大正時代の旧制高校を発祥地として、1970年前後までの半世紀の間、日本の大学に君臨した教養主義は、その後没落して見る影もなくってしまっています(別の記事に書きましたが、朝井リョウの「何者」には教養とは無縁の今の大学生の様子が良く描かれています)。
本書における教養主義とは、人格形成や社会改良のための読書によるものとされます。
私は教養主義が終焉した後の1973年に大学に入学したのですが、そのころでさえ、理系の学生は専門以外の本はほとんど読まず、文系の学生も遊びに忙しくてあまり本を読んでいないことに愕然とした覚えがあります。
また、そのころにまだ「教養主義」があったとすれば、それは読書だけではなく、名作映画や前衛的な演劇、最新の音楽などによっても培われるようになっていたと思います。
今は本だけでなくそれらの分野も、商業主義や娯楽主義にとってかわられ、ほとんど「教養主義」は存在しなくなっているようです。
幅広い教養を身につけるより、就職に有利な実務能力を身につけ、あとは商業ベースの娯楽に身をゆだねるのが、ほとんどの大学生の実態でしょう。
それは、70年安保の挫折、高度経済成長、大学の大衆化(非エリート化)などが原因と思われます。
この本では、教養主義の盛衰について、データを多用して詳しく説明されていますが、その社会背景などへの著者の考察が不足していて物足りませんでした。
さて、この「教養主義」は、児童文学の世界では1990年ごろまでは続いていました。
「教養主義」の洗礼を受けた大人たちが、創作活動や読書運動などを通して媒介者(子どもたちに本を手渡す人たち)として、「ためになる」本を子どもたちに啓蒙していたからです。
このことは、「現代児童文学」が1990年代まで続いた要因ともなりました。
なぜなら、「現代児童文学」は、いわゆる「世界名作児童文学」とならんで、「教養主義」的な要素を含んでいたからです。
また、この本では、マルクス主義が繰り返し教養主義と並立したり衰退し(弾圧され)たりしている様子が書かれていますが、「現代児童文学」の出発にはマルクス主義の影響が濃厚に関わっていた点も類似しています。
しかし、1980年ごろに確立された「子ども向けエンターテインメント」ビジネス(1978年にスタートした那須正幹の「ズッコケシリーズ」がその最初の大きな成功でしょう)が、さらに児童文庫の書き下ろしエンターテインメントやライトノベルなどに発展するにつれて、児童文学においても「教養主義」は没落していきます。
岩波少年文庫などの世界名作や、いわゆる「現代児童文学」の売り上げの低迷がそれを端的に表しています。
現代では、親(あるいは祖父母でも)の世代ですら、「教養主義」の洗礼を全く受けてない人たちが大半なのですから、子どもたちにそれを伝えることは不可能です。
教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書) | |
クリエーター情報なし | |
中央公論新社 |
善と知は異なる概念です。だから、岩波文庫を乱読しても知識は蓄えられますが、人格が良くなるとは思えないです。
昭和に入って教養主義は社会改良を目的にし始めました。自己の内面から外面へと対象を移したわけです。
私はこの変化を評価します。知識を蓄えて社会問題を考える事は矛盾した行動ではないです。
しかし、マルクス経済学だとか革命だとか西側先進国では到底使えそうもない道具に飛び付いた事が没落の始まりだったのではないでしょうか?
実現可能性の無いもののために努力するよりも友人と楽しい時間を過ごす方が若者の健全な姿だと思います。
また、学部生が文庫本を数十冊程度読んでも大した存在にはなりません。教養主義の読書経験は通過点に過ぎないです。
この状態に満足して甘えた革命ごっこに明け暮れるようでは到底エリートとは呼べません。エリートとは国を引っ張る当事者意識を持ち入学試験後も高みを目指し続ける存在です。後の世代に受け継がれなかったのは目指すべき存在には見えなかったからだと思います。