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日本の長所と神道(2)

2014年02月02日 | 日本の長所
投稿が遅れたが、引き続き『本当はすごい神道 (宝島社新書)』に、私が挙げた「日本の長所11項目」(→「自覚すべき日本の良さ」参照)が引用されていたことをきっかけとし、「日本の長所と神道」というテーマで考えてみたい。その際、振返るのはやはり、このブログの柱になっている「日本文化のユニークさ8項目」である。その第一から第四までの項目は次のようなものであった。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

従来の多くの神道学者は、神道を弥生文化以降の農耕文化に根ざすと考えていた。これに対し何人かの研究者は、稲作、農耕以前の縄文時代から神道の母型があると主張してきた。私は、このブログで何度も縄文文化と弥生文化の融合ということを主張してきたので、当然後者の立場をとる。

1万数千年に及ぶ縄文時代は、本格的な農耕を伴わないにもかかわらず、複雑な文様を持つ土器、煮炊きに使う土器をもち、しかも、かなりの規模で定住するという、世界史的にも独自な位置づけをもつ時代であった。列島に住む人々が、その長い体験によって独自の文化や宗教心、世界観を培っていたのは確かなことだ。その体験が、神道に強く反映されていないと考えるのは不自然だ。

縄文時代から弥生時代への移り変わりは、大量の渡来人が一気に押し寄せてきて、日本列島を席巻してしまったわけではなかった。大陸から一度に渡来できる人数はごく限られたものだったろう。少しづつ渡来しては列島の風土に馴染んでいったであろう。日本文化のユニークさ8項目のうちの(4)の「大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族による侵略、強奪、虐殺な体験をもたず、また自文化が抹殺されることもたなかった」という事実は、縄文時代から弥生時代という日本という国の創成期にも当てはまるのである。

現代人に占める縄文系と渡来系の血の配分は、1対2ないしは1対3だとされ、大量の渡来人が流入してきたと信じられてきた。しかし、渡来人が北九州に稲作を根づかせ、少なからぬ縄文人も稲作を受け入れ、渡来人と混じり合っていったとすれば、どうか。狩猟採集民は自然環境とのバランスの中に生きざるを得ないので基本的に人口は増加しないが、稲作民の人口増加率はかなり高い。それが渡来系の血を圧倒的に多くしていった。しかし文化的には、縄文系の風俗、習慣、信仰心などに溶け込んでいったので、縄文文化は抹殺されず、むしろ生き生きと後の時代に受け継がれていくことになったのである。つまり、日本の歴史はその原初から、従来の文化を基盤としつつそこに新しい文化を取り入れ、自分たちに適した形に変えていくという、その後何度も繰り返えされる歴史の原型を作っていたのである。

こうした事情に加え、もう一つユニークな視点を紹介したい(『対論 文明の原理を問う』)。それは、日本列島に稲作を持ち込んだのは長江流域にいた稲作漁撈民だったのではないかということである。彼らは、4200年前に気候変動によって北方からやってきた畑作牧畜民に追われて、貴州省や南雲省の山岳地帯、さらには台湾や日本列島に逃げたという。もちろんこれは、日本文化のユニークさの3項目目、「ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した」に深く関係する。

長江文明の人々は太陽信仰をもっていたが、それは女神であった。中国の少数民族であるイ族やミャオ族も同様に、女神としての太陽を信仰する。これに対し漢民族の太陽神は炎帝であり、男性神だ。ギリシア神話のアポロンも男性神だ。つまり稲作漁撈民の太陽神は女神であり、畑作牧畜民の太陽神は男神である。もちろん日本でも太陽神はアマテラスであり、女神だ。

さらに稲作漁猟民にとっては、山も崇拝の対象であった。 長江の人々も山を大切にしていた。なぜなら稲作に必要な水は、山から川となって流れてくるからだ。川の源流がある山は、最も聖なるものだった。しかも山は、天と地をつなぐ架け橋であり、梯子だった。日本の会津磐梯山も天と地をつなぐ磐の梯子ということだろう。天と地が結ばれることによって豊饒の雨がもたらされる。それは、天地を結合し豊饒をもたらす聖なる柱という考え方と結びつく。伊勢神宮には心御柱があり、熱田神宮には五柱があり、諏訪大社にも御柱がある。

縄文人にとっても山は、その下にあるすべての命を育む源として強烈な信仰の対象であっただろう。山は生命そのものであったが、その生命力においてしばしば重ね合わされたイメージがおそらく大蛇、オロチであった。ヤマタノオロチも、体表にヒノキや杉が茂るなど山のイメージと重ね合わせられる。オロチそのものが峰神の意味をもつという。蛇体信仰はやがて巨木信仰へと移行する。山という大生命体が一本の樹木へと凝縮される。山の巨木(オロチの化身)を切り、麓に突き立て、オロチの生命力を周囲に注ぐ。蛇は再生と循環の象徴でもある。そのような巨木信仰を残すのが諏訪神社の御柱祭ではないか。

つまり日本列島に稲作を伝えた人々は、もともと日本列島に住んでいた人々とよく似た生命観・世界観をもっていた。それゆえ縄文人の文化や宗教心は、弥生人のそれと自ずと融合していくことができたのではないか。縄文人の心性を大きく三つに整理すれば次のようになるだろう。 第一に、豊かな自然の中で育まれた、自然への畏敬を基盤とする宗教的な心性。第二に、豊かな自然の恵みを母なる自然の恵みとみなす母性原理の心性。第三に、農耕の発達にともなう階級の形成や、巨大権力による統治を知らない平等で平和な社会が1万数千年も続いたことから来る強い平等意識である。このうち、第一と第二の心性が、弥生人が携えてきたものとかなり響きあうものだったのだ。

縄文人の遺跡には、貝塚などの遺跡と並んで石群や木柱群がある。以前に触れたように、石群と木柱群は「先祖の祭祀」と「太陽の観測」という二つの機能をもつと思われる。縄文人は、太陽と先祖の二つを拝んでいた。そして竪穴住居で大切に守られた火は、太陽の子であった。ところで太陽と先祖とはどのように結びつくのか。縄文人は、氏族の先祖を遡ったおおもとに元母のイメージをもっていただろう。その元母と太陽の両方の性格をそなえていたのは、女性神アマテラスである。元母の根源にアマテラスを見ると、先祖信仰と太陽信仰は完全につながるというのである。つまり縄文人の宗教心は、母系社会の先祖信仰と「母なる自然」への信仰、その大元としての太陽信仰とが結びついていたのではないか。

以上で見てきたように、自然への畏敬、再生と循環の生命観、太陽信仰、山岳信仰、先祖への尊崇の念などは、この日本列島に縄文時代から培われてきたと同時に、大陸から渡来したもかなり共通した世界観をもっていた。それゆえにそれらは融合し、縄文人の心は現代日本人の心にまで受け継がれることになった。

神道は「宗教」であると認識することが困難なくらいに、日本人の価値観や文化、習慣に溶け込んでいる。その源流を探れば、遠く1万年以上前から、縄文人がこの日本列島で培ってきた「宗教心」に至りつくのだ。

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日本文化のユニークさ34:縄文の蛇信仰(3)

日本文化のユニークさ35:寄生文明と共生文明(1)

日本文化のユニークさ36:母性原理と父性原理


《関連図書》
文明の環境史観 (中公叢書)
対論 文明の原理を問う
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)
環境考古学事始―日本列島2万年の自然環境史 (洋泉社MC新書)
蛇と十字架

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