1945年3月26日、ちょうど65年前の今日、アメリカ軍が慶良間諸島に上陸し、沖縄戦最初の地上戦が始まった。26日から27日にかけて集団死に追い込まれた島民の数は、渡嘉敷、座間味、慶留間の3島で約600名にもなるという。 昨年のこの時期は、大江岩波沖縄戦裁判支援連絡会の「強制集団死、検証の旅」に参加させてもらって、渡嘉敷島、座間味島を訪ね、多くの方の証言を聞かせていただいた。今年は、「沖縄戦記録 . . . 本文を読む
那覇・新都心のすぐ東の真嘉比に、こんもりとした大道森(だいどうむい)」がある。米軍は、ここをハーフムーンと称していた。すぐ西のシュガーローフとともに、この一帯の攻防戦は、沖縄戦における日米最大の激戦だったといわれている。 (この付近の戦闘の経過については、http://www.okinawa-senshi.com/sugarloaf-n.htm を参照) 1945年5月12日、軍司令部のある首里 . . . 本文を読む
台風20号も東に通り過ぎて、やっと明るい日差しが戻ってきた。 今回の沖縄滞在の最後の1日なので、午後、本島最南部の喜屋武岬へ行く。 太平洋を一面に見下ろす岬の海岸に突き出た断崖に、具志川グスク(城)がある。築城は、12世紀後半から15世紀というが、正確な年代は分からない。それでも、久米島の具志川グスクの按司が本島に逃れて築いたものと言われている。 真っ青な海に向かってグスクの石積が続き、素晴らし . . . 本文を読む
今日もジリジリと暑い。早いもので、もう今回の沖縄滞在の最終日だ。 午前中、車で本島南部、荒崎海岸に向かった。一度は訪ねたいを思っていたが、行き方も分からなかったので、なかなか来られなかったところだ。今日も行きつけるかどうか分からないが。 1945年6月18日、南風原の陸軍病院から南部へ撤退し伊原周辺の壕にいたひめゆり学徒隊に解散命令が出された。翌日、第3外科壕にガス弾が打ち込まれ、壕内は地獄と化 . . . 本文を読む
3月28日の夕刻、渡嘉敷島の阿波連から船をチャーターして座間味島へ渡る。
翌29日は旧暦の3月3日、この日はハマウリ(浜下り)といって、人々は先祖のお墓や海岸で重箱を広げ、海に向かって健康と地域の安全を祈願する。
座間味でも、港の横の大きな鯨の人形に、いっぱいの花が飾られ、午後には、大漁旗を立てた漁船などの海上パレード・ナガリブニ(「流れ舟」)が行なわれた。
今はのどかな座間味の島だが . . . 本文を読む
3月27日~29日、大江岩波沖縄戦裁判支援連絡会の、「強制集団死・慶良間列島検証の旅」に現地参加させていただいた。 当時、慶良間諸島の渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島には、海上特攻の秘密基地が築かれていた。1945年3月26日、27日に米軍が上陸。島の人々、約600名が「集団自決」に追い込まれた。また、日本軍による住民虐殺もおきた。 渡嘉敷では、集団自決の現場から奇跡的に助かった吉川嘉勝さん(現教育委 . . . 本文を読む
●●さんの結婚式が終り、夜の宴会まで少し時間があったので、読谷に最近建てられたという「恨の碑」を訪ねました。
瀬名波の住宅地の横の丘を少し登った墓地の一角、琉球石灰岩の壁面を利用した金城実さんのレリーフと、安里英子さんが書かれた碑文(日本語と韓国語)がありました。後ろ手に縛られ処刑のために連行される男性と足元にすがる母親らを描いたレリーフが、強烈な迫力で迫ってきます。
戦争当時、朝鮮 . . . 本文を読む
今日、那覇地裁で、泡瀬埋め立て指し止めの画期的な判決が出された。 (糸数アブチラガマ)(垣花ヒージャーは、今も地域の簡易水道として飲み水に使われている。)(イキガンカー(男の川)、この左手にはイナグンカー(女の川)がある。) . . . 本文を読む
今日は那覇市長選の投票日。 私には選挙権はないのですが、投票場所の泊小学校まで一緒に行きました。校内に残る戦跡を見たかったのです。今も弾痕の残る旧校舎の一部が保存されていました。 . . . 本文を読む
(壕の入口に、町の人たちが500円ずつ出し合って建てたという憲法9条の碑がある。この南風原町は、先の大戦の際、町の人口の40%近い3480人が亡くなっている。)(壕の内部、米軍の火炎放射器で焼かれた坑木。天井には、朝鮮人兵士が刻んだと思われる文字が残っている。)(壕の出口で) 夜は、沖縄大学の「命の森・やんばる訴訟」裁判報告と討論の集いに行く。 . . . 本文を読む
今日は登久子の誕生日、首里城周辺の戦跡を訪ねた。(首里城にあった軍司令部壕、第3坑口付近)(首里城円鑑池横の石畳道の側壁には、今も多くの銃撃跡が残っている)(沖縄師範学校跡の石碑。両横には当時の弾痕がいっぱい残った門柱が建っている。)(首里城守礼門を入った横の茂みの中に、爆撃で破壊された忠魂碑が建っている。こんな場所は、もう誰も気がつかない。)(金城の石畳を下っていくと、金城大樋川(カナグスクウフ . . . 本文を読む
(百数十人が強制集団死を強いられたアハシャガマ) 朝、自転車で再度、ヌチドゥタカラの家に走る。阿波根さんの写真集「人間の住んでいる島」を購入。 その後、昨日、行けなかった芳魂之塔へ。この辺りは、「血塗られた丘」と称された激戦地だったという。 ここには、伊江島で戦死した住民約1500人と日本兵約2000人、そして、本島や圏外での村出身戦没者など、合計4244人の名前が刻まれ . . . 本文を読む
(阿波根さんらが建てた伊江島の土地闘争の拠点、団結道場) 名護から本部へ。9時の船で伊江島に渡る。船内には10人ほどの米兵。屈強な大男たちだが、皆、驚くほど若い。船は、30分ほどで、グスク山が中央にそびえる伊江島についた。 宿に荷物を預けて、自転車で島を1周する。アーニー・パイル記念碑からニィヤティヤガマへ。ここは、巨大な海岸洞窟で、戦時中は1000人もの村人たちが避難したという。 辺 . . . 本文を読む