私はこの3年の間に、4回の手術を受けるという経験をした。若い時代での手術を含めると5回ということになる。手術のたびに麻酔から覚めた瞬間、生きている!との実感をしたものだ。ことに加齢とともに、生きることの味わい深さを感じるのだ。久しぶりに外の空気を吸い、陽光を浴び、自分の足で歩くとき、周囲の光景に変化があることに気づく。今まであった建物は壊されていて、それがどんな建物だったかさえ思い出せないのである。
だが、そんな変化よりも自分の身体的減退を気にすることが多い。目の前にした乗り物にたどり着けないもどかしさ、乗ってもわがもの顔で座ってスマホをいじる若者が席を譲ろうとしない傍若無人さ、エレベーターはどこか探す気弱さに愕然とするのだ。 みじめったらしい自分に気づき、ふと周りの人の動きをみていると、自分よりもっと辛そうな姿を見てしまう。まだまだ自分はよいほうだと言い聞かせながら動こうと叱咤するのである。
そんな自分を励ましてくれるのが仲間と絵を描く時間だ。友人と水彩の会を作ってもう5年にもなる。病に襲われた後もこの会があるから前に向かうことができているのだと思う。始めた時、絵筆を振るうことで精神が集中するのだ。つまり一所懸命になっていく。しかし、仲間と出会い、共ににつつがない姿に接するとき、生きるという営みと重なり、一生懸命に変わっていく。今では楽しみである以上に生きる糧になっていることに深い感謝を覚えるのだ。
世の中には一生懸命何かに取り組む人が多い。その行為が正しいか間違っているかは別にして、自分の価値や力を出し切ろうとする人の姿は、どこか光るものがある。その光は自分にも木漏れ日のように映し出してくれるような気がする。これもまた生きるよすがになっている。人はどんな情況にあっても生きようとする姿こそ、大切なことだと今日も感じたのである。
この日、大阪都構想の住民投票の結果、反対層が多数を占めて構想は消えた。さぞ住民は一生懸命考えたことだろう。沖縄の辺野古湾に米軍基地を建設することに反対する集会があった。沖縄の現実に向き合う人々は一生懸命取り組んでいる。こういう人々の姿を自分にもしっかり心に刻んでおきたいと思う一日だった。
やさしいタイガー
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