ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

私と言う女遠い記憶part34

2018年02月22日 | 介護
時折この世に生を受けたことを悲しいと思う。人間の身体に生まれて来たことを悲しいと思う。さりとてゴキブリに生まれる気持ちはない。毎日喧嘩をして言い合いをしていた母がこのところいとおいしと思うようになった。喧嘩をしても心から憎んでいるわけでもない。
一緒に暮らしているだけで親孝行だと思っていた。考えたら私は母を虐待していたのかも知れない。母のことを思ったら泣けてきた。いつか母が死ぬ日が来たら思いっきり泣いてしまうのかも知れない。
母と主人と私とのそこにはささやかな生活があったのだ。お金はないが、それぞれに病気は抱えているが、ささやかな幸せがあったのだ。本当は私は母を好きだったのかも知れない?
過去を振り替えればきりがない。自分より不幸な人がたくさんいるのに、さも自分が一番不幸だと決めつけていた遠い昔があったのだ。生きる希望も夢もほとんど失せていた。
ただ必死に家族3人の生活を守ろうとしていた自分がいる。友達になった人はあのスターこのスターと追いかけているが、私はこのところ好きな人が多過ぎて困っている。情けないと思う。一人に決めかねている。
今さら遠い記憶の糸を手繰ってもどうにもならないことは重々承知の上で書いている。その記憶の糸も怪しいものだ。
泣けるものなら思いっきり泣きたいと思う。お風呂に入りながら母のことを思ったら泣けてきた。母の葬式は我が家で出すのだ。弟がいるがあてにはしていない。生きて行くと言うことは時としていろいろなリスクも背負うのである。
家族3人それぞれに病気を抱えながら日々を過ごしている。私は身体も心もめいっぱいである。私の病気はだいぶ良くなったので障害者手帳ももらえない。主人は立派な特定疾患なので申請すればもらえる障害者手帳をもらおうとしない。母に至っては未だに介護認定を受けようとしない。

私と言う女遠い記憶part33

2018年02月22日 | 介護
2018.2.22
もう、あらゆるものを背負っているようだ。60年であらゆることを経験したように思える。不幸はいつまでも付きまとう。幸せは遠くへ遠くへ逃げてゆく。追いかけても追いかけても逃げてゆく。ついさっきも不幸になったような錯覚を覚えた。
世の中には自分より不幸な人が大勢いることは重々承知の上ではある。それにしても不幸だと思う。好きな人はどんどん逃げてゆく。世の中は思いもよらないことも時には起こる。例えば昨日まで友達だった人も今日からは知らんぷりされたりもする。もしかしたら愛に飢えているのかも知れない。本当の愛を知らないと言えばそれまでだが、悲しくもある。
生きていることを悔やんだりもした。しかし、死ぬ勇気もない。一体私が何をしたと言うのか?おそらくどこかで誰かを傷つけているのかも知れないと思う。思い当たる節が無いのがたまの傷だ。思い当たる節があれば謝りもしただろう?寒くて一日過ごしていた。とにかく寒い。断熱材を入れたのかどうかわからない家である。そこかしこから隙間風も入る。
勇気を持って死ねる方法などあるわけもないと思う。昨日の友は今日の敵なのだ。世の中すべてが思うようにいかないのである。ことは自分の思い通りには進まないのだ!心も躰も必死に寒さに耐えている。出来るなら良かったと思える死に方を選びたいと思う。他人様に迷惑をかけない死に方を…。
しかし、このまま死んでゆくのは悔しいと思う。さりとて仇討をする勇気など持ち合わせていないのが現実です。人生はなんと不公平なのでしょうか?他人を憎んで死んでゆくつもりはありません。

生きている意味を問う?

2018年02月22日 | 介護
2018,2,22
私が生きている意味を問う。
私はなぜこの世に生を受け60年も生きなければならなかったのか?
今私が生きている意味を問う。
こんなに生きて良かったのだろうか?
生きる意味はあったのだろうか?
生きていて良かったのだろうか?
私は更年期から病気になり精神疾患を患った。
しかし、かなり寛解しているので、精神障害者の手帖はもらえない。
ほぼ健常者と同じ生活が出来るのだから…。
ときどき辛い時がある。
そんな時は休養をとると良いのだが、なかなか思うように休養をとれないでいる。
毎回心の中に無くした何かを探している。
探しても探しても見つからない何かを…。
本当に生きていて良かったのでしょうか?
生きる意味があるのでしょうか?
しかし自ら死んでゆく勇気もありません。
これからも私は自分で自分が生きている意味を問うのでしょうか?
そして生きていることを詫びるのでしょうか?
こんなに生きていて良いのでしょうか?

いいな!スターは!

2018年02月22日 | 介護
2018.2.22
友達がスターのファンだと言う。
ときどきFacebookに写真をアップしてくる。
気さくなファン思いのスターである。
その写真からスターの優しさが垣間見れる。
まるで写真はカップルのような写真さえある。
気さくなスターが身近に感じていい感じである。
私のスターは千代ちゃんは気さくでなかった。
スターのオーラが出しまくりだった。
そこへ行くとクミコさんはスターでも庶民の心を持っていると思う。
それはブログから垣間見れる。
バスも電車も普通に乗る。
コンビニもスーパーも行く。
日野美子さんは美子さんで気さくだと思う。
ライブハウスでは始まる前や空き時間に話しかけてくれる。
玉川奈々福さんも気さくだと思う。
楽屋口に手土産を持って行くと気さくに出てきてくれる。
天中軒雲月師匠もファンを大事にしていると思う。
ところでこんなに好きな人が増えてどうしましょうと思ってもいる。
しかしFacebook のお友達の中にはあっちこっち掛け持ちの人もいる。
働いたお給料はおそらく追っかけの費用に消えるのだろう?
私は年に2~3回木馬亭で浪曲が聴ければいいと思う。
ここ何年かシャンソンは好きなのでクミコさんも日野美子さんも聴ければ嬉しい。
しかし、スターはいいな!
写真を見る限り、身近な感じが!
手の届くスターのような?
ところでシャンソン歌手にはきれいな人多いですよね。
うっかり浮気しそうですわ!
野崎由美子美人ですね。

人もいろいろ。

2018年02月22日 | 介護
2018.2.22
Facebookのお友達で毎日自分の安否確認をしてくる人がいる。
彼は入院をした。
沢山病気を抱えているらしく、それでも何とか前向きに生きている。
私が入ったFacebookのあるグループはそんな人が多い。
病気を抱えながらみんな生きている。
昨日そのサイトで悲しい投稿があった。
ヘルプマークの話であった。
難病の友達がヘルプマークとヘルプカードを付けていない話だった。
どうもヘルプマークとヘルプカードを付けている人は精神疾患の人だから近寄らないようにと親が子供に教えているそうです。
そのような書き込みでした。
赤いハートマークは心が病んでいる人だそいです。
その書き込みにかなりの反響があったのは言うまでもない。
むろん私も反論した。
そもそもこのマーク事態が全国的に普及していない。
元々東京都が始めた物だか、義足や目に見えない内部疾患の人が街中で付けるマークで、何かあったときの助けにもなる。
例えば心臓にペースメーカーを埋め込んでいる人や、膠原病の人や関節リウマチの人もそうだ。
何も精神疾患に限ったことではない。
私は心療内科にも通っているがそもそも不整脈でこのマークをもらい付けている。
どこかで倒れたら救急車を呼んで欲しいからだ。
電車の中で席を譲ってもらうためにではない。
精神障害者に近寄るなと言う親の考えがおかしい。
時代錯誤も甚だしい。
精神病の昔のイメージがついて回っているのだ。
閉鎖病棟のベットの上で拘束されたイメージがあるのだろうと思う。
確かに閉鎖病棟はあるが、拘束と言うのはほぼ禁止に近い。
父が生前脳梗塞で入院した時にあまりにも暴れてしまうので少しの間拘束をされていた。
原則的に拘束は禁止である。
その前に精神障害者一人の人間である。
誰しもが暴れてわめきたてるわけではない。
上手に薬を服用すればある程度の生活は送れるのである。
昔のように突然道端で暴れたり発狂したりという人はごくまれである。
そのはき違えた考えは捨てた方が良いと思う。
私は道端で暴れたり叫んだりしたことはない。
が、自転車に乗っていて歌を口ずさむことはある。
皆一人の人間なのだ。
どうぞ、街中でヘルプマークやヘルプカードの人を見たら奇異の目で見ないでください。
困っていたら声掛けをお願いします。