よろしくお願いします。
昨年古市古墳群を再訪した時の記録をお送りしているところですが、今回はちょっとだけ道を外れてお地蔵様、小寺院を巡った記録をお送りしていきます。巡ったのは柏原市から藤井寺市にかけてのエリア、見慣れた風景の中にも見逃していた風景があるはずです、早速行ってみることとしましょう。
まずはこれまで訪れたことがなかった柏原市の玉手地区、近鉄国分駅の西側は小高い丘の上のニュータウン、玉手山古墳群巡りではアップダウンに苦労した所でした。古墳巡りを終えて急な坂を下りて行くと写真1枚目にある安冨寺の山門へとたどり着く、崖の下の少し薄暗い所にある参道を進んで行くと、その崖にはいくつかのポコポコと穴が開いている。少し不気味にも感じる穴は昔からあったもので人が入るために造られた感じだが、写真にある看板には実はこれはお墓だとある、まあ確かにあまり入りたくはないと思ってしまう穴である。参道は地蔵堂がある所から先はカーブになって上まで続いている、その辺りには地図サイトで古墳の印がついていたが参道は行き止まりになっていて結局古墳がどこにあるのかは分からなかった、この横穴が墓とあるからもしかしたら古墳なのかも知れないが確定はできないので、あきらめて寺院を後にすることに。
石川に架かる登録有形文化財の橋を渡って藤井寺市へ、府道の北側にある允恭天皇陵とその陪塚を巡った後は近鉄土師ノ里駅の南にある町並へ。狭い道が網のように民家の中に展開していて、よそ者は受け付けないような雰囲気さえ感じてしまう、そんな町並の中にもお地蔵様、お堂の中で地域の人々の平和を見守ってくれているかのよう。その入り組んだ町並を抜けると東高野街道へと出て道明寺へとたどり着く、さっき通り過ぎた近鉄の駅名にある「土師」はこの地を支配していた土師氏から来ていて・・・土師氏は菅原道真の祖先と当たる・・・この寺院は土師氏の氏寺として建立された。
「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」
大宰府に左遷されることになった菅原道真はこの寺院に伯母の尼僧を訪ねて、上記の歌を詠んで別れを惜しんだというのは人形浄瑠璃や歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』でもよく知られている。菅原道真の死後、それまでは土師寺と呼ばれていたこの寺院は道明寺と改められたとのこと・・・あ、だからこの寺院の向かい側に道明寺天満宮があるわけなのか~、寺院と神社は一体化、その後の神仏分離を経て再び分離して、現在は東高野街道を境にして並ぶように位置している。
古墳巡りの方は本編でのお送りと言うことにして、こちらは藤井寺の町中でお地蔵様巡り、とは言っても写真にある地蔵堂からはなかなか話を膨らませることは難しい、昨年の秋に巡った記録だからどこの場所にあったのかもはっきり覚えていない状態です。写真下5枚にあるのは誉田八幡宮から西へ曲がった所にある旧街道、位置的には竹内街道ではなさそうな道は道幅も左程広くなくいい雰囲気の町並が続いている。民家が密集しているところだが、たまに家の並びが途切れた所からは古墳の緑の森もチラッと姿をのぞかせる。、さあ、古墳群の真ん中へとやって来たことだしそろそろ軌道修正、古墳巡りに戻るとしましょうか、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。 まちみち
昨年古市古墳群を再訪した時の記録をお送りしているところですが、今回はちょっとだけ道を外れてお地蔵様、小寺院を巡った記録をお送りしていきます。巡ったのは柏原市から藤井寺市にかけてのエリア、見慣れた風景の中にも見逃していた風景があるはずです、早速行ってみることとしましょう。
まずはこれまで訪れたことがなかった柏原市の玉手地区、近鉄国分駅の西側は小高い丘の上のニュータウン、玉手山古墳群巡りではアップダウンに苦労した所でした。古墳巡りを終えて急な坂を下りて行くと写真1枚目にある安冨寺の山門へとたどり着く、崖の下の少し薄暗い所にある参道を進んで行くと、その崖にはいくつかのポコポコと穴が開いている。少し不気味にも感じる穴は昔からあったもので人が入るために造られた感じだが、写真にある看板には実はこれはお墓だとある、まあ確かにあまり入りたくはないと思ってしまう穴である。参道は地蔵堂がある所から先はカーブになって上まで続いている、その辺りには地図サイトで古墳の印がついていたが参道は行き止まりになっていて結局古墳がどこにあるのかは分からなかった、この横穴が墓とあるからもしかしたら古墳なのかも知れないが確定はできないので、あきらめて寺院を後にすることに。
石川に架かる登録有形文化財の橋を渡って藤井寺市へ、府道の北側にある允恭天皇陵とその陪塚を巡った後は近鉄土師ノ里駅の南にある町並へ。狭い道が網のように民家の中に展開していて、よそ者は受け付けないような雰囲気さえ感じてしまう、そんな町並の中にもお地蔵様、お堂の中で地域の人々の平和を見守ってくれているかのよう。その入り組んだ町並を抜けると東高野街道へと出て道明寺へとたどり着く、さっき通り過ぎた近鉄の駅名にある「土師」はこの地を支配していた土師氏から来ていて・・・土師氏は菅原道真の祖先と当たる・・・この寺院は土師氏の氏寺として建立された。
「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」
大宰府に左遷されることになった菅原道真はこの寺院に伯母の尼僧を訪ねて、上記の歌を詠んで別れを惜しんだというのは人形浄瑠璃や歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』でもよく知られている。菅原道真の死後、それまでは土師寺と呼ばれていたこの寺院は道明寺と改められたとのこと・・・あ、だからこの寺院の向かい側に道明寺天満宮があるわけなのか~、寺院と神社は一体化、その後の神仏分離を経て再び分離して、現在は東高野街道を境にして並ぶように位置している。
古墳巡りの方は本編でのお送りと言うことにして、こちらは藤井寺の町中でお地蔵様巡り、とは言っても写真にある地蔵堂からはなかなか話を膨らませることは難しい、昨年の秋に巡った記録だからどこの場所にあったのかもはっきり覚えていない状態です。写真下5枚にあるのは誉田八幡宮から西へ曲がった所にある旧街道、位置的には竹内街道ではなさそうな道は道幅も左程広くなくいい雰囲気の町並が続いている。民家が密集しているところだが、たまに家の並びが途切れた所からは古墳の緑の森もチラッと姿をのぞかせる。、さあ、古墳群の真ん中へとやって来たことだしそろそろ軌道修正、古墳巡りに戻るとしましょうか、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。 まちみち