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70億人が幸せになる方法[その27]

2015-09-15 05:43:50 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その27]」です。

ある日、有給消化の為、ジーンズショップを辞めた私は、いつもよく行く書店へと、
本の立ち読みに行きました。すると、その隣の土地にある看板が出ていました。
その看板は1996年4月にパソコンショップがオープンするというもので、
私は、その看板を見て連絡先をメモに取り、気が付いたら面接の問い合わせをしていました。

家電量販店の就職が決まっていた私ですが、自分の好きで得意なパソコンのショップが出来ると知って、
いてもたってもいられなかったのです。

面接を受けに徳島へ行きました。そこでは社長が面接してくれました。
そのショップの雰囲気がなんとなく気に入りました。
そこで、ショップのオープニングスタッフとして面接を受けました。
結果は1週間後に電話で連絡してくれることになっていました。

1週間後、結果が出ました。合格でした。

私は、家電量販店の採用を辞退して、パソコンショップに、
正社員見習いとして、3ヶ月の試用期間に入ることになったのでした。

その後、パソコンショップのオープニングスタッフとして雇われた私は、
開店準備から立会い、オープン初日までの間、接客研修を受けて、
オープンの準備をしていました。

その新店舗では、新しく徳島本部で勤めていた、若い店長が店を管理することに、
なりました。また、私はそのショップでは、一番の年長者で、
みんなから「長老」と呼ばれる事に、なったのです。

ショップのオープニングスタッフになる経験なんて、そうそうあるもんでは無いです。
私は本当に忙しく、しかしとても楽しく仕事をする事が出来ました。
なぜならば、私の得意分野であり、趣味でもあるコンピューターの販売をする、
という経験は、以前ジーンズショップで社内システムエンジニアとして働いていて、
たまにジーンズショップのレジスタッフとしても手伝いをしていた私は、
販売員の仕事の楽しさを知っていたので、ファッションには疎かった私ですが、
得意分野のパソコンを、お客様にその楽しさと、活用方法を提案しながら、
販売できるこの仕事をずっと続けたいと思っていました。

しかし、3ヶ月を経過した頃、店内のPOPをリニューアルする作業に入った時に、
その時の若い店長から、「僕が社長に怒られるから作業をして」と、
口癖のように「僕が社長に怒られるから」と連呼していた事から、
私はそれは違うのでは無いか、お客様の事を第一に考えた仕事をしないと、
ダメなのでは、と店長に対して不信感を募らせていったのです。

仕事は「考えて」やるのであって、「自己保身の為」にやる事では無いと、
私は常々この店長に対して思っていて、店長としてあまり適任では無いな、
と思っていました。

そんなある日、社長から一通のFAXがショップに流されてきました。
そのFAXには、それまでに作ったPOPとは大幅に変わった内容に、
変更する事を指示して来たのです。

私を含めて、みんなで考えていた最初の案の方が、お客様にとっては、
解りやすいPOPである、と考えていたのがほとんどで、店長以外は、
みんな考えて仕事をしていたのです。

店長は自分では考える事は一切しないで、二言目には「めんどくさい」と言って、
私たちに社長の指示を丸投げにしていたのです。
こんな店長では誰も下に付いてこないです。

私は年長者として、店長のいい加減さに呆れていました。
あまりにも店の事情を何も考えないで仕事している、というか作業している、
店長に、業を煮やした私たちは、社長に相談する事にしたのです。
その対応を私がやる事になりました。

そして、徳島の本部に行く機会のあった私は、社長に店舗の状況と、
店長の仕事の仕方について説明し、相談したのでした。

すると社長は、「解った、それなら君が店長をやらないか」と提案して来たのです。
私は、「しばらく時間をください」とその場での即答はしないで、店へと帰ったのです。
これは一つのチャンスでもありました。

しかし、当時、私はパソコンショップの店長としての経験がほぼ無いので、
自分の実力では足手まといになる、と考えて、結局断ることにしたのです。

その事実を知った店長は、私と意見が対立するようになりました。
一つの店に二人のリーダーがいる事になってしまう事に、私は悩みました。
そして、一つの結論を出す事にしました。

それは、私がショップを辞める事、だったのです。
その方がお互いの為にもなるのではと考えたのでした。

私が辞めたい事を店長と社長に申し出ると、店長はただ一つ作業を淡々とこなす、
そんな感じの対応でした。

そして、私が辞める事から、簡単な送別会を兼ねた食事会を、
社長が開いてくれたのです。
その席で社長は「本当に残念だ、何かあったら相談に来なさい」と言ってくれました。
私は、有り難かったのと、仕方が無いか、と思ったのとで、複雑な心境でした。

[その28]に続きます。

70億人が幸せになる方法[その26]

2015-09-13 05:45:19 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その26]」です。

人身事故を起こして、相手から恐喝まがいの事を受け、結局、工場を辞める事になりました。
刑事処分は、結果、相手から脅された事もあり、また解決金を払った事もあり、不起訴になりました。

私は、仕事も辞めた事で、次の仕事を探しました。
職業安定所で隣の市のジーンズショップのオフコンのプログラマーとして募集のあった求人を、
私は受ける事にしました。面接を受けて、合格しました。時は昭和の終わりでした。

年明けの1月8日から出社する事になっていたのですが、なんと、その時は昭和から平成へ変わった日の翌日だったのです。
元々このジーンズショップでは、社内の販売管理システムをオフコンで構築しており、それを作った人が辞めるという事で、
求人を出していたそうです。私はその人の後任となっていました。

引き継ぎのために1ヶ月、色々教わりながら、コンピューターに関する色々な仕事をする事になりました。
その会社では、ジーンズショップを数店舗運営しており、店舗ではパソコンをレジ代わりにして、POSデータを取っていました。
そして、データを電話回線でコンピュータ室のある、レディスショップの2階でデータを集めて、オフコンで集計するという、
自社開発のPOSシステムを昭和の終わりに独自構築していたのです。

私はパソコンとオフコンの両方を同時に面倒をみる事になりました。これが結局その後の私の仕事である、
システムエンジニアにつながっていくのです。

とにかく、コンピューターの事に関してはなんでもやりました。社長が私の直属の上司です。
初めは私と、先輩と社長の3人でPOSシステムを運営していました。先輩が結局3ヶ月私に付いて、仕事を教えてくれ、
なんとか引き継ぎを終わらせる事が出来ました。

私と社長だけの部署になったのです。そのうち、プログラマーから、自然と社長のやりたい事を実現するための、
相談相手として、当時の最先端の技術をその会社で学ぶ事が出来ました。
LANの出始めの頃の構築や、パソコンの機種の統一、BASICで書かれたシステムをC言語にバージョンアップしたり、
オフコンのリプレースで、私の以前の衣料品問屋の汎用機の流れを汲む、IBMのAS/400へのリプレースなども、
提案して、実現しました。最終的にはWindows95のパソコンにMicrosoftのAccessを導入して、POSシステムの、
データベース処理を、パソコンで行う事になりました。
これで一区切りがつく頃には私は30歳を迎えようとしていました。
この会社が今までで一番長く勤めた会社となったのです。

私が28歳の時にある大きな出来事が起こりました。それは阪神淡路大震災でした。
その震災のショックから、私は今後どう生きるか、色々と考え始める事になったのです。
数年後には30歳になるので、その時に何をしていたいかを考えた時、私は高校からの夢だった、
システムエンジニアとして、自立したいと思う様になりました。その為のスキルアップに、
ソフトウェア開発専門の会社に転職したいと考えていました。しかし、私には営業のスキルがありません。

ジーンズショップで店員のお手伝いをした時に、接客の楽しさを知り、商品知識の無さを痛感していました。
私は、自分の好きな家電の量販店へ転職を希望しました。そして、その旨を社長に相談したところ、
夢があるのならなってみたらいい、何かあったら相談に来て、と言われ、私はシステムの開発が、
一段落した頃に、会社を辞める決心をしたのでした。

そして、当時私が住んでいた市の隣の市の家電量販店を職安で紹介してもらって面接を受けました。
結果は合格でした。私は4月からその家電量販店に勤める予定で、それまでの間、少しの休みをもらう事になりました。
有給休暇の消化です。

その時にある一つの出会いがあったのです。

[その27]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その25]

2015-09-11 07:08:38 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その25]」です。

人身事故を起こしてから1週間後、1本の電話がかかってきました。
相手は事故の被害者のおじさんで、口頭一番に、「お前は何をしとんじゃ!」と怒鳴ってきたのです。
私は、何事かと思いました。すると続けて、「1週間も挨拶にもこんのはどういう事や!」とまた怒鳴るのです。
私は怖くなって、「どういう事でしょうか」と聴くのが精一杯でした。

すると、そのおじさんは「お前は責任についてどう考えとんのじゃ!」と立て続けに怒鳴るのです。
私は「責任ですか」と答えて、どうしたらいいか色々と考えを巡らしていたのです。
すると、おじさんは「道義的責任をどう考えとんじゃ!」と私を脅すように怒鳴るのでした。
私は、交渉は直接やらないようにと保険屋さんから言われていたので、その旨を伝えました。
するとおじさんはさらに怒って、「お前んとこの保険屋はあれから1度もこんぞ、どうなっとるんじゃ!」と、
さらに怒りはヒートアップしていくのでした。私は、「保険屋さんに聴いてみます」と答えるので、
精一杯でした。そして、その場は電話を切りました。

そして、私の担当している保険屋さんに電話をすると、かかってきた電話の内容を説明して、
相手がすごく怒っていると伝えました。すると保険屋さんは、
「これから3回コールして電話を1回切って、またかけるのが合図で電話するからそれ以外の電話は取らないように」と、
私に言ってきました。どうやら、これは相手と連絡を取らないようにさせるための指示でした。
私はそれに従って、その保険屋さん以外の電話を取らないようにしていました。

それから1週間が経った頃、今度はそのおじさんが、実家の島の祖母に電話をしてきたのです。
どこで番号を調べたのかわかりませんでしたが、祖母にも脅すような事を言ってきて、
祖母からは「ヤクザに係わっとるんか」と言われました。わたしは、すぐに保険屋さんに連絡をとりましたが、
中々捕まりません。実はこの保険屋さん個人で代表をしている代理店の代表者でした。保険会社は富士火災保険で、
当時は保険会社は代理店に交渉の全てを任せていたのでした。
なので、この保険屋さんの対応ひとつで、解決までの全てが決まるのです。
後から聞いた話では、この保険屋さんは、相手を焦らして、保険を使わせない為にワザとそうしていたようです。

それからもおじさんの電話攻撃は職場にもかかってきたのです。
職場へは「お前んとこの従業員はどうやって選んどんじゃ!」と怒鳴り込んできたのです。
それを知らされた私は、段々とストレスから食事が食べられなくなってきました。
食べても吐いてしまうのです。
そんな状態が1ヶ月も続くと、2交代の工場の仕事にも支障をきたしたのです。

ある日、胃が痛くなって、当時父が入院していた病院で診てもらう事になりました。
胃のバリウム検査をしたら、胃が蜂の巣のようになっていて、先生から、このままだと死ぬよ、と言われました。
私はその病院に入院することになったのです。精密検査で人生初めての胃カメラを飲みました。苦しかったです。
検査の結果は胃と十二指腸に潰瘍が出来ていたのでした。その為に3ヶ月入院する事になりました。

すると、なんと、その病院にも例のおじさんから電話が私宛にかかってきました。本当にしつこかったです。
開口一番、おじさんは「逃げとるんじゃない!」と怒鳴ってきました。私は「保険屋さんが交渉はしないでと言っているので」と言っても、
全く聞く耳を持ちません。それどころかさらにエスカレートして「いつまでかかっとるんじゃ!痛い料だせ!」と恐喝してくるのです。
父が電話を変わり、父とそのおじさんとでバトルが繰り広げられました。電話を切った父は、相手はヤクザか、と聞いてきました。

朝日新聞の新聞販売代理店の代表者をしていて、そのおじさんが怪我で休んだ分の休業補償と慰謝料と治療費を要求していると、
伝えました。すると父は、そんなの払う必要ない、何の為の保険屋なんや、と言っていました。
確かに保険屋の対応としては最悪の対応です。結局私は3ヶ月入院して、退院してからすぐに保険屋さんから10万円準備して、
と言われて、10万円を持って、相手の家に行って、保険屋さん立ち会いのもと、支払いを済ませると、
おじさんは何事もなかったように、「まあ、若いんやから、頑張って」と言って、その場を後にしたのです。
問題は解決しました。でもこんな保険屋は私は2度と使いたくないと思って、更新時に別の大手の保険屋に変えました。

時は1988年の12月になろうとしていました。

[その26]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その24]

2015-09-09 05:01:58 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その24]」です。

半導体製造工場に勤めていた私は、3ヶ月が経ったある日、夜勤明けに帰宅時に人身事故をおこしたのです。
それは、会社を出てすぐの道路で、県道の入り口にあたる交差点での出来事でした。
当時の私は18歳で免許を取ったのですが、名古屋でいた3年間に運転したのは3回ほどで、
香川に帰ってきてから通勤や移動の為の車を購入し、初心者マークをつけて乗っていました。
実際には当時のアパートから会社への通勤と、買い物の為の移動が主な用途でした。

香川では自動車がないと長距離を移動する手段が無いのです。公共交通機関が発達してませんでした。
私は、出来るだけ安全運転をするように心がけていましたが、その日は勤務から3ヶ月が経った事から、
もしかしたら少し油断していたのかもしれません。

その交差点は県道へと出る三叉路で、左側が建物に覆われており、左側の歩道側の見通しが悪かったのでした。
そこに、最低速で左右確認しながら県道へと出た瞬間、どん、と歩道を走っていたバイクと接触し、
ブレーキをかけましたが、1メートルほど県道にはみ出てしまい、バイクを少し引きずるようになり、
車は止まりました。私は、まずはバイクの運転手の状態を見る為に、あわてて座席から車外へと飛び出し、
バイクの運転者が生きているかどうか確認しました。

幸いな事に、その相手は、大声で「痛い痛い、救急車を呼んでくれ」と言って、私も救急車を呼ぶ為に、
電話を探していました。なんとか近所の家の電話を借りる事ができ、救急車を呼ぶ事が出来たのです。
その後、警察にも電話しました。

救急車でそこから一番近くの病院へとその人は運ばれていきました。私は、怪我の程度が心配で、
警察から事情聴取と実況見分をされている間も気が気ではなかったのでした。
それから、すぐに自動車保険の代理店に電話し、事故を起こした事を伝えると、夜勤明けだったので、
一度、アパートに帰って休んでから病院へ来てくださいと言われ、私はその指示に従いました。

幸いな事に車には前方のバンパーに少し傷がついたくらいで、私は恐る恐る、車を運転して、
なんとかアパートへたどり着きました。
そして、数時間、仮眠を取り、保険屋さんと一緒に病院へ向かいました。
これからどうなるんだろう、相手の人は大丈夫かどうか、など色々な事が頭に浮かびました。

病院に着いて、最初に相手の人の顔をはっきり見たのはそれが初めてでした。
ヘルメットをかぶっていたので、顔をはっきりと見ている余裕はなかったのです。
相手の人は入院し、ベッドに座っていました。打撲と擦り傷で済んだのです。
私は死ななくて良かった、と内心思いました。が、その瞬間、相手のおじさんが、
大声で、「お前ら、何しとったんじゃ!」と私たちを恫喝しました。
私は、これは大変な人に関わってしまった、と感じました。その後も、来るのが遅いとか、
何時間もほっとかれた、とか言われて、私は、大変な事をしてしまった、という事と初期対応に失敗した、
という思いから、「申し訳ありませんでした」と言うのが精一杯でした。

この相手のおじさんが、後々、色んな事を起こすのです。
その場では30分ほど怒られ続けましたが、保険屋さんの取り成しで、なんとかその場は収まりました。
最後には、握手までされました。私は、内心、ホッとしました。話せば分かる人だった、とこの時は思っていました。
それからアパートに帰って今後の事を保険屋さんと相談しました。
保険屋さんは相手と直接会ったり、交渉はしないでくれ、と言って何かあったら必ず私を間に入れて話すように、
と指示されました。
私はその保険屋さんを信頼していました。しかし、その保険屋さんも、これまた大変な人である事が、
後々判明するのです。
ともあれ、私は保険屋さんの指示通り、直接交渉はしない様にしました。
それから1週間経ったある日、1本の電話が私の元へかかってくるのです。

[その25]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その23]

2015-09-07 06:26:39 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その23]」です。

社会人になって、2年が経過しようとしている頃に私は退職の決断をしました。
そこで、退職の1ヶ月前に退職届を出して、退職する旨を会社と、寮の管理人さんに伝えました。
上司にも相談と報告をしていましたので、会社は退職届を受理してくれたのです。
上司に対しては名古屋の叔母さんの事が主な原因であるという事で、了解もしてくれました。
パワハラを受けていた上司ですが、私と上司の関係は良好でした。月に一度は食事に誘ってくれたり、
名古屋の叔母さんの事で相談にも乗ってくれるほどでした。

元々、私が就職についたのが名古屋の叔父さんである、会社の部長が私をねじ込んでくれたのですが、
名古屋の叔父さんと部長の関係は良くなく、無理やり採用した私に強く当たっていました。
パワハラをしていたのです。しかし、2年目になると私の仕事ぶりを認めてくれたのでした。
それからは、私がシステムエンジニアになる為の仕事を任せてくれたり、経験を積むという事では、
大変お世話になったのです。
その上、月に一度は昼ごはんを一緒にする事があり、私の愚痴を聞いてくれたりもしました。
いつの間にか、上司は私の良き理解者となってくれたのでした。
その場で私は会社に無理やり入った事や、名古屋の叔母さんから嫌がらせを受けている事や、
ねえちゃんと呼んでいる父の妹の叔母さんに世話になっている事なども話していました。
今思うと私の社会人経験には無くてはならない重要な方だったと痛感しています。

その上司にも会社を辞めたいと言った時、驚かれましたが、名古屋の叔母さんが主な原因で、
もう部長の世話にはなりたくないという事を正直に話すと、残念だ、と言われましたが、
なんとか私が退職する事を了承してくれたのでした。

そして、寮では私のささやかな送別会が開かれて、退職の準備をしていた時に、
部長の叔父から、副社長がNOと言っているから、辞める事はまかりならん、と言われ、
もう1年、続ける事になったのです。
私は、この会社はおかしい、と強く思うようになりました。
実はこの会社、社長が代表責任者でしたが、実質的に経営をしていたのは副社長だったのです。
部長の叔父は副社長には逆らえなかったのでした。なので、私は送別会も開いてもらったのに、
また1年続ける事になってしまって、会社や寮ではうわさのお騒がせ社員として、
1年間過ごす事になったのです。この1年は本当に会社では針の筵でした。

結局私は3年勤める事になり、この会社でプログラマーとしての基礎と社会人の基礎を、
学ぶ事ができたのでした。
そして、3年が経った時に、会社を辞めて実家のある香川へと帰る事になったのです。
香川へ帰った私は、次の就職先をハローワークで探しました。
やっぱり、ものづくりに関わりたいと思い、高松の半導体工場を受ける事になったのです。
この工場には私の高校時代の友人がいました。3年も経ってるので、私の上司になります。
面接を受けた結果は合格でした。

それからは、12時間の2交代の工場勤務が始まりました。体が慣れるまで1ヶ月はかかりましたが、
当時は若さでなんとか、昼の勤務と夜の勤務をこなす事が出来たのです。
そして、3ヶ月が経過した夜勤明けのある日、またまたある事件が起きるのです。

[その24]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その22]

2015-09-05 06:42:23 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その22]」です。

そうこうしているうちに、2年目の春に、実家のある島の祖父が入院する事になりました。
病名は肝臓ガンでした。多分お酒の飲みすぎでしょう。
そして、1ヶ月が経った頃、突然危篤状態になったと連絡が会社にありました。
もしかしたら駄目かもしれないので、仕事が終わったら、名古屋の叔母さんの家に私と、
当時1年先に名古屋に中卒で働き始めた弟と従兄妹の3人で待機する事になりました。
翌朝、祖父は亡くなりました。

その後、私たちは島の実家に通夜と葬儀の為に、島に帰る事になりました。
島に帰って、通夜と葬儀を済ませると、私は会社が決算で繁忙期になっていたので、名古屋へと戻ったのです。

社会人として、2年目に突入した私は、上司からのパワハラと、名古屋の叔母さんからの、
執拗な干渉から、何とか逃れられないかと、色々悩み、会社を辞めたいと思う様になりました。

それ依頼、ねえちゃんと叔父さんに相談していましたが、もう暫く頑張ってみたら、という説得で、
もう1年会社を続けることにしました。しかし、私の環境は変わる事なく、むしろ悪化していきました。
私は精神的にも追いやられていましたが、ねえちゃんの家に遊びに行って、年少の従兄妹たちと遊んだり、
叔父さんに話を聞いてもらったりする事で、何とか耐えられていました。

しかし、その年のお盆に島に帰省した時に、父が仕事を長期に休んでいる事を知り、あんな父でも、
やっぱり心配になりました。父は今でいうアルコール依存症になっており、祖父が亡くなってから、
会社に行かなくなっていたのです。

親戚からは、もう、父の事は深く関わらない様にする、という状況になっていたのでした。
その当時、下の2人の妹達がまだ高校生で、あと数年は学費がかかるという状態で、
私は、当時の給料では仕送りも出来ない状態で、とにかく貯金だけはしていました。
ボーナスはほとんど貯金し、定期預金も月に9万円の残りのうち2万円を積み立てていました。
その上、名古屋の叔母さんから無理矢理生命保険に加入させられたので、手元に残るのは5万円ほどで、
そこから、先輩からほぼ毎月1万円を取られていたのです。

私はこの不条理な環境からなんとか抜け出したいとさらに強くなりました。
ねえちゃんと叔父さんに、この状況を相談していましたが、実はこの時、通帳を名古屋の叔母さんに、
預けさせられていたのです。私のお金を握られていたのでした。
そんな事もあり、私は実家に帰りたいと強く思う様になり、2年目のお盆に、実家に帰った時に、
父はお酒の飲み過ぎで肝臓を悪くして入院していました。実家の家計は未だに火の車でした。

そんな時に、幼馴染とたまたま再会したのです。その子は私が小学6年の終わりに、家庭の事情で、
大阪へと引っ越していった、たかちゃんでした。
再会したたかちゃんは綺麗になっていました。私はそれまで意識した事は無かったのですが、
夜に、一緒に花火をする事になり、そこで、色々な話をして、その時点で看護師になる為の学校に、
通っていることを知りました。

なんと、その時に、私は人生初の逆プロポーズされたのです。結婚して、と言われました。
私は驚いて、戸惑っていると、なんてね、うそうそ。と言われたのが、彼女を意識することになりました。
私はとりあえず、連絡先を交換して、文通することになりました。
名古屋に帰る時に一緒の新幹線で、2人だけでなんとなくいい雰囲気になったのです。
今思えば、とても甘酸っぱい思い出です。
彼女は途中の大阪で降りて行きました。手紙書くからね。と言葉を残し別れました。

その後、私が翌年の春に、会社を辞めることにしました。その前に、通帳を名古屋の叔母さんから取り戻し、
私が管理することになったのです。退職届を書いて、2年勤めあげた4月に辞めることになったのですが、
ここで、ある事件が起こるのです。

[その23]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その21]

2015-09-03 06:26:37 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その21]」です。

名古屋で初めて社会人として就職した私は、寮での居場所が無く、職場では上司から、
イヤミを言われ続けていました。その上、名古屋の叔母さんからは、心ない仕打ちを受け、
私の心の拠り所は、姉ちゃんの家に遊びに行く事と、先輩に悩み相談する事でした。

職場で非常にお世話になったのは5つ年上の先輩で、その先輩はとても優しく、
毎日昼食に2人で一緒に行く仲となっていました。
私は先輩に上司の愚痴とか、叔母さんの事とか色々仕事とプライベートの両方の話を、
聞いて貰っていました。本当にお世話になったのです。

この先輩がいなかったら、私は3年もこの会社にいなかったと思います。
私は3ヶ月で会社を辞めたいと思う様になりました。そこで先輩に色々と相談して、
説得され、助言を受けたのでした。

実はこの先輩、私が入社して配属された時から、昼食後に必ず近所の喫茶店に連れて行ってくれたのですが、
その時のコーヒー代を、何と3ヶ月もおごり続けてくれたのです。
当時の私は、社会人としての常識が無く、先輩にはおごってもらうのが、習慣となっていたのでした。
本来なら、おごってもらうのは初めのうちだけで、あとは割り勘で、私も支払うべきだったのですが、
そういった事に疎い私は、おごり続けて貰っていたのでした。

3ヶ月が経った頃、先輩から、実は小遣いが少ないので、そろそろ奢るのを辞めさせてもらっていいかな、
と言われました。私は、ハッと気づいて、今までおごられ続けていた事を、恥ずかしく思いました。
先輩は謝る私を、いいよ、いいよ、とやさしくなだめてくれたのです。
それ依頼、食後のコーヒーは割り勘にしました。そんな、とても面倒見が良く優しい先輩がいなければ、
私は心を病んでいたと思います。

それに、姉ちゃんがいなければ私が本音を吐き出す場所が無くて、これまた心を病んでいたと思います。
姉ちゃんの家族は、本当に家族みんなが仲が良く、今でも私の理想の家族です。
サザエさん一家のような、その場所は私にとっても、すごく居心地の良い場所となっていたのでした。

姉ちゃんもそうでしたが、叔父さんが本当に私の事を親身に思ってくれて、色々と相談して、
的確なアドバイスを受ける事が出来たのでした。
私は本当の父のような気持ちを抱き、この叔父さんには本当にお世話になりました。
この2つの居場所がなかったら、私はひとりで悩みを抱えていたと思います。

そして、私は会社で3年間を過ごすのですが、名古屋の叔母さんと、上司の嫌がらせ、寮での生活に、
嫌気がさして、1年で辞めたいと強く思ったのです。
その旨を先輩や姉ちゃん、叔父さんに相談していました。でも、もう少し頑張ったらと励ましを受けて、
私は、なんとか2年を勤める事が出来たのでした。

実際は、2年目になると、名古屋の叔母さんの嫌味や、過干渉に、私は本当に深く悩む事になるのです。

[その22]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その20]

2015-09-01 06:16:22 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その20]」です。

名古屋で就職した私は、2人の叔母に世話になりました。

非常に世話になった叔母が、私が「姉ちゃん」と読んでいた、丸島町に(仮名です)住んでいた、
丸島の叔母と親戚から呼ばれていた叔母さんと、私の入社した会社の部長でもある叔父の奥さんの、
これまた私が「名古屋の叔母さん」と読んでいた、丸ヶ丘に(仮名です)住んでいた、
丸ヶ丘の叔母と親戚から呼ばれていた叔母さんの2人から、世話になりました。

丸島の叔母は、私が休みの日には、ほぼ毎週の様に泊まりに行っていました。
それはとても居心地がよく、私の日々のストレスが癒される場所でした。
こんな家族を私も持ちたいと強く願う様になったのです。

丸ヶ丘の叔母は、初めのうちは月に一度くらい休みの日に泊まりに行っていたのですが、
ある事件を境に、数ヶ月に一度くらいしか行かなくなったのです。

その事件とは私の中で「泊まってく?事件」と読んでいる事件でした。
それは月に一度の丸ヶ丘へと泊まりに行く約束をしていた日の事です。
その日、いつもの様に寮に外泊届を出した私は、土曜日の夜に叔母の家へ行きました。
そこで、従兄弟と叔母と一緒に夕食を摂り、さあ、これから従兄弟と一緒に、
従兄弟の部屋でフリートークをしようとしていた時の事です。

叔母から、突然、「今日、泊まってく?」と聞かれたのです。
私はそのつもりで外泊届も出していたし、叔母の家に行く、という事は、
泊まりに行くという事だと、認識していました。
それが、この質問で、一瞬、私は何が起こったのか把握できなくなったのです。

私が「え、泊まってくって?」と聞き返すと、叔母はもう一度、私に質問してきました。
「どうする?泊まってく?」と聞かれた私は、しばらくの間言葉が出ませんでした。
これは、どういう事だろう?と色々考えた私は、ああ、もしかしたら従兄弟が受験勉強する為に、
私と一緒にいたらよくないと叔母が思って、私に泊まらないで帰れと言っているのだ、と理解するのに
5分ほどかかりました。

私は、それを察して、少し戸惑いながら、「う、うん。今日は帰るね」と答えるのが精一杯でした。
私は宿泊届も出しているし、今晩どうしよう、と考えながら帰りの地下鉄で考えあぐねていました。
寮の最寄駅についた私は、もう一人の丸島の叔母に公衆電話から電話して、
「丸ヶ丘の叔母さんから、今日、泊まってく?と聞かれて、駅まで帰ってきた」と伝えたのです。
すると叔母は、「じゃあ、今晩うちにきたら?」と言ってくれました。
叔母もてっきり私が丸ヶ丘に泊まってくると思い込んでいました。

私は、その足で丸島の叔母の家へと電車を乗り換え、向かう事にしました。
夜の8時を回っていたのですが、叔母は、私を優しく迎え入れてくれました。
そして、事の顛末を話すと、叔母は、「あの人はそういう人だから」と私に丸ヶ丘の叔母の実態を教えてくれたのです。

実は、丸島の叔母と丸ヶ丘の叔母の間は、仲が良くなかったのでした。その原因は丸ヶ丘の叔母の性格にありました。
丸島の叔母は、私と同じ島の出身で、以前にも書きましたが、私の父の妹です。
そして丸ヶ丘の叔母は、これまた私と同じ島の出身で、私の父の姉でした。

丸島の叔母は私と同じように、香川から名古屋の私の勤める会社に、叔父の紹介で勤めていました。
その後結婚して、旦那さんの実家にある、丸島へと住む事になりました。(以後、この叔母を丸島の姉ちゃんと呼びます)
結婚するまでの間は、普通なら会社の女子寮に3年ほど寄宿する事になるのですが、丸島の姉ちゃんは、
なんと叔母の家(部長の叔父の家)に居候する事になっていたのです。

丸島の姉ちゃんは、私と同じように初めの1日目だけは暖かく迎え入れてくれたそうですが、
翌日、部長の叔父が仕事でいなくなった時から、(部長の叔父は忙しく、朝早くから夜遅くまで働いていました、
その上出張も多くて家を留守にする事が多かったのです。)叔母の態度は一変しました。

何かにつけ丸島の姉ちゃんに干渉してくるのです。その上、家賃と食費という名目で少ない給料からかなりの額を、
受け取っていたのでした。
それ以来、丸島の姉ちゃんは、常に叔母から嫌がらせや小言を言われていて、非常に肩身の狭い思いをしていたそうです。
そんな事実を私はその日まで知りませんでした。

私のこの事件があってから、私は丸島の姉ちゃんと本当に仲良くなっていったのです。
また、姉ちゃんの旦那さんの叔父さんも、実は父より1歳下だったのと、人格が本当に素晴らしい人でした。
なので、私はそれ以来毎週のように、丸島の姉ちゃんの家へと泊まりに行くようになりました。

名古屋の叔母さんは、私に何かにつけ、「お前はおじさんに世話になってるんだから」と言って、
私に干渉してきました。私はそれも嫌で仕方ありませんでした。その上、今回のような仕打ちを受けた私は、
それ以来、名古屋の叔母さんとは距離を置いて付き合う事にしたのです。

もちろん従兄弟は年が一つ違いで、学年は二つ違いの私の上の妹と同級生だったこともあり、
仲良くしていました。この従兄弟ともウマがあったのです。
本当は従兄弟ともっと一緒にいたいと思って、名古屋の叔母さんの家に泊まりに行っていたのですが、
それ以来、私は足が遠のいていきました。

[その21]へと続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その19]

2015-08-30 06:26:39 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その19]」です。

名古屋ではじめての社会人としての一歩を歩んだ私は、繊維問屋に就職しました。

その会社には社員寮があり、私はそこに住む事になりました。
しかし、当時、高校時代とは違って、人見知りが激しかった私は、寮生活に馴染めませんでした。
特に、本来なら同期と友達になれれば良かったのですが、自分がコネ入社である事から、
少し自分に負い目を感じており、その上、言葉も方言が出せないので、なれない標準語で話す事が、
少し苦痛で、同期も商業高校出身者がほとんどだった為、話が合わなかったのでした。

その上、寮生活は2年上までの先輩達と一緒に生活するという事もあり、体育会系のノリで、
かなり厳しい縦社会になれていなかったので、寮生活が苦痛で仕方ありませんでした。
特に、一つ上のある先輩に目をつけられた私は、その先輩からお金を貸せと言われ、
少ない給料からほぼ毎月1万円ほど取り上げられていたのでした。

相談できる相手も当時は社内にいなかった事もあり、私は叔母に相談しようと考えていました。
しかし、その叔母はとんでもない人である事が解ったのです。

私には名古屋に叔母が2人おり、父の姉である会社の部長でもある叔父の奥さんと、
父の妹であるもう一人のやさしい叔母がいて、やさしい叔母の方は私が姉のように慕っていました。

厳しい叔母の方は、私が名古屋に来てから、初日に叔母の家に泊まる事になったのですが、
その泊まった夜は、叔母の得意の手料理を頂き、その時は楽しい時間を過ごすことが出来ました。
翌朝、朝食を作ってくれて、私は名古屋の赤だしの味噌汁の味が美味しかったのを今でも覚えています。
この叔母さんの事を、私は親しみを込めて名古屋のおばさんと呼んでいました。

そして、寮に帰った私は、これから同期を手始めに友人を作り、仕事に頑張ろうと考えていました。
入社式を緊張しながら終えた私は、翌日の夜に会社主催の新人歓迎会に参加することになりました。

当時18歳だった私は、その歓迎会の乾杯でビールが配られたのですが、私一人だけ、ジュースを選んでしまい、
みんなから顰蹙を買ったのです。それから、私は会社で「変わった奴」という印象が付いてしまったのでした。
それ以来私は寮でも会社でも少し浮いた状態となり、人間関係を築くことが難しくなりました。

寮生活は体育会系だったので、社会人としての会社での立場とか、色々と覚えられたのですが、
縦社会に馴染めなかった私は、この会社に入ったことを後悔し始めていたのです。

それから一週間が経過した次の休みの日に、部長の叔父の家に泊まりに行くことになりました。
叔父は大変重要なポストに付いており、非常に忙しい人で、全国を飛び回っていました。
叔父の家では叔母と従兄弟の二人の中に私がお邪魔するという構図が出来上がっていたのです。

叔父のいない時の名古屋のおばさんは、優しかった叔母とは違って、私に非常に厳しく、
従兄弟と私の対応に、全く違った対応をしていました。
もちろん、自分の息子が可愛いということはわかりましたが、私を精神的に少しずつ追い詰めてきたのです。
私は、会社で有ったことなどを食事の時に叔母に話すと、思いっきり叔母から馬鹿にされました。
叔母の口癖は「そんなこともしらんのかね」と、何かにつけ私を馬鹿にするのです。
その上私に色々と干渉してくるのでした。

私はあの母のように慕っていた叔母がこんな人だったなんて、名古屋で住むまで知らなかったのです。
私は、それ以来もう一人の叔母の家に頻繁に遊びに行くこととなりました。
私が姉のように慕っていたもう一人の叔母は、とても優しく、その旦那さんである叔父さんも、
とてもいい人で、その家にほぼ毎週のように休みになると遊びに行っていました。
そこでは男の子と女の子の兄妹がいました。私はその子たちの格好の遊び相手となりました。

その子たちと遊んでいる時も楽しかったのですが、姉ちゃんと呼んでいたその叔母と、
叔父さんと呼んでいた、二人を名古屋の両親と思って、色んな話を聞いてもらっていました。
そこで、寮での愚痴とか、叔母から馬鹿にされたことなんか、本当に腹を割って話せる家族でした。
今でも私の理想の家族です。
叔父さんと叔母さんは本当に親身になって私の話を聞いてくれ、アドバイスをしてくれました。
この叔父さんと叔母さんがいなかったら、私は名古屋で3年間耐えられなかったと思います。

ある日、名古屋のおばさんの家に泊まりに行く事になっていた日に、ある事件が起こるのです。

[その20]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その18]

2015-08-28 06:15:20 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その18]」です。

工業高校を卒業した私は、叔父の勤める名古屋の会社に入社することになりました。
初めての社会人としての仕事がここからスタートしたのです。

会社の主な業務は繊維製品の卸売り業で、メインは高級和服の売買でした。
和服以外にも洋服や寝具、毛皮などの高級商品の取り扱いも行っていました。
規模は年間売り上げが100億円ほどで、従業員はグループ企業も入れて500人を超えるという、
名古屋では結構大きな会社でした。

私はその会社のコンピュータ室に配属されました。
基本的にこの部署は経理や経営に関する資料の作成が主な仕事で、売上や仕入、回収や支払の為の帳票作成、
給与計算、決算関連書類の作成、経営分析資料の作成などを自社開発のアプリを汎用機で作っていました。

その設計から開発、運営、データ入力、各種計算処理が主な仕事でした。
私はそこで、まずは汎用コンピュータのオペレーターとしてコンピュータの操作をすることを覚えました。

会社で使われているコンピュータはIBMのシステム/38という当時としては最先端のリレーショナルデータベースによる、
オペレーティングシステムを搭載しており、使用言語はRPG/IIIというこれまたデータベースアプリを作成するのに、
非常に強力な言語となっており、私はここで、業務用コンピュータの使い方と、データベースの基礎、
プログラミングの基礎を習得することができました。

仕事自体は大変面白く、勉強になったのですが、人間関係が少し複雑で、私は1年で辞めたくなりました。
当時、私の上司であるコンピュータ室の室長が私の叔父と社内で対立関係にあり、元々私が入社する予定がなかったところ、
無理やり、叔父が私をコンピュータ室にねじ込んだらしいのです。

それを良くないと思っている室長の今でいうパワハラが私に行われていました。
しかし、これも仕事のうちと思って私は内心、修行期間だから頑張ろうと思って、日々の仕事をこなすことに必死になっていました。

室長以外の先輩や同僚との人間関係は良好でした。これが救いになりました。
特に先輩には非常に良くしてもらって、この先輩がいるから、結局3年間なんとか勤めることが出来たのです。

しかし、本当は私が辞めたいと強く思った原因は、他にありました。それは叔母の存在でした。

[その19]へと続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その17]

2015-08-26 04:43:25 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その17]」です。

工業高校に通っていた私は、進路について色々と考えていました。
高校2年生の時に自分がなりたいことを発表する会が授業の一環で行われました。

私はその時「システムエンジニアになる」という夢を発表しました。
その発表会では私のいた設備工業科以外にも電気科や電子科、建築科など各種の専門科の生徒の前で、
発表することになっていました。

私の通った設備工業科は基本的に給排水設備工事を設計したり実施したりする科でした。
しかし当時、学習指導要領が変更になり、在校生はすべての科の実習を横断的に行うことになっていました。
そのため私は機械、設備、電気、電子、化学、土木、建築の7つの工業科の実習を一通り、
さわりだけですが行いました。就職に役立つと思われていたからです。

発表した時に他の科の生徒が、設備なのにシステムエンジニアになれるはずも無い、と笑われました。
その時はまた恥ずかしくなって顔を真っ赤にしていましたが、同じ科の友人たちは、
頑張れと応援してくれました。持つべきものは友ですね。

私はその時から具体的にどのようなスキルを積めば、設備科でもシステムエンジニアになれるか、
色々と考えていました。とにかく学校を卒業したら早く社会人として独立したかったのです。

当時、一番手っ取り早い方法は、ソフトウェアハウスと呼ばれていた開発会社に入社して、
プログラマーになることが近道でした。
けれども、私のいる設備科には、それらの求人はありません。
なので、まずは工場の生産工程を行う会社に就職しようと考えていました。

しかし、高校3年生の時に、叔父が勤めている名古屋の繊維問屋の会社で、
コンピューター室の部署があるからこないか、と誘いを受け、私はそこに就職することになったのです。
いわゆる、コネ入社でした。

叔父は奥さんが私の父の姉で、当時はもう一人のお母さんのような気持ちを抱いていた人でした。
しかし、この叔母が、後でとんでもない人だということが分かったのです。

ともあれ、私は高校3年の秋には、進路が決定したのです。
ここから、私がコンピューターを仕事にするという後々の基礎が始まったのです。

[その18]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その16]

2015-08-24 09:38:45 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その16]」です。

中3になった私は、高校受験を迎えました。
当初の目標よりも下でしたが、私の当時の学力で入れそうな工業高校に進路を決めました。

その時に自分に対する「にんじん」を目的に、父が酔った時に証文を書かせました。
当時私が一番欲しかったものはシンセサイザーでした。YMOの影響が非常に大きかったのですが、
シンセサイザーはとても高価で、ウチの経済状況からはとても買えるものではありません。
そこで、太鼓が好きだった私は、ドラムを覚えようとドラムセットを買ってもらう事を父に提案しました。

父は、「合格したら買ってやる」と言質をとったので、それを紙に書いてもらったのです。
母印も押してもらいました。

私は、内心、本当に買ってくれるか解らないけれども、自分の「にんじん」が出来たので、
それを目的に、受験勉強を頑張りました。

最終の模擬テストでは、合格するかギリギリのラインでした。
2月に受験し、3月の中旬に合格発表がありました。
結果は合格でした。

私はすごく嬉しかったのでした。これで、島から出られるという事が一番大きかったですが、
「にんじん」が貰えるかもと期待が膨らみました。
父に結果を知らせると、なんと買ってくれると言いました。

私は天にも昇る気持ちでした。
そして、カタログとかを取り寄せてみたのですが、当時の値段で15万円もしたのです。
ちょっと無理かなとかも考えました。
しかし、このドラムセットがパーソナルコンピューターに変わる事態が起こるのです。

高校の合格後の春休みに、従兄弟のいる名古屋へ遊びにいきました。
その時に当時はマイコンと呼ばれていたパソコンを見学する事になったのです。
従兄弟の家から少し離れた家電量販店にパソコンが展示されていました。それを見に行ったのです。

その前に近くの書店でマイコンの雑誌を2冊ほど購入して、プログラムリストを入手しました。
当時の私はマイコンの使い方なんて全然知らなかったのですが、なんとかなるだろうとタカをくくってました。

展示されたマイコンを触る事が出来たので、プログラムを入力してみました。しかし、うまくいきません。
そりゃそうです。プログラムリストの入力方法自体、知らなかったのですから。

そこで私は店員さんに聞いてみました。すると店員さんは、まるで「そんな事も知らないで触るのか」とでも言うように、
鼻で笑われたのでした。
私は顔を真っ赤にして急いでその場から従兄弟と逃げ出しました。従兄弟は大笑いです。

後で従兄弟の家に帰った時に叔母に「知ったかぶりするからよ」と怒られました。
私はそのことがショックで、悔しくて、「よし、それならマイコンを使えるようになろう」と決意したのです。

従兄弟の家から島に帰ってきた私は、父にドラムセットはいいからマイコンを買ってくれと交渉しました。
値段的にドラムセットと同じくらいだったので、父は「わかった、やってみろ」と言ってくれました。

当時、そのマイコンはプログラミングで音楽やゲームが作れました。私はそのゲームや音楽をやりたくて、
高校に入学してから、マイコンの入門書を買い、必死でプログラミングを勉強しました。

当時はユーザーがプログラミングをしないと、ソフトウェアを動かすことが出来なかったのです。
必死でBASIC言語を覚えました。そのおかげで、高1の夏休みにはデモンストレーションプログラムが、
数分で入力できるようになったのです。

乱数で四角形と色を変化させて、ある数に達すると画面がクリアされて再度描画するプログラムを自力で書くことができました。
それから、私は学校でFORTRAN言語を習い、学校のコンピューター室で実習をしたり、
高松のコンピューター学習センターでプログラミング実習をしたりしたのです。
そこで、コンピューターの基礎を叩き込まれました。

それ以来、私はコンピューターの虜になったのでした。それが今の仕事につながるとは夢にも思いませんでした。

[その17]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その15]

2015-08-20 10:07:15 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その15]」です。

学校でも、家でも居場所のなかった私は、空想の世界に居場所を見つけました。
自分が大人になったらやりたいことや、島を出て早く独立したいと強く思うようになったのです。

小6の時に初めて聞いたYMOのライディーンでカルチャーショックを受けた私は、
もしかしたら、これが私のやるべきことなのでは、と思いました。

当時はさとしくんと一緒にYMOの真似事をしていましたが、もちろんシンセサイザーも無ければ、
コンピューターもありません。

私は家にあった小学校からいらなくなってもらった壊れた電気オルガンをキーボード代わりにして、
いくつかの出ない音をとばして、耳コピしたライディーンの曲を弾き、さとしくんはボウルにチラシをくくりつけた、
簡易ドラムでリズムを取っていました。

即席のセッションをしていたのです。これがとても楽しくて、嫌なことを忘れさせてくれました。

小6の時の夢は、ロボットを作ることでした。
これは人が乗って動かすロボットで、当時はマジンガーZをモデルに考えていました。
その夢を叶えるためには、まずは電子工学について勉強して、コンピューターの勉強もしなければなりません。

おぼろげな知識で、私は中学を卒業したら、高等専門学校の電子工学科に入りたいと強く思い描いていました。
しかし、実際には中学の時に学力が不足していて、工業高校に入れるかどうかのギリギリの成績でした。

中学生になった私は、いじめが肉体的ないじめから精神的ないじめへと変わっていきました。
感情を表に出すことを禁じられたのです。

クラスで面白いことがあっても笑うと「笑うな」と言われたり、何かを話そうとすると「しゃべるな」と言われたり、
この時は本当に生きる屍でした。

私は中学の時から、ただ嵐が過ぎ去るのを待つようなそんな日々を過ごしていたのです。

中3の時に工業高校の受験を決めました。もし、そこで落ちたら、職業訓練学校の溶接科に入って、
とにかく手に職をつけて自立する事を一番に考えていました。

それが運命の分かれ道になったのです。

[その16]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その14]

2015-08-16 08:25:33 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その14]」です。

もう一人の女の子の友達の「たかちゃん」です。
私は当時から、異性の友達はどうも苦手でした。意識しすぎるところがあったのです。

初めはたかちゃんもそうでした。でもたかちゃんと少しずつ遊ぶうちに、たかちゃんのお兄さんとも遊ぶようになりました。
たかちゃんのお兄さんは、絵が上手で、その上非常に物知りでした。

特に戦艦の絵を描くのが上手くて、乗り物好きだった私は、何度もせがんで絵を描いてもらいました。
それと、紙飛行機も作るのが上手くて、飛ばし合いをするのですが、中々勝てません。
お兄さんの紙飛行機は独特の形をしていました。
かなり、工夫をしていて、機体の抵抗を下げて、長距離を飛ぶ形にしていました。

私は、そのコツが知りたくて、何度も聞くのですが教えてくれません。
多分、自分で創意工夫することを教えたかったのだと思います。

それ以来、私はお兄さんの紙飛行機をまねて、色々と工夫してはお兄さんと競争していました。
私には兄がいませんでしたが、本当の兄のようでした。

たかちゃんとは、家の近所の「おいべっさん」でこれまた近所の子たちと一緒に遊んでいました。
たかちゃんは、みんなでできる、いろんな遊びを知っていました。
たかちゃんは初めは人見知りでしたが、慣れると男勝りで、私なんかよくお尻を蹴られたのを覚えています。
まぁ、私がお尻を蹴られるようなことをしたからなのですが。

たかちゃんとも仲良くなりました。たかちゃんはうちの集落のリーダーだったのです。
学校ではすごくおとなしい子で、あまり発言もしませんでした。

でも帰ってきてからみんなと遊ぶ時は楽しそうにしていました。
私もとても楽しかったのを今でも覚えています。

たかちゃんとお兄さんとは、たかちゃんが小学校を卒業する時に、家庭の事情で引っ越して行きました。
それ以来会っていませんでした。

その後、私が19歳になった時に再開するのですがその話は後ほどに。

[その15]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その13]

2015-08-09 07:11:55 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その13]」です。

さとしくんと仲良くなった私は、さとしくんのお兄さんとも仲良くなったのです。
初めは太鼓の上手な憧れのお兄さんでした。その上、漫画を描くのが上手で、
手作りの漫画ノートを読ませてもらったりしました。

それ以来、さとしくんの家にほぼ毎日遊びに行くようになりました。
さとしくんのお兄さんは頼れる兄貴って感じの人でした。お兄さんには色んなことを教えてもらいました。
さとしくんと遊ぶというよりも、お兄さんと色んなことを話すことの方が多かったと思います。

私とさとしくんとお兄さんの3人で漫画クラブを作って、私は下手くそながら、漫画の真似事をしていました。
一番上手いのはお兄さんで、次はイラストがメインのさとしくんでした。
さとしくんには絵の才能がありました。
学校の図工の時間に絵を描くと、それは彩り豊かで、まるで画家のようでした。
絵を描くのが早くて、しかもすごく上手だったのです。

さとしくんのお兄さんの発案で、一冊の漫画雑誌を3人で作ろうということになりました。
そこで、私は自分の描く漫画のストーリーを考えたりしたのですが、結局、さとしくんのイラストと、
お兄さんの漫画だけの漫画雑誌になってしまいました。それでも楽しかったのを今でも覚えています。

私が小6の時に、さとしくんのお兄さんから、あるレコードを聴かせてもらいました。
それはイエローマジックオーケストラ(以下YMO)のライディーンという曲を聴かせてもらったのです。

私は衝撃を受けました。こんな曲があるなんて、しかもお兄さんの話によれば、
この曲はコンピューターで作られたというではありませんか。
お兄さんも興奮しながら、すごいやろ、と言って、私にダビングしたテープをくれました。
コンピューターで音楽が作れることに私はカルチャーショックを受けたのです。

大阪時代の私は、ロボットを作りたいという夢がありました。
その制御にコンピューターを使うということを、図鑑で知り、私はロボットとコンピューターに憧れを持っていたのです。
その夢は小6の時に、はっきりとした形になりました。
ロボットを作るのにも音楽を作るのにもコンピューターが欠かせない、その事実を知り、
私はコンピューターの虜になっていったのです。でもその夢は密かな夢でした。
何故なら、当時のコンピューターはものすごく高価で、操作するのがとても難しかったからです。
まだ、プログラミングのプの字も知らなかった私は、その後それが私の現在の仕事になろうとは夢にも思いませんでした。

[その14]に続きます。