たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

白内障・術後検診

2018年04月24日 | 日記

昨日、左目の白内障を日帰り手術をしました。視力が弱い方から手術するとのことで、帰宅後夕方頃方は違和感は失せ異常なく半日と一晩過ごしました。低温で半身浴の入浴もしました。

翌日の今日は午前中に検診を受けるよう指示されていました。
術後テープで頑丈に眼帯をされていましたが、最初に眼圧検診で眼帯を外されると、明瞭さと明るさは感動的でした。片目をつむってみると明るさと暗さの差が、左右で格段の差です。

眼圧検査では、機械がフッと空気を吹きかけます。その後手術した目の視力検診で、検査用矯正メガネをかけてやりました。
手術前の裸眼視力 0.15 矯正視力 0.6 が 1.0 に向上していました。

その後、診察室で医師の検診「異常ありません」と、瞳孔の画像をテレビ画面で見せられました。
眼内レンズを入れた方は真っ黒で、未だ手術前の右目は水晶体が3分の1ほど白く濁っていました。

術後翌日から1週間は、保護メガネをかけ、目薬3種を朝、昼、晩、就寝前と日に4回さします。
説明とさし方は看護士がやってくれました。手術日から殺菌剤のフロモックス錠は日に3回服用です。もう一つは目に水を入れないこと。

いままでかけていたメガネは要らないくらいです。パソコン画面の白さがまるで違います。明るさ設定を85にしていたのを75に落としました。

朝食は息子の嫁さんの差し入れがあり、勤めの都合で送迎ができないので往復タクシー利用しました。
検査はまだ3回あります。


喫茶店の閉店

2018年04月23日 | 日記

モーニング喫茶店が閉店される。生活リズムが狂うので寂しい。「白内障手術で明日、明後日と来れないので長い間養っていただきありがとう」と、ママさんやお姉さんたちにお別れの挨拶をしてきた。

傘寿同窓会では喫煙してるバカは自分1人だった。「変なところが意思が固い」と笑われた。旅館内は全館禁煙で玄関口に椅子とテーブル灰皿が置いてあった。皆それぞれに病気したと、動脈瘤ステント手術、狭心症、軽い脳梗塞2回、腰痛、ひざ痛(女性2人)、クモ膜下出血等々だった。これを機会に禁煙に再々チャレンジするか。

フリージアが咲いた。同窓会翌日バスに乗る時、外人宿泊客が写真を撮っていた。声をかけると「タイニーズ」と聞こえ、それから双方チャランポランに乱れた。今思うと「チャイニーズ」だったかなと?
「ニーハオ」と言えばよかったかな。娘2人と奥さんの4人家族だった。飛騨高山の旅館の観光マップは5、6ケ国語が置いてあった。
昨日お礼の電話をした陶匠は「また来年あたり、会って話すだけの会をやろうまいか」だって。


フリージアが咲いた・白内障の手術

2018年04月23日 | 日記

もう枯れたかと思ったフリージア(ブログ読者に教えていただいた)が3日前に咲きました。おかあさんが植えて逝った忘れ形見です。
今日は白内障手術を12時から受けます。家から2キロもない眼科医ながら、車は使えないし、岐阜バス、コミニュティバスも時間帯と経路が良くないので、息子の嫁が勤務先から一時帰宅して送ってくれます。帰りはタクシーを呼んでもらいます。1,160円で、明日と4日後検眼日で出費がつづく。

明後日、15年以上もモーニングで養ってもらった喫茶店が閉店です。建物を家主が返してくれとの契約解除だとか。家主を恨むところです。新聞と週刊文春、パーゴルフを愛読しました。

これから最後のモーニングで、ママさんやお姉さんたちに今日が最後と挨拶しましょう。毎月20日の特売日のチケットが10枚分3,200円でした。2枚余った。

明日から1日は眼帯1週間は保護メガネをつけ家で静養だそうです。昨日と少し食品を買いだめしました。
朝の食パンを買い忘れたので、モーニングの帰りにスーパーへ寄ります。
ここ半年ほどコーヒーに入れる甘味料・浅田飴のシュガーカット・938円(イオン1.023円)を常飲しています。ほんの数滴で甘さが砂糖やオリゴ糖とはまるで違う妙なる甘さです。

「白内障手術は心配ない、私もやった」と同窓会で女性の一人が言いました。高山日赤で2日ほど入院して手術だとその女性や私の姉が言いました。私も入院の方がよかったかと今思います。
3ミリの切開で厳密には2,8ミリ、約1時間と医師は言われました。視力0,4が戻ることを祈ります。


飛騨高山・松倉城跡

2018年04月22日 | 日記

同窓会2日目は松倉城跡に登りました。飛騨の里から徒歩では1時間余を要するらしい。飛騨の里近くにある「お宿 八平衛」さんにお願し、マイクロバスで「松倉シンボル広場」(休憩所と公衆トイレがある)まで、送迎していただきました。

本丸跡には由緒を書いた案内板があったそうですが、朽ち果てて跡形もなく僅かに天井屋根のみが野ざらしになっていました。ネットを探ると、幸いお城の由緒を書いた案内文がヒットしました。

見学が終わりまた旅館のマイクロバスをお願いし下山。お昼には少し早く、旅館のロビーで時間をつぶし、バスで昼食会場の魚祭へ送っていただきました。幹事さんが親戚の旅館のバスは2日間で計5回お願いし心付1万円と甘えました。

今回が最終回とのことで、積立てきた慶弔費が約20万円ほどあり、会費に当てました。それでも5万円の余剰金が出たので、意見集約し高山市に寄付し、登山道と案内標識の整備の足しにしていただくことにしました。新聞報道してもらい呼び水してもらえれば幸いと話し合いました。 

飛騨の里の伝統的陶器の製造販売・小糸焼き主人も(同級生)も、標識類がお粗末なことに残念がり、寄付金の市への寄託は彼に託しました。

ここから約250メートルほどの急な山道を杖をついて登りました。登山道は狭く整備はあまり良くなく、三の丸から本丸の頂上までが急峻で杖がないと危ない。登り口に木の枝の杖が何本か置いてあり借用しました。

石垣がよく残っているのは珍しいそうです。三の丸でしょうか。

本丸の石垣、こんな高い山によくこれだけの巨岩を集めたものと思います。

本丸跡です。

北アルプスと高山市を一望する眺望は素晴らしい。

同級生の女性は「私の家はあの辺よ」と指さしていました。

旗立て岩だそうです。

井戸の跡、天水を溜めたのでは?と皆で話ました。


傘寿同窓会 その2

2018年04月21日 | 日記

わたしは副幹事でしたが役立たずでした。宴会の席では、それぞれが「どう生きて来たか」苦労話などを、一人づつスピーチする提案がされました。
一人の級友は、伝統的「飛騨染め・ゆはら染工」会長さんなので、席上スピーチと共に自らデザインし染め上げた馬頭観音・暖簾を全員にお土産にくれました。由緒書きは味のある級友の直筆です。

彼は祭りの鶏闘楽(けいとうがく・鐘打ち)や獅子舞の衣装を伝統的手法で染め上げる、現代の名工です。

地元の幹事さんも骨折ってくださり、地元女性幹事が席上で配ってくれた「北国の春(高山バージョン)」全員で生オケで、締めは「夜間部の歌」「斐太高校校歌」を合唱しました。

この種の替え歌が作られるのが飛騨高山らしいところです。現在の飛騨高山高校が「夜間部の歌」を今でも歌っています。幹事さんが作った「同窓会しおり」に歌詞が記載されており、3番歌詞の冒頭が斐太高時代の原歌詞、
「抱く巴城(はじょう)の 正義の鐘に
 若き血潮をたぎらせつ」・・・が、
「行こう若人 希望を胸に
 若き血潮をたぎらせつ」・・・に、改詞されています。巴城ヶ丘とは斐高の裏山のことです。
通信教育課程を卒業した級友が目ざとく見つけ、質問されました。


傘寿同窓会

2018年04月21日 | 日記

19日~20日、故郷飛騨高山市で開催された同窓会に行ってきました。
昭和33年3月高山高校、飛騨実業高校等を卒業した定時制(夜間部)、通信教育、転校者などの合同同窓会で・燦々会という会です。会員が傘寿を迎え記念すべき同窓会になりました。

 前回は3年前に開催され、3年で皆がそれぞれに、動作が鈍くなり年齢相応の再会でした。
今回が最終回ということで、感慨無量、話しが弾みました。観光施設「飛騨の里」近くの旅館「八平衛」で全員宿泊17名が参加しました。(1名は開催日を間違えて欠席)
19日一旦旅館へ集まり~旅館のバスで高山陣屋近くの神通寺で物故者法要を厳修しました神通寺は浄土真宗本願寺派で導師は観無量寿経をお勤めされ、お経の後で味わい深い説法をされました。お布施2万円を志納した。

旅館前からの北アルプス 笠ヶ岳~穂高連峰

車で行き、旅館を確認した後、級友の店「高砂」で中華そばで昼食、その後市内を少し回り、線路を跨ぐ形で新築されたJR高山駅を見ました。市内は外国人観光客が溢れていました。

旅館前には崇教・真光の本堂が光っていました。

車で行き、関IC~高速・東海北陸道~郡上八幡IC~せせらぎ街道~高山市へ の経路でした。道の駅・明宝から背後の新緑を見る。


高山高校等・定時制(夜間部)・傘寿同窓会

2018年04月18日 | 日記

明日は定時制高校(夜間部)の同窓会です。貧しい時代で定時制に進学は珍しくない時代でした。
それぞれが苦節80年、傘寿同窓会を迎えました。これが9回目で最終回とのことです。ちなみに私は2歳年長です。
幹事さんと地元の級友のお骨折りで、死亡者などがほぼ把握できました。(下記のように合同同窓会・会名は「燦々会」です。その前に単独同窓会を数回やっています)

卒業生 高山高校 普通科 25名、商業科23名、
    斐太実業高校 電気科 12名
    通信教育課程へ移籍者 1名
    他県高校へ移籍者 1名  総数 62名
生存者 39名
物故者 23名(37%)

同窓会参加者 18名(46%)
欠席者 6名 回答なし 2名(1名はお孫さんへ電話転送され認知症とのこと。1名は電話が使われていないとメッセージ)
案内不要者・全欠席で案内を出さなかった人 13名

明日は高山市の旅館で全員宿泊で行われる。15時集合~その後高山陣屋近くの神通寺で物故者法要を行う。
翌日は松倉城跡を徒歩で散策~飛騨の里の麓の魚祭(このしろ:ぎょさい)で昼食~解散

もう死ぬまで会えないことになる人が大多数で少し寂しいです。
車で早出してゆっくり行こうと思います。
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斐太高校に3年、学校再編成により高山高校等に1年在籍し、4年の履修でした。今でも飛騨高山高校に夜間部があるのは嬉しいです。
「夜間部の歌」は我々が在籍していた当時斐太高校で作られました。作詞、作曲も先輩で作曲者とはクラブ活動(自動車部)でお世話になりました。
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(概要)昭和29年斐太(ひだ)高校定時制(夜間部)入学(普通科、商業科、電気科)~昭和31年7月29日校舎消失(放火・斐太高、高山高の2校が同じ夜に焼失した)~南小学校を間借りして勉強~
高山地区高等学校再配置により岐阜県立高山高等学校が新発足した。定時制課程として、斐太高校の夜間部普通科・商業科を高山高校へ移管、電気科は斐太実業高校へ移管された。~昭和33年3月卒業


安倍には、もううんざり

2018年04月17日 | その他

森友学園問題は、財務省の決裁文書を改ざんしてまで真相を隠そうとした。8億円を自費弁償して政治家を辞めよ。
多額の税金が使われる加計学園問題は、当時の首相秘書官が「首相案件」の文句で脅して進めたことに疑問の余地がない。
首相案件の安倍首相元秘書官・柳瀬唯夫・経済産業審議官はヒラメ官僚、腐り官僚の代表、名は体を表す唯の男、辞めよ。
世論調査では80%弱の国民が、安倍の説明に納得していない。安倍が政治家を辞めて謝罪するしかない。

韓国の槿恵(パク・クネ:66歳)前大統領は弾劾裁判で罷免され、懲役24年の判決を受け拘置所に収監中。
控訴しないという。刑死する覚悟のようでご立派。韓国民は日本人を「何て気長、バカな国民」と笑っている。

法事で帰宅した際、自民党議員の後援会員である兄は、テレビの守で「三大バカ女、一に昭恵、二に百合子、三に蓮舫」、「安倍は朝日にやられてもう終わりだ」と言っていた。

エリート官僚のトップ財務省福田淳一事務次官が、複数の女性新聞記者に「予算案が通ったら Hしよう」「胸触らせて」等々のセクハラ発言の音声データを入手したと週刊新潮が報道した。
安藤優子キャスターは昨日、所属するフジテレビが取材した際、福田氏は「自分の声だと認めた」(騒ぎが大きくなって)「全面否定されるのはおかしい」とコメント。


遠縁の人が亡くなる

2018年04月17日 | 日記

一昨日は19歳の後輩巡査に撃たれて亡くなった彦根警察署・井本光(あきら)巡査部長の葬儀が行われた。小さいお子さんが泣いていたという。お気の毒の極みです。

法事で帰省した朝、遠い親族にあたる84歳の女性が亡くなり、兄と姉が無声で帰宅した故人に会いに行ってきたと言った。
昨日が葬儀だったが、1日違いで私はお参りできなかったので、心だけのご香典を預けて帰宅した。兄とは同級生だった。
兄もとみに老化し膝が痛いと「おとき」の食卓では座椅子で座ったし、最近肩の筋が音を立てて切れたと、痛がっていた。また、10年ほど前突発性難聴になり片方が聞こえない。3歳違いなので自分にも何かが起こりそうだ。
明後日再帰省で最終回の同窓会に参加して、来週は白内障の手術を受ける。視力は戻るか懸念しています。

亡くなった遠縁の方は昔、近くの鈴蘭高原カントリークラブのキャディをやっていて、当方が故郷の事業所へふるさと転勤になった際、日曜日に月一回東海ラジオ杯という、お値打ち料金なビジター競技をやっていたので、会社の若い人達に誘っていただき楽しんだが、その際キャディの遠縁の方にお世話になった。

鈴蘭高原カントリークラブは昨年末のシーズン終了を以ってゴルフ場閉鎖を予告していた。
その後、美濃加茂市の㈱佐合木材が経営権を取得して、営業を継続することになったそうだ。
兄は東海ラジオが経営していたときからここの会員だった。今度の経営者が20万円で新規会員を募集したので購入したが、後からチラシをよく見たら「会員権は返還しない」となっているのを見落としたと後悔していた。
このゴルフ場は御嶽山を目前にし、景観が良い平坦な高原ゴルフ場です。
全国僻地のゴルフ場はどこも経営に苦しんでいます。


亡母7回忌法要

2018年04月15日 | 日記

108歳と超高齢で逝った亡母の7回忌法要に行ってきた。
在所の菩提寺で法要が行われ、参拝者は極身内に限られる形式の年回法要に簡素化されました。

何かと伝統を守る地域の飛騨でも、家へお坊さんを迎え遠い親戚までお招きする形式はやらなくなりました。でも中身は丁重な法事に変りなく、84歳の施主・兄貴はよく勤めてくれました。

菩提寺の紋所は今から500年ほど前、先祖につながる縁がある北条紋・丸に三つ鱗の変形です。

手次寺も先代から若住職に交代され、継承式が最近行われたそうで、その法要の写真を見せて貰った。が、昨日の導師は先代住職がお勤めされ、音調も声も良いと名高いお坊さんで観無量寿経を上げられました。その後全員で正信偈を勤めました。

御華束(おけそく)に変わる、お餅を高山市の餅屋についてもらい、密閉包装と年忌法要の短冊をつけ、寺へ持っていき全部を飾り、おとき(お斎)から帰宅後、村中へ配る形式は変わっていません。丁重なお返しも頂いて、米1斗を土産に貰ってきました。


おときは寺での法要後、駅前の食堂兼和食料理店で本式和食料理が振舞われ、夕食も出前の刺身やオードブルに、若嫁さんがしっかり造った料理で飲み直して一泊して帰宅しました。

13回忌は兄弟姉妹4人のうち、誰が残っていてお参りできるか保証されません。