駿河湾で大発見! ニッポンとアメリカスカップの親密な関係。

2011年08月29日 | 風の旅人日乗
この日曜日、友人に誘われて、
深い考えなしに、何の気なしに
沼津のヨットに乗りに行ったら、
そのヨットは、
マグニチュード8クラスの地震だったという
安政の地震によって発生した、
下田をほとんど全滅させるような大津波に端を発する、
日本人の手による西洋型帆走艇誕生のエピソード
にまでさかのぼることが出来る、
とんでもないヨットだったことを知って
驚いたの何の!
そうして、
さらによく考えると、
それはアメリカスカップにも繋がる(かもしれない)
ヨットだった!

というお話を、以下にさせてください。



そのヨットは、君沢(くんたく)型
と呼ばれる和洋折衷のスクーナーで、
その君沢型のヨットは、戸田(へだ)号
という100トンのスクーナーを祖とする、
というお話を、
そのヨットのキャプテンから聞いたことから
この日の驚きの連鎖の、はじまり、はじまり。

まずは、沼津にある重要文化財・江川邸の
サイトより抜粋した文章に、
日曜日にお聞きしたお話を少し書き加えて、以下に。

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 安政元年(1854)11月4日から5日にかけて、
東海から近畿・四国・九州の広い範囲を
マグニチュード8クラスの大地震が襲いました。

安政の地震と呼ばれるこの地震によって、
家屋の倒壊や火災による焼失は数万棟におよんだといいます。
また、太平洋沿岸地域には
津波による甚大な被害がでました。
地震による死者は数千人にものぼったと推定されています。

 津波は伊豆半島にも大きな被害をもたらしました。
特に半島南端にある下田は壊滅的な打撃を受け、
全戸数の90%以上を流失した上、
85人もの死者を出す惨事となりました。

下田では、折しもロシア使節プチャーチンが
日露通好条約締結に向けて交渉をしている最中でした。
プチャーチンの乗艦ディアナ号も
津波のため船底を破損してしまいます。

(中略) 
座礁したディアナ号は
西伊豆の戸田(へだ・現沼津市)に回航して
修理することとなりました。

ところが、下田から戸田に向かったディアナ号は、
予想外の悪天候のため戸田に入港することができず、
そのまま駿河国富士郡宮島村(現富士市)沖まで流されて
座礁してしまったのです。

結局、ロシア人乗組員およそ400人は救助されましたが、
ディアナ号自体はあきらめざるを得ませんでした。

(中略)
 そこで、戸田において
ディアナ号の代船を建造することになりました。
とはいえ、
200トンクラスのディアナ号と同等の洋式船を
建造することのできる設備は戸田にはなく、
かつ代船引き渡しまで100日
という期限が決められていたことから、
それよりも小型の
100トンクラスの洋式船を建造することになりました。

ロシア人乗組員によって設計された代船は、
(注・ワタクシがキャプテンから聞いたお話は、
ここの部分が違っていて、
ディアナ号に積んであった、当時欧州で人気だった
100トンクラスのスクーナーの設計図を元にして
造ったそうです。
以下、こちらの説を我田引水で採用させていただいて
話を進めます。)
2本マストのスクーナーで、
日本で建造された初めての本格的な西洋式帆船となりました。

建造にあたったのは、
戸田村および周辺各地から集められた船大工たちでした。

 安政2年3月、竣工した船は「戸田(へだ)号」と名付けられ、
ロシア側に引き渡されました。

プチャーチン以下47名がこの戸田号に乗って帰国、
残りの乗組員は幕府の手配したアメリカ商船によって
ロシアに戻っていきました。

後日、ロシア政府は日本の対応に感謝の意を込めて、
戸田号に52門の大砲を載せて返還してきたということです。

 なお、戸田号建造にあたった人々によって、
その後も同型の西洋式帆船が建造されています。
これらの船は、建造地の郡名をとって
「君沢型(注・地名はきみさわ郡だけど、くんたく型)」
と呼ばれるようになりました。

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黒船来航(1853年)の翌年に、
今回の東日本大震災に匹敵する地震と津波が
東海から近畿・四国・九州の広い範囲を
襲っていたとは。

そのときもしすでに静岡県浜岡に原発群があったら、
福島第1原発をさらに超える規模の
大変な事態が出来(しゅったい)していたことだろう。
わずか150年前に起きたことを「想定」に入れない「想定」って、
一体何なんだろう?

さ、話を戻して、
ここでワタクシが感慨にふけったことは、
日本の船大工が洋式の帆掛け舟を初めて造るという、
新しい文化導入へと足を踏み出すキッカケが、
大地震と大津波だったこと。

それと、
黒船来航の翌年にはもうすでに、日本の船大工が
竜骨のある西洋型の帆船を造っていたのだ、ということ。
なんという文化伝播のスピード感。

それともうひとつ、
100トンの木造船をわずか100日で完成させたということ。
現在であっても、欧米の造船所ですら不可能な
木造艇造船能力だ。
日本の船造り文化は、江戸時代からすでに
相当なレベルにあったことが分かる。

沼津に流れ込む狩野川の「狩野」は
日本書紀に出てくる日本初の船の名前「かるの」「かの」
と繋がっているという解釈もあるくらいなので、
1854年当時、沼津の狩野川流域には、
名うての船大工がそろっていたこともあるのだろう。

ところでね、
1851年のロンドン万博記念レースで優勝したアメリカ号は、
170トンのスクーナー。
そうして、
1854年に当時ヨーロッパで人気だったというデザインの
100トン・クラスのスクーナーを元に日本で造られたのが
後に君沢型と呼ばれるようになった和洋折衷の戸田号。

ただの万博記念ヨットレースの優勝カップだったカップは
優勝したアメリカ号のカップ、アメリカスカップと呼ばれるようになって
現在までその争奪戦が続いているわけだけど
そのこととは別に、
スクーナーであるアメリカ号の圧倒的なスピード性能は、
ヨーロッパ諸国の造船界では、とてもセンセーショナルな
話題になったと言われているから
そのカタチが、その当時の欧米の造船界で
人気を博しただろうことは想像に難くない。

君沢型の戸田号は、
繰り返すけど、
1854年当時、欧米で人気を博していたカタチの
スクーナーの図面を元に造られた。

ねえ、ねえ、
これって、もしかして
日本人が初めて建造した洋式帆船は、
あのアメリカ号に酷似していた、
ってことじゃないの?

ねえ、ねえ!
これってつまり、
日本人とアメリカズカップって、
その発端の頃から深いつながりがあった、
ってことじゃないの?

こういうの、我田引水って言うのかもしれませんが、
こと日本の海洋文化とか、アメリカスカップ関係については
これまでも、そういう態度を貫かせていただいていますし、
これからも、そうさせていただきます。

ついでだから、もうひと我田引水させていただくと、
戸田で戸田号の建造が始まった1854年は、
現在のアメリカズカップレース運営の大パトロンのひとつである
ルイヴィトンの創業者、ルイ・ヴィトンさんが、
パリで注文生産のかばん屋さんを開業した年でもある。
うーむ。さすがにあんまり関係ないかな。

来月9月は、
仕事で、そのパリからTGVで数時間のところにある
フランスのとある造船所にどっぷりと滞在する予定です。
そのフランスから、
仕事の合間を縫って
第34回アメリカズカップ2011ワールドシリーズ第2戦
が開催されている英国ポーツマスに足を伸ばしてきます。

日本がユースアメリカズカップに出るのに
AC45を安くチャーターできないか、関係者に交渉して
可能性を探ってくるのが目的。
チャーターであれば、こういう辛い経済時期の日本にも
出場のチャンスがあると考えるのです。





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