作者の代表作とされる「少年時代の画集」(1985年)から、この本の編者の宮川健郎が転載しています。
小学校六年生の「おれ」はビールス性肝炎の薬の副作用で、くちびるのみぎはしに葉っぱの形をした枯葉色のシミができています。
「おれ」の母ちゃんは、なんとかそのシミを消そうとして、祈祷師のばあさんや「ご教主様」のじいさんのところへ連れて行き、お金をぼったくられます。
「おれ」は、彼らの欺瞞を即座に見抜いて、威勢のいい啖呵を切って、その場を去ります。
その後、「おれ」は、脳腫瘍で亡くなったクラスメイトの沢辺の墓参りをします。
沢辺は、「おれ」の肝炎を心配して、いろいろな薬や体操などを調べてきて教えてくれていました。
沢辺の両親は離婚していて、今は愛知県豊橋市に住む(ほとんどの森作品の舞台は、彼が生まれ育ち今でも住んでいると思われる(一時期離れましたが)東京都立川市とその周辺です)母親は沢辺の死を今でも知りません。
沢辺の墓の前に一人で立った「おれ」は、沢辺に教わった「肝臓」にいいという体操のポーズを奉納するのでした。
「楽しい頃」という表題は、「おまえは口がわるいから、口のはじにしみなんかできるんだ。人生でいっとう楽しい頃なのに、けちがついたみたいでいやなんだよ。その口が。」という母ちゃんのセリフからきています。
つまり「楽しい頃」とは「子ども時代」のことを指すのですが、それとはうらはらに、この作品には、大人たちの欺瞞(母ちゃんも含めて)、大事な人の死(沢辺)、両親の離婚(沢辺)、飲んだくれの父親(沢辺)、クラスの女の子たちの裏側など、「楽しくない」ことばかりが描かれています。
しかし、それでもしぶとく生き延びようとする「おれ」の姿が、小気味のいいセリフとともに描かれています。
編者は、「少年時代の画集」に掲載されている他の作品(「22口径」「木馬のしっぽ」「少年時代の画集」(その記事を参照してください)「小さな紅海」(その記事を参照してください))も紹介しながら、森作品が「子ども時代の影を描いている」としています。
編者も触れているように、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)は、小川未明たちの「近代童話」などを批判することで1950年代にスタートしました。
「現代児童文学」の主張の中には、未明童話などにあった人生のネガティブな部分を切り捨てて、ポジティブな作品を子どもたちに提供しようということも含まれています。
解説用の紙数の関係からか編者は端折っていますが、そのために「現代児童文学」には作品に描かれないタブー(死、離婚、家出、非行などのネガティブなもの)が生み出されて、それらが破られるのは1970年代になってからでした。
ちょうどそのころに登場した新しい作家の一人が、森忠明だったのです。
彼の出世作は「きみはサヨナラ族か」(1975年)(その記事を参照してください)ですが、「少年時代の画集」で描かれているようなシニカルで一見人生に諦念しているように見える(実は内面では強く他者との連帯を求めている)少年像が確立されたのは、「花をくわえてどこへいく」(1981年)(その記事を参照してください)以降だと思われます。
編者は、「現代児童文学」の代表的な書き手であった後藤竜二と比較して、後藤作品が「子ども時代」の「光」を、森作品が「子ども時代」の「影」を描いていて、その両方が子ども読者には必要であることを、編者の子ども時代の実体験もふまえて述べています
編者の主張はその通りだと思うのですが、子ども読者に対する両者のスタイルはかなり異なります。
後藤は、非常に多様な作品(エンターテインメントに近い作品や絵本、歴史ものも含めて)を書き分ける、稀有な才能の持ち主でしたが、このことは編者も十分承知していることなので、森作品と比較するために一般文学で言えば純文学的な後藤作品に限って比較します。
後藤作品は、デビュー作の「天使で大地はいっぱいだ」(1966年)とその続編は、自分の実体験に近いところをベースにして、編者のいう「子ども時代の「明」の部分をストレートに描こうとしています。
しかし、以降の作品では、社会や子どもたちを取り巻くさまざまな問題を、オーソドックスな「現代児童文学」らしく、「変革」しようとする子どもたちや大人たちの姿をポジティブに描いています(時には、敗北感に満ちた作品もありますが)。
それに対して、森作品は、あくまでも自分自身の子ども時代の体験に基づいて、彼の創作のモチーフである生の多愁(死、病気、孤独、親しい人との別れ、離婚、家庭崩壊、欺瞞に満ちた大人たちなど)と、それゆえに内面で強く求めている他者との連帯を描いているのです。
初めは、発表時期(1970年代後半から1980年代前半ごろ)に合わせてアレンジしていましたが、途中からそれもやめて彼の少年時代(1950年代後半から1960年初頭ごろ)の立川周辺の世界を描いて言います。
おそらく森は極めて早熟で、1960年前後の子ども時代に、すでにそうした現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きることのリアリティの希薄さなどで、近代的不幸(貧困、飢餓、戦争など)と対比して使われる用語です)に直面していたのでしょう。
そして、高度成長期を経て、近代的不幸が克服されたと言われる1970年代や1980年代に、様々な理由(離婚、家庭崩壊、いじめ、受験競争など)で現代的不幸に苦しむようになった当時の子どもたちの「影」の部分にフィットしたのでしょう。
この本が出た1985年ごろに創作を始めた私の周辺にいた多くの書き手たち(長崎夏海、横沢彰、廣越たかし、最上一平、ばんひろこ、斉藤栄美など)も、一様に早熟でかつ大人社会と折り合いをつけることが苦手で、その創作のモチーフに森と同様のものを抱えていました。
他の記事にも書きましたが、1987年に、そのうちの何人かと一緒に、森忠明に話を聞きに立川へ行きました。
彼自身は、森少年がそのまま大人になったような、極端にシャイでその裏返しで人前ではサービス精神旺盛な人でした。
小学校六年生の「おれ」はビールス性肝炎の薬の副作用で、くちびるのみぎはしに葉っぱの形をした枯葉色のシミができています。
「おれ」の母ちゃんは、なんとかそのシミを消そうとして、祈祷師のばあさんや「ご教主様」のじいさんのところへ連れて行き、お金をぼったくられます。
「おれ」は、彼らの欺瞞を即座に見抜いて、威勢のいい啖呵を切って、その場を去ります。
その後、「おれ」は、脳腫瘍で亡くなったクラスメイトの沢辺の墓参りをします。
沢辺は、「おれ」の肝炎を心配して、いろいろな薬や体操などを調べてきて教えてくれていました。
沢辺の両親は離婚していて、今は愛知県豊橋市に住む(ほとんどの森作品の舞台は、彼が生まれ育ち今でも住んでいると思われる(一時期離れましたが)東京都立川市とその周辺です)母親は沢辺の死を今でも知りません。
沢辺の墓の前に一人で立った「おれ」は、沢辺に教わった「肝臓」にいいという体操のポーズを奉納するのでした。
「楽しい頃」という表題は、「おまえは口がわるいから、口のはじにしみなんかできるんだ。人生でいっとう楽しい頃なのに、けちがついたみたいでいやなんだよ。その口が。」という母ちゃんのセリフからきています。
つまり「楽しい頃」とは「子ども時代」のことを指すのですが、それとはうらはらに、この作品には、大人たちの欺瞞(母ちゃんも含めて)、大事な人の死(沢辺)、両親の離婚(沢辺)、飲んだくれの父親(沢辺)、クラスの女の子たちの裏側など、「楽しくない」ことばかりが描かれています。
しかし、それでもしぶとく生き延びようとする「おれ」の姿が、小気味のいいセリフとともに描かれています。
編者は、「少年時代の画集」に掲載されている他の作品(「22口径」「木馬のしっぽ」「少年時代の画集」(その記事を参照してください)「小さな紅海」(その記事を参照してください))も紹介しながら、森作品が「子ども時代の影を描いている」としています。
編者も触れているように、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)は、小川未明たちの「近代童話」などを批判することで1950年代にスタートしました。
「現代児童文学」の主張の中には、未明童話などにあった人生のネガティブな部分を切り捨てて、ポジティブな作品を子どもたちに提供しようということも含まれています。
解説用の紙数の関係からか編者は端折っていますが、そのために「現代児童文学」には作品に描かれないタブー(死、離婚、家出、非行などのネガティブなもの)が生み出されて、それらが破られるのは1970年代になってからでした。
ちょうどそのころに登場した新しい作家の一人が、森忠明だったのです。
彼の出世作は「きみはサヨナラ族か」(1975年)(その記事を参照してください)ですが、「少年時代の画集」で描かれているようなシニカルで一見人生に諦念しているように見える(実は内面では強く他者との連帯を求めている)少年像が確立されたのは、「花をくわえてどこへいく」(1981年)(その記事を参照してください)以降だと思われます。
編者は、「現代児童文学」の代表的な書き手であった後藤竜二と比較して、後藤作品が「子ども時代」の「光」を、森作品が「子ども時代」の「影」を描いていて、その両方が子ども読者には必要であることを、編者の子ども時代の実体験もふまえて述べています
編者の主張はその通りだと思うのですが、子ども読者に対する両者のスタイルはかなり異なります。
後藤は、非常に多様な作品(エンターテインメントに近い作品や絵本、歴史ものも含めて)を書き分ける、稀有な才能の持ち主でしたが、このことは編者も十分承知していることなので、森作品と比較するために一般文学で言えば純文学的な後藤作品に限って比較します。
後藤作品は、デビュー作の「天使で大地はいっぱいだ」(1966年)とその続編は、自分の実体験に近いところをベースにして、編者のいう「子ども時代の「明」の部分をストレートに描こうとしています。
しかし、以降の作品では、社会や子どもたちを取り巻くさまざまな問題を、オーソドックスな「現代児童文学」らしく、「変革」しようとする子どもたちや大人たちの姿をポジティブに描いています(時には、敗北感に満ちた作品もありますが)。
それに対して、森作品は、あくまでも自分自身の子ども時代の体験に基づいて、彼の創作のモチーフである生の多愁(死、病気、孤独、親しい人との別れ、離婚、家庭崩壊、欺瞞に満ちた大人たちなど)と、それゆえに内面で強く求めている他者との連帯を描いているのです。
初めは、発表時期(1970年代後半から1980年代前半ごろ)に合わせてアレンジしていましたが、途中からそれもやめて彼の少年時代(1950年代後半から1960年初頭ごろ)の立川周辺の世界を描いて言います。
おそらく森は極めて早熟で、1960年前後の子ども時代に、すでにそうした現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きることのリアリティの希薄さなどで、近代的不幸(貧困、飢餓、戦争など)と対比して使われる用語です)に直面していたのでしょう。
そして、高度成長期を経て、近代的不幸が克服されたと言われる1970年代や1980年代に、様々な理由(離婚、家庭崩壊、いじめ、受験競争など)で現代的不幸に苦しむようになった当時の子どもたちの「影」の部分にフィットしたのでしょう。
この本が出た1985年ごろに創作を始めた私の周辺にいた多くの書き手たち(長崎夏海、横沢彰、廣越たかし、最上一平、ばんひろこ、斉藤栄美など)も、一様に早熟でかつ大人社会と折り合いをつけることが苦手で、その創作のモチーフに森と同様のものを抱えていました。
他の記事にも書きましたが、1987年に、そのうちの何人かと一緒に、森忠明に話を聞きに立川へ行きました。
彼自身は、森少年がそのまま大人になったような、極端にシャイでその裏返しで人前ではサービス精神旺盛な人でした。
少年時代の画集 (児童文学創作シリーズ) | |
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