我が家の青空(My Blue Heaven)

スージィーとロバート、キャッシュとバンクの
2人と2匹の我が家のディリー・ライフ。

「ジジーとババーの休日」

2017年05月29日 | 日記

「さぁ、今日は掘るでぇ!」

土曜日、2年ぶりのマテ貝掘りに
豊前の海に出掛けた。

青天井の下で、
爽やかな潮風に包まれながら
潮の引いた遠浅の潟を掘り、

65歳のジジーとババーが三人、
マテ貝掘りに興じること約2時間、

比較的大きいサイズの収穫がこの量、
ババーの持つ手にズッシリ。


マテ貝小僧曰(いわ)く、

「今は両手に鍬(くわ)だけど
俺は昔、両手に花だった」

聞いた瞬間、昔の悪さを思えば、

花ではなく、「両手に縄」と聞こえたが

しかし、花が本当でも
その面影は今は無く
あるのは、うみも(海面)に揺らぐ
ジジーの影。


マテ貝小僧宅では
旨い魚で酒をしこたま喰らい、
面白い酒でしこたま笑い
そして、一夜明けた日曜日、

小倉→行橋→田川→飯塚→小郡を
経由して、宮の陣(久留米)は
山口さんの畑。


「さぁ、今日も掘るでぇ!」

65歳のジジーとババーが三人、
今日はジャガイモ掘りに精を出す。



青天井の下で、
土の香りに包まれながら約1時間の収穫量



右がジャガイモ小僧、山口さん。

マテ貝と交換に、
収穫した約半分を頂いて帰えれば、
早速、マテ貝とジャガイモの
お裾分けに走る。


土曜日と日曜日の、
我が家にとっての休日ホリディは、

青天井に海と畑の恵み、

お二人の慈悲深き情、
主人の意に添い
大地を踏ん張る我が足腰。

自然と人情と五体満足に、
ひたすら感謝、ひたすら感謝の

「掘りディ」でした。

ビー・ジーズ

「ホリディ」

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「饅頭と電話の偶然」

2017年05月26日 | 日記

事前に予期しなかったことが
起こることを、「偶然」と言う。

例えば、
天神の街で知人とばったり会う。

23日の日記で中島みゆきの
「糸」をアップした翌日に、

この曲は日本音楽著作権協会
CMやカラオケなどで
著作物使用料の分配額が多かった
作品に贈られる賞で金賞受賞。

どちらも偶然の範疇だろうが、
レベルは「たまたま」

しかし、個人の思惑では働かない
何かが意図的に絡めているとしか
思えない偶然もある。

一週間ほど前に、職場の同僚が
大牟田市のご当地名の付く、
名物「草木饅頭」を買ってきてくれた。

草木饅頭のお店が軒を連ねる
この町の一角に、昔の取引先があり、

「お世話になった社長ご夫妻は今、
元気でいらっしゃるだろうか?」

好物の草木饅頭を頂きながら
そんなことを考え、
ご夫妻の顔を思い浮かべた。


ところが昨日、その社長から
突然、電話が掛かってきた。

10年以上もお会いしていない
社長から電話が何故、よりによって
このタイミングで?


社長曰く、
「一週間ほど前に君のことが話題になり、
久しぶりに声が聞きたくなって」

その電話に驚きながら、

「社長、実は・・・」と、

饅頭の上に社長の顔を重ねた
話をすると、社長は喜んでくれて、

暫く、昔話と互いの近況を
交わした後で、

「元気もんだったあんたんことは、
忘れたことがなかけん、
近くに来たら、必ず、寄らなよ」

そう言って頂いて、会話を終えた。


今も何処かに、かつての仕事ぶりを
評価してくれる人がいらっしゃっる。

何よりも嬉しかったのは
「偶然」とは言え、
そのことを知ったこと。

10年も昔のこととは言え
仕事冥利に尽きるし、
苦労はしたけれど報われる。

それは、当の本人もさることながら
馬鹿な親父に付き添ってくれた
スージィーも然(しか)り。

「運命は努力をした人だけに、
偶然という橋を架けてくれる」

昨日の饅頭と電話の偶然は、
どこでもある「ただの、偶然」、
あるいは「ただの、奇遇」ではなく、
「特別な偶然」だったのだ

 
 

Take a load off, Fanny   
take a load for free  
Take a load off, Fanny  
And (and) (and)     
you can put the load right on me.   

荷物を降ろせよ、ファニー
重荷を降ろして 気楽になりな
荷物を降ろしてくつろげよ、ファニー
そして (そして)
あんたの荷物を 俺に担がせな

 

「The Weight」

ザ・バンド

ザ・ステイプル・シンガーズ

 

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「相見互いの精神」

2017年05月23日 | 日記

土曜日、
スターダスト前のトネリコの鉢と、
その周りに花を囲む花台を作ったが、
そこで思わぬ
トネリコの生命力に驚いた。

トネリコの根は鉢から突き抜け、
僅かな敷石の隙間に
何本もの根を張っていて、

今の鉢の大きさでは
トネリコの成長に追いつかない。

それで成長に見合う
相応しい大きさとデザインの鉢を
探したいたところだった。

気に入った鉢は見つからないし、
あったとしても高価。

買えないのなら
自給自足、
自ら鉢を作るしかない。


材料はフローリング工事の際、
大工さんから頂いたコンパネと廃材。

鉢内壁の腐食防止の
アルミ複合版は会社の残物。


日曜日は朝から陽ざしが強く、
午後は二度ほど立ち眩(くら)み
をするほど暑かった。

材料をカットし組み立て、
底に無数の穴をあけて塗装。

塗装も乾きが早く、トネリコが新しい鉢に
引っ越したのは、午後三時近く。

左の鉢が、トネリコの旧居。

引っ越しが済んだら花台を作りセット、
終わったのは夕刻。

 



5月と言うのに夏、
あまりの暑さに遣(や)られた。


トネリコが窮屈な思いもせずに
更に成長する伸び代(しろ)を
大きくした安堵の一方、

正直のところ本当に疲れた。


先週は「竜のひげの雑草処理」、
今週は「自作の植木鉢」

庭仕事は、一も二もなく体力勝負。


すでに五体の成長も止まり、
この先、老いゆくばかりの者が
せっせと花や木の成長を促す手助けに
汗を流せば、

花や木はそれに律儀に応え、
疲れた体を癒すだけでなく
老いる者の心の成長を促し、
暮らしを豊かにしてくれる。


人は望みを捧げ、

木と花は喜びを尽くす。


同じ境遇にある者は
人と植物とは言えど、
互いに助け合う気持ちが
肝要である。

「相見(あいみ)いの精神」とは、
こう言うことと見つけたり。
 

「糸」

歌い手:不明 

 

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「最後は、感嘆符」

2017年05月20日 | 日記

スターダスト前の
トネリコの鉢とジョイントさせた
花台を作りながら、
宅急便の来るのを待っていた。

作業終了と同時に、宅急便。

3月4日に、
大分の日高さんのギター工房に
リペア補修に出して以来、
三か月半ぶりにD-35が帰ってきた 。

少し緊張気味にケースから取り出し
先ずは外観を眺める。



D-35は、見違えるようになって
帰ってきました。

前後ボディの外れた
バインディングも違和感なく、

「ホッ!」

早速、チューニングを済ませて
最初のボロン、

「オッ!」

素晴らしい音の響きに驚いた。

「エッ!
あたしゃ、こんな良いギターを
持っていたのかい」

早速、日高さんにお礼の電話。

「暫くは、弦は張ったまま
(今のテンションのまま)
にしておいて下さい。
もっと良くなる(鳴る)と思います」

「オイオイ!
これ以上、良くなってどうする」

「どうする」とは、
「D-35 とJ-50の二本も持て余し、
下手なままでは笑われる」
の意味。

それからJ-50 と弾き比べは、
下手の道具調べ。

それぞれに味わい深い音。

「嗚呼!下手の道具調べの
冥利に尽きる」


近いうちに、二本とも遺品・・

親父は死して焼かれる身でも、
ギターは焼かれることなく
いずれは、ヴィンテージ。

あと何年、
一緒にいられることやら?

「ホッ!」の次が「オッ!」で、
その次が「エッ!」、そして
「オイオイ!」に、最後の「嗚呼!」は、
帰ってきたD-35への感嘆符五連発。

そして最後は
どこか寂し気な疑問符一つ。

マーチンD-35(左)とギブソンJ-50 。

下手の道具調べの、然(さ)も
自慢気な画像だが、

本音を言えば、所有していることが
嬉しいやら、恥ずかしいやら。


今日は膝の痛みも、一摘みの寂しさも忘れる
D-35 とJ-50と
(もう1本、マーチン・バックパッカー)共に
音楽を楽しむ人生が
これから始まる記念日。

「よーし、死ぬまで楽しむぞ!」

最後は、やっぱり、感嘆符。



「Happy Greeting」

達郎がないので、
KinKi Kids

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「痛む、痛む、無性に痛む」

2017年05月19日 | 日記

斯(か)くも、人生とは
うまくいかないものである。


右足ふくらはぎの痛みも癒えて、
目標にしている
1周1.8Kmの春日公園の
ジョギングコースを久々に
走れるようになった。

昨年は3周走っていたのに
今は、1周がやっと。

それでも目標を走り終えた達成感は、
格別だ。

脚と心臓は主人の期待に応え、
走る距離を伸ばすごとに
健康が近づく、確かな実感が
沸々と湧いてくる。

生物学的に人間は動物、
動物とは動く物。

走ることは楽ではないが、
動けない、走れない
ことこそ
空しいものはない。

動けるうちが花。
走ることは、すなわち、喜び。


Tシャツとショートパンツの軽装で
緑の中を走る爽快感は、
何物にも代えがたい。


斯(か)くも、人生とは
うまくいかないものである。


1.8Kmを走ったことに気を良くし、
今月中には次のステップ(2周)に
進めると目論んでいた。

ところが、脚は
主人の意に謀反(むほん)を起こし、
昨日は右膝(ひざ)の外側に痛みが発生、
痛みは今日、内側に転移。

踏ん張るどころか触っても痛いが、
痛いのは筋でなく膝の骨。

骨が痛むのは初めて。


大事をとって、
今日は走るのを止めにし、しばらく
様子を窺(うかが)うことにした。

天気さえよければ、当然のように
毎日でも走れると思っていた。

喜びあらば、憂いあり。
「人生、一喜一憂」

思い通りにゆかぬが人生、
合点(がてん)はいっても、

こんな日に限って好天に恵まれ、
明日は土日。

休日には、目論みに
近づけると踏んでいたのに

踏んだのは
地団太(じだんだ)。


なにゆえ、
貧しき者のささやかな喜びを
こうも弄(もてあそ)ぶのか。

痛む、痛む、膝が痛む。

痛む、痛む、無性に痛む。

痛む、痛む、心が痛む。




走り続けるのさ(空しいままに)

走り続けるのさ(ただやみくもに)

走り続けるのさ(太陽に向かって)

(でも遅れちまってるけどね)


ジャクソン・ブラウン

「Running On Empty」
(空しく走り続ける)

邦題「孤独のランナー」

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「厄介者は、根性者」

2017年05月15日 | 日記

カタバミ(画像は借りもの) 
 

ヘクソカズラ (同上)
 

ドクダミ(同上)


 画像は我が家の庭や、鉢の中を
我が物顔で繁殖する
厄介者の雑草のほんの一部。

15年ほど前に、
庭の趣の仕切りや、段差、
枕木や石庭の縁(ふち)を飾る、
竜のひげ(リュウノヒゲ)を植えた。

本来、竜のひげは
雑草を寄せ付けない性格があり、
常緑多年草で、一年中、親しみ深く、
我が家には無くてはならぬ存在。

なのに、愛する竜のひげに
5年ほど前から厄介者が生えだした。



竜のひげ固有の美観は損なうし、
抜いても抜いても生えてくる。

これがこのところの悩みの種。

それで
土曜日と日曜日の二日間をかけ、
雑草の生えた竜のひげを
すべて掘り起こし、根をかき分け、

ドクダミとカタバミの根と
ハナニラの球根を取り除く
作業に朝から取り掛かった。

一番苦労したのが、
ハナニラ (画像は借りもの)

ニラの葉に似たハナニラと
小さな葉がカタバミ

竜のひげから取り出したハナニラの球根



一切の雑念もなく、
本来の佇まいを取り戻したいの
一心で始めた細かな作業は
想像以上に時間を要し、

故に足腰、ほとほと疲れはてた。

15年の間にびっしりと
繁殖した竜のひげを、根分けし
新たな場所に植え終えるまで、
丸二日で、

当分の間は
悩みの種から解放される。

どこから種子が飛来するのか。

厄介者にも生きる権利はあるし、
それぞれ眺めればそれなりに可愛いが、

致し方ない、何分にもここは
世界中どこを探してもない

唯一無二の我が聖域。

我が志向と嗜好から外れるものは、
断じて、排除させていただくだけ。

作業終了画像。



元の佇まいを取り戻した
竜のひげを眺めながら思ったのは

「これが仕事でも、
こんな苦労は絶対にしない!」 

心の中で吐き捨てた
言葉の隣には

「嗚呼、苦労したけど
悩みの種を片づけて良かった」。


しかし、安堵も束の間、 
悩みの種の厄介者は根性者、

忘れたころにやってくる。 


「雑草の歌」

美空ひばり

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「続:永遠の馬鹿」

2017年05月12日 | 日記

「馬鹿は、風邪をひかない」とは、

「馬鹿は、自分がひいた風邪に
気付かないほど鈍感だ」

と言う意味らしい。

しかし、この言葉は
あながち外れてはいない。

以下が、それを立証する。

「ストレスによる免疫機能の低下が
風邪をひきがちにさせるのに対し、
馬鹿はストレスをあまり感じないから、
風邪をひかない、ひきにくい」

とこんな医学的な根拠もある。


そこで馬鹿親父は胸に手を当て、
自身の「鈍感」と「ストレス」について
鑑みることにした。

鈍感については、自覚の観点よりも
他者の評価の方が正しかろうから、
其の実は定かではないが、

時に、馬鹿なりにその場の空気を読み、
あえて、気が付かぬ(鈍感な)
ふりをすること、屡(しばしば)。
 

かつては、
仕事上の人間関係がもたらす
結局は何の役にも立たない
ストレスの蓄積に
埋没して
過ごす日々もあった。


時を経て、
そんな柵(しがらみ)暮らしから抜け出し
取り戻した能天気に暮らす日々に、

あるものは静穏さと安らぎ、

無いものは
ストレスと金。

依って、
それが因で風邪をひくことは、
先ず、あり得ない。

しかし、昔のストレスに代って
蓄積するものもある。

それは、疲れ・・

先日の
小さな宿の小さな同窓会で、
日ごろはコートで
ボールを追いかけるふりして、
有閑マダムの尻を追いかける

元気印のテニス・ジジーの
小僧のよもやの一言、

「最近、疲れ易い」。

易いのか、取れにくいのか、
記憶は定かではないが、

元気印がこうなのだから、
運動不足の親父が少し走っただけで、
すぐに疲れるのは当たり前。


「馬鹿は、風邪をひかない」
と同様に、
「馬鹿は、疲れない」

そんな医学的な根拠が
ないものかと願う馬鹿り。

ところが、
「馬鹿!」の「間抜け!」などと、
四六時中、蔑(さげす)まれつつも、

疲れ知らずでアメリカ大陸を
走って往復した男がいた。

その名は、
「フォレスト・ガンプ」


フォレスト・ガンプとは、
「間抜けな、フォレスト」


間抜けを、馬鹿を、
侮(あなど)ってはいけない。

少々、間抜けでも、彼は純真に生き、
周りから慕われ助けられ、
煩悩も欲もない生き方が幸運を招き、
いつしか大富豪となり、

生涯を幸せに生きた。


そこで馬鹿な親父は考えた、

よーし、オイラも、
更に磨きをかけて大馬鹿になれば
いつかは大金持ち!


ガンプが聞いたら、必ず、こう言う

「馬鹿も休み休み、言え」。


馬鹿とは、鈍感でも間抜けでも、
煩悩も余計な欲も持たず、
あるがままに純真に、生涯を貫くこと。

上から下を見下(くだ)して
生きるよりも、
いつも上を見上げて生きること。
 

永遠の馬鹿よ、 

これはすべて、
間抜けなフォレストが
教えてくれたはず。

映画「フォレスト・ガンプ」
メインテーマ

必見!

フォレスト・ガンプ シンフォニーオーケストラ

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「永遠の馬鹿」

2017年05月09日 | 日記

私は、馬鹿。

私を知る人に、あらためて
告知せずとも、その事実は既に、
周知されていること。

今更、伝えることでもない。


時に、私は頑固。

自ら発し起こした言動が、
周囲に不快を与えたとして、
その場を穏便に治めるために
仮に修正の必要が生じたとしても、

自分に非がないと信じていれば、
頑(かたく)なに貫ぬく信念


常に、私は変わり者。

私の体には、
知と無知、寛大と狭量、
善者と悪者、働き者で怠け者
穏やかさと激しさ、
夢想と現実主義、などなど、
常に相反する二つの人間が
一つの体に同居する。

何かの拍子で身体が揺れ
心の球が転がりだす。
すると、転がりついた片方が
私の思考を支配する。

前述の頑な信念と同様、
厄介なのは反する思考の支配を
容易に平衡には戻せないこと。
 

更に、私は強情者。

日頃はいたって従順でも、
例えば、自身の因みにより招いた
頭ごなしの叱責、あるいは、
耐えきれぬほどの屈辱。

「一寸の虫にも、五分の魂」

これ以上、
人格を蔑(さげす)まされては
なるものかと、

自身を護るための戦いに挑む
抗の姿勢に、身を固める。


一方で、
私は正直者。

美への意識や、
人の心と心の人生の機微には
素直、且つ、情緒深く受け入れる
極めて無垢な一面もある。


最後に、
私は意気地なし

女々しくて怖がりで、
泣き虫で小心者で臆病者。


もう一度、
私は馬鹿である。

齢六十五を過ぎて尚、
自らの短所弱点を
よくよく把握していながらも、
いまだに矯正できずにいる。

それで良いのか 悪いのか
判っているのか いないのか、
死ぬまで馬鹿を続ける
私は永遠の馬鹿。


昨夜、つくづくと
自分の馬鹿さに気付く
出来事があった。

気付きながらも、その時、 
体の中のもう一人の自分が、


「今更、迷うなよ。構うもんか
この先もずっと、自分らしく
永遠の馬鹿で生きたらいいよ!」

と語り掛けた。


この曲を初めて聴いた
50年前から今日まで、
私は馬鹿のまま。
 

 

正しくても間違いでも 

居場所があっても なくても

僕は僕でいるしかない

夢が僕をつくってる


「 Ive Gotta Be Me」

サミー・ディビス・Jr

 

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「ジジーとババーの子供の日」

2017年05月07日 | 日記

二人が春日村に帰ってきたのは、
六日の午後三時。

僅か二日間の
故郷リトル滞在にも関わらず、
車中に溢れる頂き物や、
二人で採ったワラビ、
そして、借り物の古いアルバム。

一息ついて日記に
取り掛かろうとしたが、
撮ってきた写真を処理するのが
精一杯で頭が動かない。

諦めて、春日公園に
出かけることにしたが、

身体を動かす元気は残っているのに
頭を動かす余力もないのは
何故なのだろうか?

 

五日の日の明るい夕刻、
囲炉裏(いろり)形式の四角のテーブルに、
それぞれ二人ずつ
計八人が向かい合う、

昨年のお盆に続く、
林の中の小さな宿に集う
小さな同窓会。

判る人には判るから、
人物名の紹介不要。




乾杯の後、誰かが喋り出すと
ほかの七人は耳を傾け、
また、ほかの誰かが喋りだすと
周りは黙って耳を傾ける。

そこにはリーダーもいなければ
議題も縛(しば)りもなく、
各自が自由に
思いの丈を語るのだが、

中学、高校を卒業以来、
ある者は故郷に残り、
ある者は故郷を離れ、

半世紀をそれぞれの
生き様で時を過ごせば、
それぞれに異なった人生観が
存在しているのにも関わらず、

誰が喋ろうとも
何一つ、違和感もなく
素直に心の受け止める今日は

ジジーとババーの心を童心へと戻す、

「こどもの日」。

あたりが暗くなっていくほどに
会は熱気を増していく。

「またねっ」と言って
散会したのが何時のことか
憶えていないが、

あの心地よさは今も
心に残っている。

写真中央の宿の女将さんを囲む、
故郷離れ組。

 

ただ今、七日午前六時。
日記を書き終えたら、
借りてきた古いアルバムの
いくつかの写真のスキャンに
取り掛かる。

五日、リトルに着くと真っ先に、
お願いしていた北里家の資料を頂きに、
北里光男さん宅を訪ねた。

光男さんは二人を家の中に招き入れ、
そこから意外な展開に・・

話が進むうちに、光男さんは
お家の古いアルバムを持ち出した。

そのアルバムには、
スージィーの祖父やその妹さん、
それに家族。そして、
幼きスージィーの写真まである。
 

姉妹弟やおろか、叔父叔母も知らない
「この貴重な写真の存在を
皆に知らせたい」

スージィーの思いを
光男さんはこころよく聞き入れて頂き
お借りすることにした。

 

僅か二日間の
故郷リトル滞在にも関わらず、
車中に溢れる友人からの頂き物や、
ワラビ、古いアルバムは、

故郷の自然の恵み、歴史、生い立ち。

その生い立ちの中で
過ごした家族や友人の存在。

帰宅すれば、放心したかのように
頭を動かす余力もないほど
疲れたけれど、

今も故郷に心を縛られている
私が此処にいる。




故郷に感謝です。

古(いにしえ)に感謝です。

同級生に感謝です。 


四枚のジジーとババーの
「子供の日」の小さな同窓会の写真も
いつかは、古いアルバムの中。 
 

「涙そうそう」
夏川みり 

 

 

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「船酔い、悪酔、世良いの酔い」

2017年05月02日 | 日記

その昔、
営業職だった親父の苦手は
ごますり、オベンチャラ、お世辞、
愛想笑いだった。

顧客との
コミュニケーションの手段として、
相手の考えや趣味嗜好に
協調・賛同したふりをし

すり寄るのは、

成り行きをスムースに終結できる
策でもあるが、

例えば、
先方の意向に異を唱え、
持論を展開し、
正しきを諭(さと)せば、


たちまち、不穏な空気が漂い、
成り行きは一変、

まとまる商談も、破断の憂き目。

初期の目的を達することなく
終結を迎えることになる・・
 

「無骨者」と言えば
さもありなんだが、
所詮は世渡り下手な、「変わり者」


愛想笑いの苦手な親父は、
同様に、必要以上に気を遣うのも
苦手である。

「気配り」と「気遣う」は、
似て非なり。

愛想笑いや、気遣いの
必要な人付き合いは
できればご遠慮させて頂きたいし、

私的な人付き合いなら尚のこと、
「真っ平ご免!」で通したい。


親父にとって
明日から始まるGWは、
先ずは明日、博多湾の魚釣りで
スタートする。

続いてリトルでは、
愛想笑いも気遣いも不要な連中と
穏やかな空気漂う環境で
一夜を過ごすことができる。

かくも「快適」とは、
こう言ううことだろう。

くれぐれも、快適さに乗じて、

船酔いしないこと、

悪酔いしないこと。
 

曲は季節柄、

「グリーン・フィールズ」

と言えば、
ブラザース・フォー 

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「続:杉の木洩れ日」

2017年05月01日 | 日記

29日土曜日、昨年のお盆以来の
久しぶりの故郷リトルは、

昨年4月の熊本震災に続く10月、
約20棟を全焼する
大火に見舞われた。


昨年8月以降、
故郷を訪ねる機会もなく、
かつての町の中心地で、町一番の
繁華街だった被災地が、

現在、どうなっているのか
気懸かりでならなかった。

この目で確かめようと、
故郷を離れる前に被災地を訪れ、
写真に収めることにした。

その動機は、物見遊山な
野次馬的心理は一切なく、

私の稚拙な当日記をご覧になる、
現在、故郷を遠く離れて過ごし、

撮影者と同じように
故郷を気遣う皆さんに、被災後の、
現在の様子をお届けできればの
純粋な思いによるもの。

正面は、雄国館


雄国館を背に 食堂と
車が停車した位置が中央停留所跡

中央停留所(左)前交差点より倉原方面を望む画像

瓦せんべいの横溝さんの店舗跡

29日の「加賀殿の神事」では、
故郷の思いを更に深くした私だが、

私以上に故郷の思いは深くても、
故郷への距離は遥か遠く、

5年、10年に一度、あるいは二度と、
故郷に身を置くことが
できない方達もいらっしゃる。

中には、距離以上に遥か遠くに
故郷を位置する人もいる筈。

その方たちに比べ、年に一度でも、
故郷に身を置くことができるのは
唯々「幸せ者」と言う他ない。


画像をご覧のように
かつての繁華街の佇まいは
被災を機に一変したが、

同じ様に、
そこに暮らした方たちの
被災後の暮らしも一変した。

被災地の皆さんが
元の暮らしを取り戻し
新たな佇まいの中で見せる笑顔を、
必ず、次回の画像に収められることを
切に願います。

願いが、もう一つ。 

29日の土曜日は
皐月の青空と新緑の薫風そよぐ、
時の流れを忘れるような

昔と少しも変わらぬ
故郷の故郷らしい
穏やかな天気でした。

叶うなら、杉の木洩れ日に
身を置いて頂く機会が再び、

皆様に訪れますようにと、
願うばかりです。

コメント (2)
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