尋常小学校三年生の時に一年間だけ教わった先生の思い出と、先生のお墓について書かれた掌編です。
ほとんどストーリーはなく、先生のエピソードも、最初の授業の時に黒板に大きな○を書いて子どもたちの答えをすべて正解とした上で先生の答えは地球であったこと、なんだかわからないが先生に悪い噂が立ったこと、その後先生が寂しそうにしていたこと、教師をやめて東京で学生(旧制の大学か?)になったこと、肺病にかかってひとり寂しく死んだこと、遺言で町の墓地に葬られたこと、などだけです。
しかし、その僅かな紙数の中で、読者に、生きること、世の中のこと、人の評価のこと、死ぬことなどが、ぼんやりとですが心に残ります。
特に、墓石すらなく、友人の手書きのぼうくいと二本の常盤木と誰かが持ち込んだいくつかの自然石があるだけで、雑草の中に草萩の赤い花やすすきの白い穂が背伸びしている先生の墓を、すぐそばの大往生した大金持ちの立派な墓石のある墓と対比することで、読者の子どもたちに人生の意味を考えるきっかけを与える象徴性は、漠然としているだけに深く心の中に残ります。
「おもしろく、はっきりわかりやすく」という、かつて「子どもと文学」(その記事を参照してください)が打ち出した路線を表面的になぞっただけの単一の価値観に支配されている現在の児童文学の状況を思うと、こうした象徴性を失ったことの大きさを改めて考えさせられます。
ほとんどストーリーはなく、先生のエピソードも、最初の授業の時に黒板に大きな○を書いて子どもたちの答えをすべて正解とした上で先生の答えは地球であったこと、なんだかわからないが先生に悪い噂が立ったこと、その後先生が寂しそうにしていたこと、教師をやめて東京で学生(旧制の大学か?)になったこと、肺病にかかってひとり寂しく死んだこと、遺言で町の墓地に葬られたこと、などだけです。
しかし、その僅かな紙数の中で、読者に、生きること、世の中のこと、人の評価のこと、死ぬことなどが、ぼんやりとですが心に残ります。
特に、墓石すらなく、友人の手書きのぼうくいと二本の常盤木と誰かが持ち込んだいくつかの自然石があるだけで、雑草の中に草萩の赤い花やすすきの白い穂が背伸びしている先生の墓を、すぐそばの大往生した大金持ちの立派な墓石のある墓と対比することで、読者の子どもたちに人生の意味を考えるきっかけを与える象徴性は、漠然としているだけに深く心の中に残ります。
「おもしろく、はっきりわかりやすく」という、かつて「子どもと文学」(その記事を参照してください)が打ち出した路線を表面的になぞっただけの単一の価値観に支配されている現在の児童文学の状況を思うと、こうした象徴性を失ったことの大きさを改めて考えさせられます。