なんだかこの人とはものの見方といいひねくれ方といい恐ろしくよく似た方向性を感じる。で、この人が博覧強記の人だから、意見が一致したら自分の大雑把な考え方も正しいことが検証されたような安心感が得られる、というとてもいい気持ちの読書になる。
そういう快哉を叫ぶのはあんまり良くない、なんて昔はいい子ぶって思っていたが、いまやそんなことはない。先が短いんだから(笑)。
さて、表題の「こころ」。いや全く同意するね。三四郎からそれからから門からこころ、どれもいじいじとした駄作だと思うね。我輩や坊ちゃんの方がよっぽどいいような。
このブログでも書いているがドストエフスキーに関する意見も同感。「いったい、「大審問官」なんて、キリスト教徒でない人が読んでなんの意味があるんだろう」はまさに我が意を得たりである。このブログにもそんなことを書いた。筆者はまた、カラマーゾフも含め「哲学は哲学として小説の外でやれ」っていっているがこれもそのとおりだな。
フィッツジェラルド。ギャッピーについて、筋も不自然だし「単にジャズ時代などというとノスタルジーを感じる、村上春樹を含む全共闘世代が持ち上げてるに過ぎないのではないか」とぼろくそ。ま、賛成だけどね。ありゃつまらん小説だよ。
永井荷風。親の金で暮らせるボンボンが洋行から帰って東京が江戸が失われてゆくのを嘆くというのは、田舎ものが都会に出て田舎に帰って変貌ぶりを嘆くが如く品のないこと、と石川啄木が怒ったそうだが、全く同感。この人にはそんな資格はない。自分の金を何人かの女郎の解放に使えたはずだ。
そのほか森鴎外、スタンダール、トーマスマン、ワイルド、フォークナー、ヘミングウェイ、テネシー・ウィリアムズ、ダンテ、近松、井原、上田秋声、樋口、志賀、芥川、三島が「疑わしい」範疇に入っていた。
三島はなるほどだね。ブログをみたら金閣寺については「できのいい時事テーマ小説以上のものじゃあないんじゃなかろうか。」と自分でも言っている。その後あれこれ読んでも、「美文はわかるがストーリーはねえ」てな物言いが多いね、自分でも。
一方で読むべき本の筆頭に源氏、シェイクスピア、ホメロス、ギリシャ悲劇、日本のトップレベルに八犬伝、泉鏡花の草迷宮 歌行燈、川端康成、谷崎の細雪と吉野葛 が挙げられている。
なお、面白かったのはあとがき。つい最近僕が批判した水村美苗氏の「日本語が亡びるとき」が、筆致はやわらかいが違う角度から強く批判されていた。要は高等文学のための日本語がどうのこうのといったところで、昔々からエリートは実学を志していたものであり、「文学」などという物を好むのはごく一部でしかない。アカデミックの中でだけ暮らし東大教授の旦那をもち、大学で教えることもなくたまにものを書いてちやほやされている人にはそういうことが見えてない、ということだそうな。さらに、その批判の中で「国語教育というのは、論理的で正確な日本語の読み書きと古典文法に限定すべきで、文学教育はすべきでない」といっているのは僕の考えと全く一致する(別の機会に書いた「国語と日本語」参照)。ほんと、なんだがえらく意見が一致する。僕がラディカルなまま生きていたらこの人みたいになってたんだろうなあ、としみじみ思うね。
そういう快哉を叫ぶのはあんまり良くない、なんて昔はいい子ぶって思っていたが、いまやそんなことはない。先が短いんだから(笑)。
さて、表題の「こころ」。いや全く同意するね。三四郎からそれからから門からこころ、どれもいじいじとした駄作だと思うね。我輩や坊ちゃんの方がよっぽどいいような。
このブログでも書いているがドストエフスキーに関する意見も同感。「いったい、「大審問官」なんて、キリスト教徒でない人が読んでなんの意味があるんだろう」はまさに我が意を得たりである。このブログにもそんなことを書いた。筆者はまた、カラマーゾフも含め「哲学は哲学として小説の外でやれ」っていっているがこれもそのとおりだな。
フィッツジェラルド。ギャッピーについて、筋も不自然だし「単にジャズ時代などというとノスタルジーを感じる、村上春樹を含む全共闘世代が持ち上げてるに過ぎないのではないか」とぼろくそ。ま、賛成だけどね。ありゃつまらん小説だよ。
永井荷風。親の金で暮らせるボンボンが洋行から帰って東京が江戸が失われてゆくのを嘆くというのは、田舎ものが都会に出て田舎に帰って変貌ぶりを嘆くが如く品のないこと、と石川啄木が怒ったそうだが、全く同感。この人にはそんな資格はない。自分の金を何人かの女郎の解放に使えたはずだ。
そのほか森鴎外、スタンダール、トーマスマン、ワイルド、フォークナー、ヘミングウェイ、テネシー・ウィリアムズ、ダンテ、近松、井原、上田秋声、樋口、志賀、芥川、三島が「疑わしい」範疇に入っていた。
三島はなるほどだね。ブログをみたら金閣寺については「できのいい時事テーマ小説以上のものじゃあないんじゃなかろうか。」と自分でも言っている。その後あれこれ読んでも、「美文はわかるがストーリーはねえ」てな物言いが多いね、自分でも。
一方で読むべき本の筆頭に源氏、シェイクスピア、ホメロス、ギリシャ悲劇、日本のトップレベルに八犬伝、泉鏡花の草迷宮 歌行燈、川端康成、谷崎の細雪と吉野葛 が挙げられている。
なお、面白かったのはあとがき。つい最近僕が批判した水村美苗氏の「日本語が亡びるとき」が、筆致はやわらかいが違う角度から強く批判されていた。要は高等文学のための日本語がどうのこうのといったところで、昔々からエリートは実学を志していたものであり、「文学」などという物を好むのはごく一部でしかない。アカデミックの中でだけ暮らし東大教授の旦那をもち、大学で教えることもなくたまにものを書いてちやほやされている人にはそういうことが見えてない、ということだそうな。さらに、その批判の中で「国語教育というのは、論理的で正確な日本語の読み書きと古典文法に限定すべきで、文学教育はすべきでない」といっているのは僕の考えと全く一致する(別の機会に書いた「国語と日本語」参照)。ほんと、なんだがえらく意見が一致する。僕がラディカルなまま生きていたらこの人みたいになってたんだろうなあ、としみじみ思うね。
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