日本文化のユニークさ7項目を8項目に変更した。8項目は次の通り。
日本文化のユニークさを8項目に変更
これに従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続けている。
今回から(6)「森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。」に関係する記事を集約して整理する。ただし、最初はこれまでアップした記事からではなく、新たな記事となる。
では始めよう。
日本列島は、縄文時代以来、豊かな自然に恵まれた「森の列島」であった。これ程豊かな森に恵まれた島は、温帯地域ではめずらしいという。降水量に恵まれた風土は、森林の成育にとって好条件となった。この豊かな森の中で、その恩恵をたっぷりと受けて育まれたのが縄文文化であった。そして、現代に至る日本文化の基層には、豊かな森林という環境の中に1万数千年を生活し続けた縄文人の感性が脈々と受け継がれているのだ。
森は豊かな生態系を作る。多様な生物が森の中で、森に依存して生きる。縄文人は、沃土に支えられた多様な植生、そして多様な植生に支えられた多様な生き物とともに生きていた。豊かな大地と森には命を生み出す力があり、生み出されたすべての命には大いなる力が宿っている。人間の生命や力を超える力を持った無数の生命が、大地と森という大いなる生命から生まれてくる。そのような自然環境だからこそのアニミズムが生まれ、大地母神への信仰が生まれ、たくさんの神を信じる多神教が生まれたのである。
縄文文化の特色は、狩猟、漁労、採集を基本とする生活まら生まれたが、やがて定住し、中期からはヒエ、アワ、イモ類の栽培も始まる。晩期には稲作も始まっていた可能性が高い。
弥生時代になると本格的な稲作が受け入れられたが、羊や山羊などの肉食用の家畜は受け入れなかった。その理由のひとつとして考えられるのは、日本の稲作が、稲作漁撈文明である長江流域から直接に伝播した可能性が高いということである。長江文明も羊や山羊を持たない。もうひとつの理由として考えられるのは、森の民である縄文人が、森の若芽や樹皮を食べつくし、森を破壊する家畜を積極的に受け入れなかったのではないかということである。
ともあれ、弥生文化の流入は縄文文化を駆逐し去り、破壊し去ることがなかった。当時の、大陸から日本列島への渡航の困難さから考えても、一時に圧倒的多数の弥生人が渡来したことは考えにくく、少しずつ渡来した弥生人が先住の縄文人の文化の影響も受けながら徐々に融合していった可能性が高い。
一方で複数の研究者が、縄文晩期と弥生前期の稲作は同時に、パラレルに存在していたと指摘する。あるいは、縄文人が稲作において弥生人の影響を受けたとの推定もある。いずれにせよ日本人の特性は、縄文と弥生の二つの文化が結びついた「ハイブリッド民族」であり、森で育まれた平和で独創的な縄文文化と、稲作に象徴される保守性、協調性に優れた弥生文化が溶け合うことで生まれたといえよう。
日本の農耕の主流は水田の稲作であって、焼畑のように自然を食いつぶすものではなかった。ほとんどが低湿地の沖積平野、河口のデルタを利用しての水稲であった。大陸と違い、山地から短い距離を流れ下ってくる河は、よほど治水をしっかりしないとすぐに氾濫した。それゆえ昔から山々にはしっかりと木を植え、水源を確保し調整するための知恵と技術が生まれた。山岳信仰により乱伐がタブーとされた。日本人にとって国造りの基礎は木を植えることである。いや、国造り以前、有史以前から日本人は営々と木を植えてきたのだ。それは考古学的にも実証されることだという。
それでも大和朝廷による統一がなされると、森林破壊が始まった。天皇の死や政治不安のたびに、穢れを避けようと都が変えられた。頻繁な遷都により、膨大な樹木が消費された。大仏造りも森林の膨大な消費を伴った。戦乱による焼失で再建されれば、また森林が伐採された。江戸時代の再建では、近隣からの巨木入手が困難のため、遠路を山口県から運んだという。
しかし森林を破壊し尽くして文明そのものの消滅にまで至らなかったのは、日本が島国で、国土が荒廃して人が住めなくなったら、他に移動するところなどないということを知っていたからだろう。森がなければ日本は滅びるということを本能的に知っていたからだろう。もちろん水が豊富で砂漠化しにくいという自然条件にもよるところも大きいが、そのこと自体が日本人の生き方や信仰を根本のところで支える自然の恵みなのである。
日本人は、この島国の自然の恵み、森の豊かさが、自分たちの生活を、そして歴史と文化を支えてきたということを腹の底で分かっているところがある。だから奈良時代、室町時代、安土桃山時代、そして明治時代以降と、繰り返し外来文明が流れ込んできて、それを積極的に受け入れもしたが、日本の根幹をなす「森の文化」は、失われることなく保ち続けられたのではないだろうか。
《関連図書》
『森から生まれた日本の文明―共生の日本文明と寄生の中国文明 (アマゾン文庫)』
『対論 文明の風土を問う―泥の文明・稲作漁撈文明が地球を救う』
『砂の文明・石の文明・泥の文明 (PHP新書)』
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日本文化のユニークさを8項目に変更
これに従って、これまで書いてきたものを集約し、整理する作業を続けている。
今回から(6)「森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方、地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。」に関係する記事を集約して整理する。ただし、最初はこれまでアップした記事からではなく、新たな記事となる。
では始めよう。
日本列島は、縄文時代以来、豊かな自然に恵まれた「森の列島」であった。これ程豊かな森に恵まれた島は、温帯地域ではめずらしいという。降水量に恵まれた風土は、森林の成育にとって好条件となった。この豊かな森の中で、その恩恵をたっぷりと受けて育まれたのが縄文文化であった。そして、現代に至る日本文化の基層には、豊かな森林という環境の中に1万数千年を生活し続けた縄文人の感性が脈々と受け継がれているのだ。
森は豊かな生態系を作る。多様な生物が森の中で、森に依存して生きる。縄文人は、沃土に支えられた多様な植生、そして多様な植生に支えられた多様な生き物とともに生きていた。豊かな大地と森には命を生み出す力があり、生み出されたすべての命には大いなる力が宿っている。人間の生命や力を超える力を持った無数の生命が、大地と森という大いなる生命から生まれてくる。そのような自然環境だからこそのアニミズムが生まれ、大地母神への信仰が生まれ、たくさんの神を信じる多神教が生まれたのである。
縄文文化の特色は、狩猟、漁労、採集を基本とする生活まら生まれたが、やがて定住し、中期からはヒエ、アワ、イモ類の栽培も始まる。晩期には稲作も始まっていた可能性が高い。
弥生時代になると本格的な稲作が受け入れられたが、羊や山羊などの肉食用の家畜は受け入れなかった。その理由のひとつとして考えられるのは、日本の稲作が、稲作漁撈文明である長江流域から直接に伝播した可能性が高いということである。長江文明も羊や山羊を持たない。もうひとつの理由として考えられるのは、森の民である縄文人が、森の若芽や樹皮を食べつくし、森を破壊する家畜を積極的に受け入れなかったのではないかということである。
ともあれ、弥生文化の流入は縄文文化を駆逐し去り、破壊し去ることがなかった。当時の、大陸から日本列島への渡航の困難さから考えても、一時に圧倒的多数の弥生人が渡来したことは考えにくく、少しずつ渡来した弥生人が先住の縄文人の文化の影響も受けながら徐々に融合していった可能性が高い。
一方で複数の研究者が、縄文晩期と弥生前期の稲作は同時に、パラレルに存在していたと指摘する。あるいは、縄文人が稲作において弥生人の影響を受けたとの推定もある。いずれにせよ日本人の特性は、縄文と弥生の二つの文化が結びついた「ハイブリッド民族」であり、森で育まれた平和で独創的な縄文文化と、稲作に象徴される保守性、協調性に優れた弥生文化が溶け合うことで生まれたといえよう。
日本の農耕の主流は水田の稲作であって、焼畑のように自然を食いつぶすものではなかった。ほとんどが低湿地の沖積平野、河口のデルタを利用しての水稲であった。大陸と違い、山地から短い距離を流れ下ってくる河は、よほど治水をしっかりしないとすぐに氾濫した。それゆえ昔から山々にはしっかりと木を植え、水源を確保し調整するための知恵と技術が生まれた。山岳信仰により乱伐がタブーとされた。日本人にとって国造りの基礎は木を植えることである。いや、国造り以前、有史以前から日本人は営々と木を植えてきたのだ。それは考古学的にも実証されることだという。
それでも大和朝廷による統一がなされると、森林破壊が始まった。天皇の死や政治不安のたびに、穢れを避けようと都が変えられた。頻繁な遷都により、膨大な樹木が消費された。大仏造りも森林の膨大な消費を伴った。戦乱による焼失で再建されれば、また森林が伐採された。江戸時代の再建では、近隣からの巨木入手が困難のため、遠路を山口県から運んだという。
しかし森林を破壊し尽くして文明そのものの消滅にまで至らなかったのは、日本が島国で、国土が荒廃して人が住めなくなったら、他に移動するところなどないということを知っていたからだろう。森がなければ日本は滅びるということを本能的に知っていたからだろう。もちろん水が豊富で砂漠化しにくいという自然条件にもよるところも大きいが、そのこと自体が日本人の生き方や信仰を根本のところで支える自然の恵みなのである。
日本人は、この島国の自然の恵み、森の豊かさが、自分たちの生活を、そして歴史と文化を支えてきたということを腹の底で分かっているところがある。だから奈良時代、室町時代、安土桃山時代、そして明治時代以降と、繰り返し外来文明が流れ込んできて、それを積極的に受け入れもしたが、日本の根幹をなす「森の文化」は、失われることなく保ち続けられたのではないだろうか。
《関連図書》
『森から生まれた日本の文明―共生の日本文明と寄生の中国文明 (アマゾン文庫)』
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