現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

神沢利子「馬鈴薯と目」いないいないばあや所収

2018-01-24 15:34:44 | 作品論
 この短編でも、神沢は驚異的な記憶力で、幼稚園や眼科やさまざまな目の記憶(目ヤニ、ものもらい、いろいろな魚の目、馬鈴薯(これは芽ですが主人公は目だと思っています))について、克明に描いています。
 幼いころのことを描いた作品では、ケストナーの「わたしが子どもだったころ」が有名ですが、ケストナーに限らず子どものころの鮮明な記憶を持っていることは児童文学者にとって欠くことのできない資質(2013年にお亡くなりになった鳥越信先生もいろいろな本でそのことを書いています)のひとつです。
 その子どものころの記憶を様々な形で物語化するのが、児童文学作家の創作の出発点であることが多いでしょう。
 しかし、ケストナーの「わたしが子どもだったころ」やこの神沢の「いないいないばあや」は、ほとんどストーリーは作らずに、幼児体験(ケストナーの場合はもう少し大きいですが)そのものの中に、人の本質を探る試みをしています。
 そのために、二重視点(作中の幼い主人公と大人になった作者)を設定していることも、この二作品に共通している点だと思います。
「長い問わたしは幼年童話とよばれるものをかいてきました。わたしの場合、はじめは糧を得ることとも結びつき、その場合、求められるのは必ず幼年童話でしたから、自ら選ぶよりも選ばされて入った幼年奄詁の世界の魅カに今度は自分がとりつかれてかいてきたような気がします。
 そうして、年をとるにつれ、幼年のなかに在る人問の核のようなものにひかれていき、幼年の持つ意味はわたしの内に深く重いものになってきました。この四、五年、身近にうまれるこどもたちの誕生につきあってきて、感じさせられることがたくさんありました。なかでも、うまれたてのあかんぼうはほんのわずかな物音にも、とびあがるほど驚いてこぶしを震わせてつきだします。そのさまを見るたび、無防備なはだかでこの世に送りだされたものが、どんな不安と恐怖のただなかに生きているのか、胸が痛くなります。幼児もまた、自分の感情を言葉に表現して、うまく伝えるすべを知りません。自分の感情を論理づけて考えることもできないので、ただ、やみくもに恐ろしかったり不安だったりするのです。たったひとり、孤独のなかでそれらに立ち向かわなくてはならない時が、どんなに多いことでしょう。
 わたしの幼い日もたしかにそうだったのです。わたしは物語を自分のニ、三歳から五歳まで―時代にすると一九二八年前後になります―に区切って、光と影、明と暗双方を抱えた幼年そのものをもう一度見つめたいとねがって、これをかきました。わたしにとっては先にかいた「流れのほとり」の更に上流を溯ったものです。(あとがきより)」
 このような文学的な試みが、70年代後半の児童文学の出版状況では許されていましたが、商業主義化した現在では困難なことでしょう。

いないいないばあや (岩波少年少女の本)
クリエーター情報なし
岩波書店
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