今朝のこと。
FMラジオを聴いていると、
天神のとあるレストランに
人気の新しいメニューがあると言う。
毎日、行列の出来るほどの
人気の「夏限定メニュー」を
レポーターが紹介していると、
スタジオで、その存在を知らなかった
女子アナが言い放った言葉に、
我輩は、「はた」と反応した。
その言葉とは、
「私って時代遅れぇ。やだーっ、恥ずかしい!」
さて、「時代遅れ」の時代とは、
いつの時代を指して言うのか、
おそらく、二十歳を過ぎたばかりの小娘が
「時代遅れ」と言うのなら、
半世紀以上を生きた親父は、
じゃ、いったい何なんだ。
天神のレストランも、
人気のメニューも知らないけれど、
「夏限定」と言うのなら、
我が、ガーデン・レストランには
「冷や汁」がある。
行列こそ出来ないが、
鎌倉時代から続く、由緒ある人気のメニュー。
「新しいもの」にしか飛びつかぬ輩なんぞに、、
この味は判るめぇー。
風情(ふぜい)も情緒も食べ物すらも、
すべからず、古きものしか関心持たぬ我輩が、
いくら「時代遅れ」で
「シーラカンス」で、「カブトガニ」だろうが、
少しも「恥かしい!」とも「不便」とも、
一向に思わない。
( 「恥かしいのは上半身」、「不便なのは下半身」
ぐらいなら、我輩も自覚もあるが ・ ・ ・ )
「時代遅れ」は永く生きた証。
むしろ、「時代遅れ」は誇らしい。
来たるべく新しい時代の
新しい出現を待たずとも
古きものの中に
未知の優れものは無尽蔵。
未知との遭遇の新しき感激も又、無尽蔵。
今夜は、少し前に小僧が送ってくれた
絶品の「山女魚の燻製」を晩酌の肴に飲んでいたが
大事に残しておいた二匹を
出(だ)しで作った「冷や汁」。
見事な「山女魚の燻製」
古(いにしえ)から、綿々と代々伝わる「冷や汁」に
「山女魚の燻製」のエッセンスが混在し
なんとも言い難し、この旨さ。
白ゴマがなくて、今夜は黒ゴマ、
拙宅になんなら一度、
前述のレポーターと小娘を寄こさせて、
「古くて新しい、こんな美味しいがあるのも知らないなんて、
やだーっ、私、恥ずかしい!」
と言わしめたいものである。
「新しいもの」にしか飛びつかぬ輩なんぞに、、
この味は判るめぇー
なのである。
人に「時代遅れ」は存在しても、
「本物」と呼ばれるものに
「時代遅れ」は 一つもなし。
例えば、今夜の「冷や汁」の如し。
例えば、今夜のこの曲の如し。
映画「おもいでの夏」のテーマ
(1971年)
曲はミシェル・ルグラン。
聴きたかったこの曲を
無理やりこじつけられて満足。
山女魚の冷や汁で,
満足、大満足!