チョイさんの沖縄日記

辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録
 

あれから65年。慶良間諸島・阿嘉島の戦跡を巡る

2010年03月26日 | 沖縄日記・沖縄の戦跡



 1945年3月26日、ちょうど65年前の今日、アメリカ軍が慶良間諸島に上陸し、沖縄戦最初の地上戦が始まった。26日から27日にかけて集団死に追い込まれた島民の数は、渡嘉敷、座間味、慶留間の3島で約600名にもなるという。

 昨年のこの時期は、大江岩波沖縄戦裁判支援連絡会の「強制集団死、検証の旅」に参加させてもらって、渡嘉敷島、座間味島を訪ね、多くの方の証言を聞かせていただいた。今年は、「沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会」が阿嘉島での上映会とあわせて戦跡調査をするというので、阿嘉島、慶留間島を訪ねることができた。

 時化のため、高速船が欠航となり、阿嘉島の慰霊祭には間に合わなかったのは残念だったが、阿嘉島では当時少年義勇隊員だった垣花武一さん、慶留間島では、集団死の「体験者」・中村武次郎さんらにもお会いすることができた。




 (阿嘉島でガイドをしていただいた垣花武一さん(80歳))

 阿嘉島の港のすぐ前に建つ「平和の火 採火記念碑」。1945年3月26日午前8時4分、凄まじい砲撃のもと、この浜に米兵約300名が上陸した。沖縄戦最初の米軍の上陸地点だ。

 ここで、垣花さんは、まず、阿嘉島における当時の概要を説明された。
 阿嘉島では、慶良間の他の3島と異なり、島民たちの集団死はなかった。それでも、米軍上陸時には、島民たちは、山中に逃げ込んで親族ごとに集まり、「自決」の覚悟をした。中には、手榴弾の安全栓を一度抜いた人もいるという。しかし、何故か不発だった。一度試みて不発だと、もう2回目を試みることはなかったという。また、翌日も、島民たちは死場所を探して山を歩きまわり、集まった人たちは、「自決」の合図をいまかと待っていた。ところが、そのとき、米軍が掃討作戦を緩めて退却したため、「自決」は中止となったという。垣花さんは、「我々は命令を待っていた」と話されているが、「自決」寸前まで島民たちが追い込まれていた状況は、他の島々と変わらないのだ。

 結局、米軍は3月30日には阿嘉島を撤退した。しかし、米軍は、時々、巡視に来るため、日本兵と島民らは、そのまま山中での持久戦を強いられる。待っていたのは飢餓とマラリア。「身体中シラミでした。身体は栄養失調でやせ衰えるのに、シラミだけが太っていきました。」と垣花さんは言った。

 住民の飢餓との戦いは、野田戦隊長が、6月22日に住民の一部解散を認めるまで続いた。野田戦隊長が降伏書に調印したのは8月22日、武装解除されて本島に移されたのは、8月23日だったという。




 陸軍特攻艇「マルレ」の整備・保守用に構築された整備中隊壕。「マルレ」とは、一人乗りのベニヤ板製のボートで、爆雷を積み込み、米艦船に体当たりする予定だったという。しかし、実際には、米軍上陸時にほとんどが日本軍の手で焼却された。
 この場所は、琉球王朝時代よりノロの墓があり、当時も今も、島の人々の聖域となっている。そんな場所に日本軍は壕を作ったのだ。







 壕の中に入ると、壁に一面のノミ跡が残っている。当時、慶良間諸島には、約750名の朝鮮人軍夫らが配置され、壕堀りなどの過酷な重労働をさせられた。
 この壁のノミ跡も、朝鮮人軍夫らが残したものだろうか?




 壕脇の川。当時は、護岸工事もなく、川幅も広くて、特攻艇の水路として利用されていたという。




 阿嘉の集落のはずれには2軒の慰安所があり、7名の朝鮮人女性がいた。1軒は取り壊されて新しい建物になったが、隣の1軒は、赤瓦がトタン屋根になっただけで、ほとんど当時の雰囲気のまま残っている。当時は、「南風荘」という大きな看板がかけられていたという。
 島の人々は、この近くに来るのを禁止されていたが、当時15歳だった垣花さんは、すぐ下に畑があったので、時々、女性たちを見たという。垣花さんは、「真っ白で、きれいな人たちでした。」と言ったが、15歳の少年には、まぶしい存在だったようだ。
 それでも、夕方などには、女性らは海岸に出て、アリランを歌ったりすることもあったらしい。また、近くには、女たちが野生の葱(ノビルの仲間か?)をよく摘みにきたアリラン峠という地名もそのまま残っている。
 1945年2月中旬、基地設営隊930名が本島に引き上げるとき、慰安婦たちも一緒に連れていったので、渡嘉敷や座間味とは違い、米軍上陸時には慰安婦たちはいなかったという。基地設営隊と入れ替わるようにして朝鮮人軍夫らが島にやってきた。




 阿嘉島では、1945年4月、山中から逃亡した朝鮮人軍夫が日本軍に発見され、海岸で7人が銃殺された。その後も、軍夫らの逃亡は続き、合計12人が日本軍によって殺害された。
 業を煮やした日本軍は、軍夫らに2ケ所の穴を掘らせ、そこに格子を組んで大勢の軍夫らを閉じ込めたという。垣花さんは、「3、40人が壕の中にいた。用を足す以外は一日中、中に閉じ込められていた。」と話された。
 (なお、当時、阿嘉島から生還された元軍夫のカンさんらの願いを受けて、沖縄・読谷に「恨之碑」が建てられている。)

 また、垣花さんは、もう一つ、強烈な体験をされている。
 垣花さんの叔父夫婦が、いったん米軍に保護され、食料をたくさんもらって解放された。自宅に米軍にもらった食料を置いているのを日本軍に見つかり、結局、夫婦とも日本軍に虐殺されてしまったのだ。垣花さんは、日本軍の本部壕の近くで捕まった2人と会ったが、親戚と分かると自分も捕まるかもしれないと思い、口もきかずにそのまま通り過ぎてしまったという。
 翌日、垣花さんは、本部壕の近くで頭だけが地中に埋められ、身体がパンパンに腫れた叔父の死体を目撃する。すぐ近くには、突かれたような傷のある奥さんの遺体が、石で身体を覆われて転がされていたという。
 この話は、岩波新書「証言 沖縄「集団自決」」(謝花直美)などでも紹介されているので知っていたが、この日、垣花さんは、私たちに驚くような話をされた。
 「その時、私は、すっかり皇民化教育を受けていたためか、叔父夫婦が殺されたというのい、「2人は国賊だ。殺されても当然だ」と思ったのです。」

 本当に恐ろしい話だが、垣花さんも、こんな話を他人にすることができるまでには、どれだけの葛藤があったのだろうかと思う。




 夜は、島の離島振興センターで、「沖縄戦の証言」「軍隊のいた島--慶良間の証言」が上映された。



 参加した島民は、約40名。戦争当時の阿嘉島の映像が出ると、65年前の家族や親戚、知人らの姿を見つけたのか、あちこちでザワメキが起こった。

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