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チョイさんの沖縄日記

辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録
 

講演会「陸軍中野学校と沖縄戦」

2010年08月28日 | 沖縄日記・沖縄の戦跡

             (夕食その① うりずん豆のテンプラ)

 28日(土)の午後は、沖縄市で開かれた反住基ネット沖縄の学習会「陸軍中野学校と沖縄戦」へ。

 当時、沖縄北部や八重山などの離島には、陸軍中野学校出者が42名配置され、山中のゲリラ戦を担う遊撃隊(護郷隊)、住民監視なとを行う離島残置諜者などに別れて活動していたという。
 護郷隊は、北部の14歳から19歳の少年ら約800名によって組織され、武器も食糧もないまま、ふるさとの山河を守れとゲリラ戦を強いられた。
 集会には当時の体験者だったお年寄りたちも大勢参加されており、生々しい話が次々とでてきて興味深かった。
 集会の最後に、あるお年寄りが立って、護郷隊の隊歌をまだ覚えているといって唄い始めた。これは、陸軍中野学校の校歌と同じ曲だという。そして、護郷隊の隊歌の3番は、中野学校の校歌の1番をそのままもってきている。そのことから、護郷隊が中野学校の関係者によって組織されたことが分かったらしい。
 
 ところが、聞いていて驚いたことに、我々が山岳部時代に唄っていた蒙古放浪の歌の曲と全く同じなのだ。帰ってインターネットで調べてみると、やはり蒙古放浪の歌から中野学校の校歌が作られたらしい。
 蒙古で歌われていた歌が、中野学校の校歌となり、沖縄護郷隊の隊歌となり、そして戦後、鶴田浩二などが唄って流行っていたのだ。我々は、山岳部時代、そんなことも知らずに、山でこの歌を愛唱していたのだから恥ずかしい。


<護郷隊の隊歌>
一、
運命(さだめ)かけたる沖縄島(じま)に
我等 召されて護郷の戦士
奢れる米兵撃ちてし止まん

二、
お召を受けて感激の日々
死所を求めて ああ死所を得たり
郷土を護るはこの俺達よ

三、
赤き心で断じてなせば
骨も砕けよ肉また散れよ
君に捧げて微笑む男児

四、
いらぬは手柄 浮世の如く
意気に感ぜし人生こそは
神よ与えよ万難われに

 


             (夕食その② 田芋のハンバーグ)
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