普段は菓子パンを与えられており、月に数回、カレーライスを作ってくれたぐらいで、
母親の味はレトルトカレーの味だった事しか覚えていません。こんな環境では子供の養育に良いはずはありません。

父は仕事が多忙で、当時は家庭の事は母に任せっきりでした。当時の私の記憶では、父は非常に怖い人だった事しか思い出せません。
また、どうやら私の両親は父の母親から結婚を反対されていて、祖母の母に対する風当たりが強かったのを覚えています。
祖母に言わせると、家事が出来ない上に、自分の洋服を買う事が多く、金遣いが荒く、子供にまともな食事を与えていないという、
大正生まれの祖母からすると、「嫁」としては不適切だと考えていた様です。
その上両親は新興宗教に入信しており、それも母を嫌う要因の一つにあった様です。
なので、私の家は当時大阪市の市営住宅に住んでいて、生活がカツカツでした。

そんな生活を続けていたある日、我が家で一つの事件が起こります。
それは、父が仕事中に労働事故に遭い、収入が途絶える事になったのです。

[その5]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その3]

2015-07-19 05:16:40 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その3]」です。

人が人として幸せになるとはどういう事か考えてみましょう。

人には寿命があります。
人だけでなく生きているもの、植物や動物、人が作った機械なども寿命があります。

昔の偉い人が「形あるものは必ず壊れる」と言っていました。

生きる事と寿命が尽きる事には、密接な関係があります。

人が人として生まれて、親に育てられ、自我を持ち、考える様になると、必ず人は最期を迎える時の事を考えます。
人はそれを「死」と呼びます。

人は生まれながらにして死ぬまで生きる権利があり、その義務を負っています。
人が人としてある為にはこの現実社会では衣食住を満たし、生活を送らなければなりません。

そして、衣食住を満たす為には、なにがしかの仕事をして対価を得る事が必要です。

ここで、仕事について考えてみましょう。
世間一般では仕事というと、働いてお金を儲ける事を指します。確かに現代では何をするにもお金が必要です。

大昔は違っていました。
働く事は作物を育て、狩りをして肉や魚を取る事や、自然から食べ物や着るもの、住むところを作っていました。
昔に比べて現在は人口が増えて、富めるものは富み、飢えるものは困窮しています。

これは、人が繁栄した事により、貧富の差が生まれた為です。この差を埋める事が、人の共通にして最大の課題です。
では、なぜ貧富の差が生まれたのでしょうか。
それは、富を自分だけの力で手に入れたと勘違いした人が増えた為です。
そういう人は富を自分だけのものにしたいという傲慢な考えを持っているからなのです。

人には必ず死が待っています。富は墓場へ持っていく事はできません。
その為に富を自分の子孫にだけ残そうとする人が多いのです。
そして、自分の家族だけが生き残れば良いと考える人がやはり多いのです。

もちろん、本当に頑張って働いてお金を儲けてその富を享受した人もいます。
でも、自分の事しか考えない人は、本当に幸せと呼べるのでしょうか。

人は一人では生きていけません。一見、無関係にも思える人も、実は深いつながりがあるのです。
私はそれを「世間様」と呼んでいます。
これはもしかしたら私が日本人だからなのでしょうか、この様な考え方を持つに至りました。

私が子供のころ、目上の人から、「良い事も悪い事も必ずお天道様がみている」と教わりました。
この「お天道様」とは私は「世間様」だとも思っています。

私のこの考えを他人に押し付けるつもりはありません。でも私の家族には伝えていきたいと思っています。

[その4]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その2]

2015-07-17 05:15:01 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その2]」です。

現在、国民が政治に参加できる方法として、選挙を行い選挙権を行使するという方法があります。

日本の場合、地方自治体をはじめとして国政まで、国民の代理人が立候補を行い、
支持する意見が一致している候補者に一人一票を投じて、各候補者別の得票数に応じて、
当選人の定数が決められていて、得票数の多い順に当選という単純明快な方法がとられています。
首長を決める選挙でも、この場合定数は一人ですが、同じ仕組みをとっています。

得票数の多い者順で当選者が決まるというのは、一見すると公平に思えますが、
当選者の各得票数と落選者の合計各得票数を比較してみると、落選者の合計各得票数が多い場合がかなりあります。

この事実は、本当に国民の意思が反映していると言えるのでしょうか。

テクノロジーの進化によって、コンピューターが個人で使える様になり、しかもそれが小型化し、
通信機能を持ち、誰でも手軽に購入できる様になった今、このテクノロジーを国民の意見を反映させる方法として、
利用する事は可能なのではないでしょうか。

インターネットの進化とともに、個人が色んな意見を簡単に、しかもすぐに発信し、
それを大勢の人に見てもらう事が出来る様になった今、これを政治に利用しない手は無いと思うのは私だけでしょうか。

スマートフォンでTwitterをやっている人なら、短文ですが自分の意見を簡単に投稿出来て、しかもハッシュタグを利用すれば、
意見の集約も可能になっています。

この仕組みと同じ物を使って、政治に活用する事が可能であると私は考えています。
一人一票から一人一発言が出来る様になっているのです。

正確にはTwitterでは一人多発言が出来てしまえるので、そのままでは発言が多い人が、
いわゆる「声の大きい人」が、意見が通ってしまうのですが、それを一人一発言までの制限をかけて、
システムを作れば、政治だけでなく、各種の行政サービスにも活用できると考えます。
webサービスでそれらが可能になるのです。

問題解決ツールとして、この様なシステムを作って活用すれば、政治のあり方が大きく変わります。

ここで、デジタルデバイドの問題について考慮しないといけないのですが、
これも現時点では代理人制度を使えば、例えば機械に詳しく無いお年寄りでも簡単に意見を反映させる事が出来るのです。

幸運な事に、日本は日本語という言語の特性から、個人が意思表示する為のツールとしては多彩な表現が可能です。

今までに世界に無い新しい民主主義をこの日本から始めてみるというのはいかがでしょうか。

[その3]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その1]

2015-07-15 05:55:42 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その1]」です。

私は常々、色々な事を考えてきました。
仕事の事や生活の事、お金の事や政治の事、数え上げればキリが無いくらい、
本当に色々な事を思い付いては、調べてメモして、考えを自分なりに纏めてみたり、
一定の結論を出したりしていました。

最近の国内のニュースで、一番ホットな話題として、政治のニュースがあります。
いわゆる安全保障に関する法案についてです。

私個人の意見としては、確かに大切な事ですが、重要なのは今、日本が置かれている現状を、
どうするかという事では無いでしょうか。

どうも今の政治家の皆様は、大昔の世論だった、日本を一等国にしたいという、
呪縛を辞められない、熱病にかかっている様に見受けられます。

では、今の世論は本当の所、どうなんでしょうか。

世の中には勘違いしている人が大勢います。
そもそも、世論とは、マスコミが作り上げた単なる意見の一つに過ぎません。

それを錦の御旗の如く掲げて、世論はこうだから、こうすべきだ、と発言してしまうのは、
大変おかしな話です。

日本の場合、本当の世論は人それぞれ違うはずです。

奇しくも今年は戦後70年となる年にあたります。
先の戦争に負けて、日本は連合国に統治される事になりました。

その功罪は別にして、日本には曲がりなりにも民主主義が国の政治を決定してきました。
戦前にも民主主義はあったのですが、それは国民全員が参加しているものではありませんでした。

人にもよりますが、押し付けの憲法と民主主義は、たまたま運が良く日本を繁栄させてきました。
しかし、現在その憲法と民主主義が制度疲労を起こしています。

私が小学生の頃、社会科の授業で習った憲法と民主主義は、当時の私としては、
なんとなく不幸せなものだと感じていました。

それは「民主主義は多数決で物事を決める」という、根幹に対する漠然とした不安があったからです。

多数決は参加者の50%を超えた意見を賛成意見とするという、50%未満の人たちの意見を無視する、
子供心に不公平感を覚えた記憶があります。

当時のテクノロジーではそれがベストではなくベターな解決方法だったとは思いますが、
時代は変わって、今のテクノロジーを使えば、色んな意見を集約する方法があるのでは、
と考えています。

[その2]に続きます。

ではでは。

人類移住計画

2015-04-29 04:55:11 | thought
えー、お題の「人類移住計画」です。

私は、よく夢を見ます。
それは寝ている時に見る夢と起きている時に見る夢です。

人は生きていく上で夢が必要です。
それは生きていく目標だったり、生きている理由だったりします。

起きている時に見る夢は生きていく目標を求めています。

寝ている時に見る夢は生きている理由を教えてくれます。

人はひとりでは生きていけません。
そもそも、人はひとりでは生まれてきません。
必ず、父と母がいます。

生命には必ずその源があります。
私は、人類の進化論について肯定的な意見を持っています。
それは人類も動物の一種であり、生命の営みをおこなって今に至っています。
進化の途中で、種が変わる事があります。
それは環境の変化によるカルチャーショックと呼ばれるものにより引き起こされると考えられます。

人類はめざましい発展と進化を繰り返してきました。
それにより地球の環境が変化をはじめました。
人類の生活スタイルによる環境の変化です。

人類はこれからある種の生存競争にさらされると考えられます。
人が人として生き続けていく事がもしかしたら脅かされるかもしれません。

その時に重要なのは、進化し続ける事だと考えます。

では、環境の変化に対してどのように進化すれば良いのでしょうか。
その答えは以外とみじかにあると考えます。

それは新しい国を作る事だと思います。

私は国の始まりは1組の家族から始まると考えています。

ここで、寝ている時に見る夢について考えてみます。
私は夢というものは意識する記憶と無意識の記憶を整理する為に見るのだと考えます。

意識する記憶は、自分自身が今まで経験した事から、感じたり考えたりしている事を記憶しています。

無意識の記憶は、人類共通の経験した事や、感じたり考えたりしている事を記憶しています。

私がよく見る夢には、自分の家族だったり、仕事の仲間だったり、友人だったりが出演します。
それは生きている人だったり、亡くなっている人だったりします。
私は亡くなった人が出てくる夢は、亡くなった人の何らかの思想というか考えを生きていた時の人格から、
夢を見ている人自身が作り出したものだと捉えています。

なので、私は自分自身の中で無意識に何か悩んでいる事や考えている事を形にする時に、
結構、この寝ている時に見た夢を参考にしています。

夢のお告げと呼ばれるものは、こういった心理から見るものなのかもしれません。

起きている時に見る夢は主に自分自身の体験から行動の指針となるものです。

私の場合は自分が最期を迎える時にどうありたいかが夢となります。
私は最期まで現役の技術者であり続けたいと思っています。

私の夢は地元に産業を興し日本に貢献できる企業を創ることです。
最終的には宇宙産業を日本に根付かせたいのです。

これは私の構想ですが人類は1度、汚してしまった地球から離れて、
地球外にコロニーを建設しそこに移住をして、地球環境を戻すことが必要だと考えています。

地球というリソースは人類だけのものではありません。
この宇宙史上類をみない豊かな自然環境を守ることが人類に課せられた使命なのです。

地球は環境保護区として人類の関与をできるだけ少なくする必要があります。
その為には今こそ人類は宇宙に出る時が来つつあると私は考えます。

そしてそれを実現する為に人類は国や人種や宗教で争い合う事はもう辞めなければならないのです。

この様な思想に行き着いたのには私自身の今までの経験が基礎になっています。
私は人って最終的には理解しあえるものだと考えています。

私はひとりひとりが相手の立場になって考え、地球上でも貴重な人類という種である事を、
自覚する事から、どうすれば人類としてみんなが幸福に暮らせるのか考え始める時に来ていると考えます。

せっかく同じ時代に生まれて来たのですから、みんなで考えてみてはいかがでしょうか。
私達が同じ時代に生まれて来た事には意味があると私は思うのです。

みんなが幸せになるといいなぁ。

ではでは。

苦と楽

2014-09-30 05:56:48 | thought
えー、お題の「苦と楽」です。

あの国民的時代劇の水戸黄門の主題歌に「人生楽ありゃ苦もあるさ」と歌われています。

生きていると何かしらあります。
私の経験からは、苦と楽のバランスは、今のところ苦の方が多めです。

私自身、本来は楽する方がいいのですが、楽する為の苦は平気だったりします。
むしろ、望んで楽する為の苦をやっている事が多いです。

他人から見たら、なんでわざわざ遠回りな苦労をするのか、と思われますが、
結局、先に苦労して後々楽した方が、なんか得した気分になります。

誰かが言っていた、人生結局プラスマイナスゼロがいい、という言葉はなんか納得したりします。

私の好きな歌手の一青窈さんのハナミズキに「僕の我慢がいつか実を結び」ってのがあります。
私はこの歌詞に共感するのです。

今、後々楽する為の苦労をしています。

それは仕事についてだったり、習い事についてだったりします。
私の考えではやはり、先に色々と悩んで、苦労しておくと、後が非常に楽になるのです。

本人は苦労している間は、意外と知る事が多い事に気が付きます。

私はどちらかというと知識欲が他人より多い様なのです。
知らない事を知る事が好きみたいです。

この、知識欲を満たす苦労は、私にとって一番の栄養だったりします。

私はゲームでRPG(ロールプレイングゲーム)が好きです。
この中で、レベルって項目があります。

このレベルを一つずつ上げて行くのが快感なのです。
レベルを上げる為には地味な努力が必要です。

モンスターを倒したり、コツコツとお金を貯めたりして、アイテムを買って、
次の戦いに備えたりします。

私は人生はRPGだ、と思っています。
そう思うとなんだか生きる事が楽しくなってきませんか。

クリアした時に楽しい事が待っていると思うとワクワクします。

今度はどんな楽しい事があるのだろうかと想像したりすると、楽しいのです。

今の苦労がいつか実を結ぶ事を願って、やって行こうと思います。

実るといいなぁ。

ではでは。

国と命

2014-09-26 07:27:44 | thought
えー、お題の「国と命」です。

昔、日本は「お国の為」といって人の命を国の為に投げ出す事を良しとしていました。

その後、日本は戦争に負けて、軍国主義に関連する事はすべて無かった事にされました。

最近、日本は国際貢献の名の下に、再び人の命を投げ出す事を良しとする風潮になりつつあります。

色んな考え方があるとは思いますが、よくある例えとして、海で遭難して、
ボートが1隻あるとして、定員は1人、今、あなたともう1人いるとしたら、
どうしますか?という問いに、自分が助かるか、相手を助けるかの、
二者択一の問題があるとします。

あなたならどうしますか?と問われていて、相手を助ける、という答えが、
最高の答えだとされています。
しかも、それが世界中の世論であるかの様に喧伝されていたりもします。

私なら、2人とも助かる方法を考えます。

実は、2人とも助かる方法があるのです。
どうするかというと、1人がボートに乗って、もう1人がボートに捕まって、
背中を下にしてそのまま力を抜き浮いている、という事が可能なのです。

海は海水が塩分を含んでいるため、人は力を抜いて仰向けになると浮くのです。

これは浮力がただの水よりも高くなるという科学的な理論に基づいた事なのです。

海水浴に行った時に一度実験してみて下さい。

この問題の出題者は海で泳いだ事がないのでは、と思いました。

さて、これが、私の答えですが、今、国際情勢が緊迫しています。

いわゆる、イスラム国という集団が人質を取り、攻撃をやめないと殺すと脅しています。

私は政治的にはこのテロは許す事は出来ません。
神の名の下に人の命を奪う考えには賛成出来ません。

以前、日本は、ハイジャック事件に巻き込まれ、「人の命は地球よりも重い」といって、
犯人の要求に従い、世界中から非難をされました。

私は、この「人の命は地球よりも重い」という考え方については、賛成出来ません。
この地球が無くなってしまえば、人間は生きてはいられません。

ここで、冷静になって考え直してみましょう。
今なら、対テロ対策としての部隊が警察にもあります。
SATやSITと呼ばれる特殊部隊です。

当時は機動隊はありましたが、特殊部隊はありませんでした。
当時の機動隊の実力では、犯人を制圧する事はほぼ不可能に近かったのです。

なので、当時の日本では、「人の命は地球よりも重い」というお題目を唱えて、
対応するしかなかったのでは、と考えられます。

ここで、問題です。

今、日本はイスラム国を掃討する為に自衛隊を派遣するかどうか、他国から求められています。
あなたならどうしますか?

この回答は、みんなで考えてみないとわからないと思います。
多分、今の政治家は国際貢献の為に自衛隊を派遣するという方法をとろうとしています。

私は、「人の命は国よりも重い」とは考えません。
しかし、国は人の命があってはじめて成り立つものです。

人がいなくなった日本は、それはもう日本とは呼べません。
私は人は国の為にあるのではなく、人の為にあると思っています。
そして、その人が集まったものが国なのです。

国は誰かに与えられるものではありません。人が人と一緒に作り上げるものなのです。

皆様はいかがお考えですか。

私は生まれてよかったと思える国を作りたいです。

ではでは。