御託専科

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倉橋由美子「シュンポシオン」

2009-10-25 09:51:06 | 書評
「夢の浮橋」に登場する桂子さんの孫聡子と、耕一の息子であり哲学者の明さんを軸に、桂子さん、桂子さんと愛人関係にある元首相にして大変な教養人入江さん、明さんの妹とその夫の生物学者夫妻、明さんの前妻(死去)の妹のかおりさんたちが、恐らく伊豆方面の旅館(実は入江さんの持ち物)を舞台として繰り広げる知的にして高級な夏の宴。物語の中心軸には明さんと聡子さんが結ばれることになるという筋があるがそれ以上に絢爛豪華な古典から現代への知識教養の引用や披露、またそれらを決して衒学的に晒さない品の良さ、曖昧な会話を曖昧なレベルのまま終わらせるデリケートな神経の届き方などに全く感心する。聡子さんに擬すべき女性が知りあいにいるため、とても感情移入が出来た。残念ながら小生は自分を明さんに疑せるほどあつかましくはないが。。。
ただ、ちょっと面白かったのは、一夏のシュンポシオンが終わりに近づき皆が帰る算段を始めたあたりから会話の内容はまだ高踏的であるのにトーンが少し普通になって普通の宴会っぽくなっていることである。夢は夢、ということか。

書かれたのは1985年である。1975年作の「夢の浮橋」と比較すると性的な要素はかなり落ち着いている。決して後退してはいないが、絢爛豪華なコミュニケーションの一部を為すものとして、「あったほうがいいけどなくてもかまわない、香り・ほのめかしでもよい」より軽やかなものへと位置づけられていると思われた。著者自身の18世紀的ロココ的な成熟への進展を示しているのだろう。

なお、想定されている時代は2010年前あたりの、まさに今ぐらい。情報機器の発展は想定されていて情報を端末で自在に取り出せるぐらいのところまでは取り入れられているが、さすがにインターネットやそれによる大衆コミュニケーションの激変は算段に入れられていない。夢の浮橋でも出てきたが今回も出てきた「階級論」だとか、マスコミを通じた世論操作じみた話はさすがにリアリティーがないな。現実は、入江さんのような高級な人間が政治に足を踏み入れることが出来なくなった時代である。大衆化し、俗化した時代である。そして教養の社会的パワーが大いに衰退してしまった時代である。この本にもよく出てくる漢詩なんぞはとこかへ飛んで行ってしまった。竹内洋さんのいう「教養主義の終焉」である。

ではシュンポシオンは不可能か? いや、そんなことはないだろう。ただし、シュンポシオンを成立させるような人々が社会的にメジャーなポジションをとることはおそらくかなり難しくなっている(前から難しかったがさらに難しくなっている)。教養の高い思考についてゆきそれにつき語るような才能よりも、大衆に訴えかける弁舌のさわやかさが大事な時代である。なぜ? それは世の中がフラットになったからだ。かつてのような階級的選別プロセスで集団が高度化されることは、入試競争を除きほぼ皆無といっていいだろう。

まあそんなことがこの小説の価値を下げるわけではないが。でも、ここにえがかれている世界は、鎌倉武士に圧倒された平家あるいは平安文化の弱みのようなものとともに存在していると言っていいだろう。

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