現代児童文学

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J.D.サリンジャー「ハプワース16,一九二四」サリンジャー選集別巻1所収

2022-05-08 15:07:31 | 作品論

 1965年に発表された、サリンジャーが公開した最後の作品です。
 いわゆるグラス家サーガのうちの一篇ですが、時代設定は一番古い1924年で、七人兄妹のうち下の二人はまだ生まれてもいません。
 私がサリンジャーを読み始めた1970年代初頭においても、まさかこの作品が最後だとは誰にも思われていなくて、「沈黙期間がいやに長いなあ」とか、「グラス家サーガのこれからの展開に苦戦しているのか?」とか、考えられていたように思います。
 しかし、今回、数十年ぶりにサリンジャーの作品を順に読み直してみると、この作品がグラス家サーガの最終作品であり、シーモァの遺書であると共に、サリンジャーの読者への惜別の書であることが強く感じられました。
 この作品では、1924年に当時7歳であったシーモァが、弟のバディと二人で参加していたサマーキャンプから、家族に宛てた非常に長い手紙(キャンプで怪我をして、ずっと一人でベッドに残されている時に書いた、という設定になっています)という形式をとっています。
 手紙には、全編、家族への愛が満ち溢れています。
 特に、二歳年下のバディ(この作品は、作家になったバディ(1965年当時46歳で、サリンジャーの分身だと言われています)がこの手書きだった手紙をタイプするという形で紹介されています)には、繰り返し最高級の賛辞を惜しまず、将来大作家になると予言しています(サリンジャー自身だと考えると、大ベストセラー作家になってしまった自分への皮肉だと考えることもできます)。
 両親(成功した芸能人(ボードビリアン)ペアで、母親は当時二十代の若さで引退を考えているようです)と兄妹(この当時、ズーイとフラニーはまだ生まれていないので、三歳年下の妹のブー=ブー、四歳年下の双子の弟、ウォルトとウェイカー)への愛情に満ちた真剣な助言が、痛切に心に響きます。
 また、キャンプ場の大人たちへの鋭く厳しい批評には、通俗的で儲け主義で思考力を持たない人々へのシーモァ(サリンジャー)の軽蔑が強く感じられます(さぞ、敵が多くて生きづらかっただろうなあと思ってしまいます)。
 一方で、普段異常なほど利用していた図書館の関係者には、ここでも批判的な視点はあるものの、彼らのサポートや助言に対する感謝と尊敬の念は示されています。
 最後に、彼らにキャンプへ送ってもらうように家族に頼んだ膨大なブックリストは、その理由も詳細に書いてあって、サリンジャー自身の読書リストだと考えると興味深いです。
 手紙の中には、シーモァ自身の人生が約30年(実際は31歳で自殺しています)であることや、この手紙の二年後に両親とシ-モァとバディが参加する重大なパーティ(このパーティ(これがきっかけでシーモァとバディ、その後他の兄妹たちも全員、がラジオ番組の「これは賢い子」に出演することになったのではないかと言われています。この番組への出演が、彼らの人生に大きな影響を与えることになります)についてバディが作品を執筆中であり、そのためにこの手紙を母親から送ってもらってタイプしているという設定になっています)に対する予言めいたことが出てきて、シーモァと同様の天才少年で予知能力を持つ「テディ」(その記事を参照してください)との共通性が感じられます。
 また、バディは、「バナナ魚にもってこいの日」、「テディ」、「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」らしき作品(それらの記事を参照してください)の作者であることが「シーモァ ― 序論」(その記事を参照してください)でほのめかされています。
 そう考えると、従来は、グラス家サーガに含まれる作品は、「バナナ魚にもってこいの日」、「コネチカットのグラグラカカ父さん」、「フラニー」、「ズーイ」、「大工らよ、屋根の梁を高く上げよ」、「シーモァ ― 序論」、そしてこの「ハプワース16,一九二四」の7作品と考えられていましたが、「テディ」も含めた8作品で考えた方がいいかもしれません。
 つまり、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」が世界中で大ベストセラーになった騒動以降に発表された作品全部ということになります。
 この作品を批判する時に、いくら主人公が天才だと言っても、とても7歳とは思えないと言われることがあります。
 それは当然で、ここでのシーモァはただの7歳ではなく、7歳の時の体験(実際にサリンジャーが、こうしたサマーキャンプを体験したのはを11歳の時のようですが)を48歳になったシーモァ(正確に言うと、シーモァ自身は31歳で亡くなってしまったので、この時46歳のバディ(サリンジャー)の力を借りて)が描いているのです。
 こうした、「主人公が子どもらしくない」とか、「大人の視点が入っている」というのは、児童文学の世界では作品をけなす(作品評や合評会などで)常套句なのですが(私もしょっちゅう言われましたし、もしかすると何度か言ったかもしれません(自分の痛みはいつまでも覚えていても、他人の痛みはすぐに忘れてしまうものです))、この作品のような一般文学だけでなく、児童文学でも作品によってはこうした書き方も有効だと考えています(一番成功している例は、神沢利子の「いないいないばあや」(その記事を参照してください)でしょう)。
 この作品の最後は、こう締めくくられています。
「再び、バンガロー七号のあなたたちを愛する二人の無気味な厄介者より五万回のキスを。」
 そして、それに続く署名はS・G(シーモァ・グラスのことです)と並んで、なぜかバディ・グラスではなくJ・D・サリンジャーになっています。

 

 

 

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