一昨日、ひょんなことから入手した豆本『桜博士 笹部翁』(発行・豆本”灯“の会・1980年6月19日)のことをもう少し詳しく書いておこう。

掌に入る小さな豆本だが、その内容に驚いた。
昨日スキャンを紹介したが、文章、起こしておきましょう。
「笹部さんの長話」と題した、池津勇太郎氏の文章の一部です。
《フトしたときに、笹部さんが日本のサクラ番付を作り、吉野なんか駄目だとキメつけたうえ、兵庫県の但馬の立雲狭という山を番付の大関の地位に取り上げたことがある。そしてその立雲狭というのが、私の父がその生命をかけて開拓した名所であったことから、私は急に笹部さんとの近親感を深めたのである。
立雲狭はもとから但馬吉野といわれたサクラの名所朝来山の一帯にあるが、朝来山のサクラがほんの一部だったのを、何倍かに開拓して、沢山の巨木を掘り起こしたり、巨岩を発見したりして、新しい名所立雲狭を作ったのが、その土地に生まれた私の父なのである。「生命をかけて」というのは、この朝来山には木花咲耶姫が祭られており、「山を開くと祟られる」という伝説があった。父はそれを知り「たたるなら俺にたたれ」と言って、何百人かの人夫を入れて開拓したが、立雲狭の開山した年、不治の病、食道癌に倒れた。やはり「たたったね」というのが郷里の人々の噂であった。
笹部さんはそういういきさつは知らずただ立雲狭のサクラを見て大関の番付を作ったわけだが私からその話を聞いて特に関心を持ち、立雲狭の保存について関係者に話をしたり、サクラの苗木を数百本も寄付してくれたりした。
残念ながらわが故郷の人たちは、毎年何十万人という人がサクラ見物に来るにもかかわらず、この町に落とす金が殆どないという恩恵の無さから始めにかけた期待を裏切られ、立雲狭そのものの保存と育成を忘れてしまった。そしてすでに寿命が来ている巨木の倒れるに委せ、その後継樹を作ることに努力せず、いまや折角の名所も昔の残骸を残すような、淋れ方をしているのは亡き父のみならず笹部さんもさだめし不本意であるに違いないと思う。》
この記事を読んでわたしは、「今どうなってるのだろ?」と気になって、丁度桜の時期でもあり、すぐさま出かけたのでした。
出かけるにあたって、竹田城ガイドをしている従妹にメールで道路状況など尋ねた。すると「今は道路も二車線に整備されてます。だけど今日、4月1日から一人200円入山料が要ります」などの情報をもらって出かけました。
その結果、昨日記したように、想像していたのとは大いにちがって素晴らしい桜の山でした。
現地で、この立雲狭の世話人のお一人(太田垣さんではない人)とお話しさせていただいたのだが、立雲狭の歴史を詳しく知る人ではなかった。しかし、「昔は出店も出たりしてにぎわった時代があったらしい」という話をされた。そして、最近、竹田城跡がブームになってまたこのように、とのこと。
笹部さんがここを指導されたころには、ササベザクラはまだ出現していなかったのだろう。あるいは、ここに寄付するほど育成が間に合っていなかったか。だから、他の山桜の苗を植えたということだろう。
見ると、新しい苗木がたくさん植えられていた。地元の小学生が「二分の一成人式」の記念に植樹しているものだった。鹿などに傷められないように網で囲ってある。
但し、サクラの名前などを記した札はなかった。できればササベザクラを植えて頂き、その解説版を添えて頂きたい。笹部さんや、この池津勇太郎さんの父親のことも地元で掘り起こしてアピールして頂きたいものです。
それから文中に「巨岩を発見したりして」とあるが、たしかに庭石にしたらいいような、素晴らしい岩が無数に配されていた。
昨日、従妹が竹田城のガイドをしていると書きましたが、彼女からは毎年竹田城跡のカレンダーを送ってもらって、「喫茶店」に飾っています。
そのうちの3,4月と5,6月を。

追記もう一点 この本『桜博士 笹部翁』の発行所は豆本”灯“の会となっているが、主催者は仙賀松雄氏だったはず。
仙賀氏は但馬の新井の奥、神子畑(みこばた)だったと宮崎修二朗翁からお聞きしている。ということでここでもなにか縁を感じます。
神子畑には昔、明延鉱山から出る鉱石を選鉱した選鉱所があって、その遺構が今珍しがられているとのこと。私は昔、子どものころ稼働している時に見学したことがありました。すぐ近くの集落、「山本」が父親の実家だった関係で。
http://mikobata.com/

掌に入る小さな豆本だが、その内容に驚いた。
昨日スキャンを紹介したが、文章、起こしておきましょう。
「笹部さんの長話」と題した、池津勇太郎氏の文章の一部です。
《フトしたときに、笹部さんが日本のサクラ番付を作り、吉野なんか駄目だとキメつけたうえ、兵庫県の但馬の立雲狭という山を番付の大関の地位に取り上げたことがある。そしてその立雲狭というのが、私の父がその生命をかけて開拓した名所であったことから、私は急に笹部さんとの近親感を深めたのである。
立雲狭はもとから但馬吉野といわれたサクラの名所朝来山の一帯にあるが、朝来山のサクラがほんの一部だったのを、何倍かに開拓して、沢山の巨木を掘り起こしたり、巨岩を発見したりして、新しい名所立雲狭を作ったのが、その土地に生まれた私の父なのである。「生命をかけて」というのは、この朝来山には木花咲耶姫が祭られており、「山を開くと祟られる」という伝説があった。父はそれを知り「たたるなら俺にたたれ」と言って、何百人かの人夫を入れて開拓したが、立雲狭の開山した年、不治の病、食道癌に倒れた。やはり「たたったね」というのが郷里の人々の噂であった。
笹部さんはそういういきさつは知らずただ立雲狭のサクラを見て大関の番付を作ったわけだが私からその話を聞いて特に関心を持ち、立雲狭の保存について関係者に話をしたり、サクラの苗木を数百本も寄付してくれたりした。
残念ながらわが故郷の人たちは、毎年何十万人という人がサクラ見物に来るにもかかわらず、この町に落とす金が殆どないという恩恵の無さから始めにかけた期待を裏切られ、立雲狭そのものの保存と育成を忘れてしまった。そしてすでに寿命が来ている巨木の倒れるに委せ、その後継樹を作ることに努力せず、いまや折角の名所も昔の残骸を残すような、淋れ方をしているのは亡き父のみならず笹部さんもさだめし不本意であるに違いないと思う。》
この記事を読んでわたしは、「今どうなってるのだろ?」と気になって、丁度桜の時期でもあり、すぐさま出かけたのでした。
出かけるにあたって、竹田城ガイドをしている従妹にメールで道路状況など尋ねた。すると「今は道路も二車線に整備されてます。だけど今日、4月1日から一人200円入山料が要ります」などの情報をもらって出かけました。
その結果、昨日記したように、想像していたのとは大いにちがって素晴らしい桜の山でした。
現地で、この立雲狭の世話人のお一人(太田垣さんではない人)とお話しさせていただいたのだが、立雲狭の歴史を詳しく知る人ではなかった。しかし、「昔は出店も出たりしてにぎわった時代があったらしい」という話をされた。そして、最近、竹田城跡がブームになってまたこのように、とのこと。
笹部さんがここを指導されたころには、ササベザクラはまだ出現していなかったのだろう。あるいは、ここに寄付するほど育成が間に合っていなかったか。だから、他の山桜の苗を植えたということだろう。
見ると、新しい苗木がたくさん植えられていた。地元の小学生が「二分の一成人式」の記念に植樹しているものだった。鹿などに傷められないように網で囲ってある。

それから文中に「巨岩を発見したりして」とあるが、たしかに庭石にしたらいいような、素晴らしい岩が無数に配されていた。

昨日、従妹が竹田城のガイドをしていると書きましたが、彼女からは毎年竹田城跡のカレンダーを送ってもらって、「喫茶店」に飾っています。
そのうちの3,4月と5,6月を。


追記もう一点 この本『桜博士 笹部翁』の発行所は豆本”灯“の会となっているが、主催者は仙賀松雄氏だったはず。
仙賀氏は但馬の新井の奥、神子畑(みこばた)だったと宮崎修二朗翁からお聞きしている。ということでここでもなにか縁を感じます。
神子畑には昔、明延鉱山から出る鉱石を選鉱した選鉱所があって、その遺構が今珍しがられているとのこと。私は昔、子どものころ稼働している時に見学したことがありました。すぐ近くの集落、「山本」が父親の実家だった関係で。
http://mikobata.com/