1995年1月17日の早朝、まさに叩き起こされた朝でした。自分がどこにいるのか、何が起こったのか一瞬夢中劇をみているようなパニック状態だったと想像します。この年の3月、ぼくは神戸に戻る予定にしていました。神の知らせでしょうか。思いとどまるようにお命じになったのでしょうか。通信の通じない中で、不安な数日を過ごした事を昨日のうように浮かんできます。
やっと両親や家族の無事をしったものの、翌月の2月17日母は病院の中で83歳の生涯を終えました。病気がちでわがままでいつも文句をいって困らせていたぼくを見つめて、時には涙を浮かべながら悲しい表情をみせていました。息子の病気が自分のせいだと思わんばかりに。こうして書いていても悔やみの涙が出てきます。悲しい別れでした。
あれから15年、何度か行った神戸もすっかり復興した姿を見せています。相変わらず六甲の稜線は美しく、見下ろす港は活気があって元気のように見えます。しかし多くの人々の心の中の悼みや悲しみや辛さは消え去る事はありません。
もしかして自分が慰霊塔の中にいたかもしれない。それを命を失った家族や友人が身代ってくれているのかと思うと、悲しみは深くしますが、そうして他者のために祈ると言う最も崇高な姿勢の中に人の優しさが息づいているように思えます。”私はあの日の神戸を忘れない”
やさしいタイガー
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