御託専科

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橋本努「自由に生きるとはどういうことか」

2008-02-12 23:05:28 | 書評
のっけから恐縮だが、この題名は適切でない。時代ごとの「自由」というよりも「精神的理想」の推移を語って非常に面白かった。

①戦後:エログロナンセンスの氾濫とその反動としてのパブリックスクールの理想化
②-60:ロビンソンクルーソーを理想とするリベラル型個人

実はこの辺まではそれほど面白くない。所詮小泉信三だの大塚久雄などインテリが語っていることの考証であり、どれほど時代をリードしたかがよくわからない。

③60後半:あしたのジョーの「真っ白な灰燃え尽きる」精神。

これは見事だった。僕が長年持ってきた全共闘世代への疑問がすっきり解消したような気がする。もう他の人が論じているのかもしれないが、この世代の若者には好い子として振舞ってきた自分を否定しつくしたい、燃え尽きて溶解したい志向があったそうな。そうかそうかとうなづいた次第。
ところでたくろうの「人生を語らず」を思い出し調べたら74年に出ていて少しあと。それにしても歌詞のすばらしいこと!

④70-80:この支配から卒業せよ。フーコー的閉塞からの脱出

これはいまいち。というか、中心題材に取り上げた尾崎豊が、どうしてもたくろうと比較してけち臭く小物で悲しげに見えてしまった。学校のカラスを割るだのバイクを盗むだのそんなことしかできなくて閉塞感を歌うとはどう言う了見だ?さっさと家出でもして土方でもやれよ、といいたくなるね、ごたごた言ってないで。これが受けた時代というのはどうにか理解したい気もするが。まあ、わかるけどね、そのくらいのけちなことしかできないで閉塞を歌うへなちょこさが「私と一緒!」と共感を呼んだのだ。いま受けてる便益を損なってまでその閉塞を破る程の勇気もない、サラリーマンの居酒屋での愚痴と変わりはない。同じ勇なき心情が共鳴したんだよ。

⑤90年代:オウムとエバンゲリオン - グノーシスの願望とその拒否 -

この章はエヴァを僕が知らないこともあり難解であった。90年代はオウムとエヴァによる宗教的終末感が支配した。そしてそこにあったのは死(=滅亡)と魂の救済を願う、たとえば一億総玉砕のような、グノーシス的願望であった。 しかしその願望はエヴァの中では最終的には否定され、シンジは「自由主義者」としてつらく散文的な現実をあゆむ、ということのようだ。

⑥そして現代:創造性を手がかりに

率直に言ってこの章は未消化だと思う。橋本さんのゼミに行って終章を共同で書いて見たいね。

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