現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

佐藤宗子「<作品論>の行方」児童文学研究の現代史所収

2021-02-23 13:54:29 | 参考文献

 1962年に設立された日本児童文学学会の、四十周年事業として2004年に出版された「児童文学研究の現代史」に収められている、作品論の変遷について述べた論文です。
 日本において児童文学の研究の体制が整ってきた1976年に、日本児童文学学会が発行した三冊の本、「児童文学研究必携」、「日本児童文学概論」、「世界児童文学概論」においては、「作品論」は一つの独立したジャンルと考えられていたと指摘しています。
 それ以前にも、近代童話に対する作品評は存在しましたが、「作品論」として意識したものではないとしています。
 その後、ロラン・バルトや前田愛などの影響で、「テクスト」がより意識されるようになり、この論文が書かれた時点での佐藤の総括は、「<作品論>的なるものは、今日も健在である。ただしそれは、<作品論>という何かの領域が、他と領土をわけあうように存するのではない。そこでは、作品を一つの<テクスト>として対象にし、(何らかの理論を使いながら)批評行為を行うことで何が見えるか、が課題とされている」となっています。
 短い紙数で、明治時代からの百年以上の「作品論」の変遷が要領よくまとめられています。
 ただ、「作品論」のような批評行為が、1960年代までは「現代」の児童文学のあり方と密接であったのに対して、このように児童文学がひとつの学問として確立されていく過程で、「現代」の児童文学とどんどん遊離していったこともまた事実なのではないでしょうか。
 そして、そのことが、現在の学会自体の弱体化につながっていったのだと思われます。
 その証拠に、2012年に学会は五十周年を迎えたわけですが、すでに、1976年の大がかりな出版事業(上記三冊)はおろか、2002年の四十周年に企画されたこの本に匹敵するような出版事業すらできませんでした。

児童文学研究の現代史―日本児童文学学会の四十年
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柳田国男「おとなからこどもへ」こども風土記所収

2021-02-23 13:51:57 | 参考文献

 文芸評論家の柄谷行人も「児童の発見」(その記事を参照してください)の中で引用していますが、民俗学者の柳田国男はすでに戦前において、以下のように近代以前には「児童」や「こども」は大人と分離された概念ではなく、大人や青年と一続きの物であったことを指摘しています。
「児童に遊戯を考案して与えるということは、昔の親たちはまるでしなかったようである。それが少しも彼らを寂しくせず、元気に精いっぱい遊んで大きくなっていたことは、不審に思う人がないともいわれぬが、前代のいわゆる児童文化には、今とよっぽど遠った点がある。
 第一には小学校などの年齢別制度と比べて、年上のこどもが世話をやく場合が多かった。彼らはこれによって自分たちの成長を意識しえたゆえ、喜んでその任務に服したのみならず、一方小さい方でも早くその仲間に加わろうとして意気ごんでいた。この心理はもう衰えかけているが、これが古い日本の遊戯法を引き継ぎやすく、また忘れがたくした一つの力であって、おかげでいろいろの珍しいものの伝わっていることをわれわれ大供も感謝するのである。
 第二にはこどもの自治、彼らが自分で思いつき考え出した遊び方、物の名や歌言葉や慣行の中には、何ともいえないほどおもしろいものがいろいろあって、それを味わっていると浮世を忘れさせるが、それはもっと詳しく説くためにあとまわしにする。
 第三には今日はあまりよろこばれぬおとなの真似、こどもはその盛んな成長力から、ことのほか、これをすることに熱心であった。昔のおとなは自分も単純で隠しごとが少なく、じっと周囲に立って見つめていると、自然に心持のこどもにもわかるようなことばかりをしていた。それに遠からず彼らにもやらせることだから、見せておこうという気もなかったとはいえない。共同の仕事にはもとは青年の役が多く、以前の青年はことにこどもから近かった。ゆえに十二、二歳にもなると、こどもはもうそろそろ若者入りの支度をする。一方はまたできるだけ早く、そういう仕事は年下の者に渡そうとしたのである。今でも九州や東北の田舎で年に一度の綱引きという行事などは、ちょうどこのこども遊びとの境目に立っている。もとはまじめな年占いの一つで、その勝ち負けの結果を気にかけるくせに、夜が更けてくると親爺まで出て引くが、宵のうちはこどもに任せておいて、よほどの軽はずみでないと青年も手を出さない。村の鎮守の草相撲や盆の踊りなどもみなそれで、だから児童はこれを自分たちの遊びと思い、後にはそのために、いよいよ成人があとへ退いてしまうのである。」
 もちろんここでいう「子ども」は農村の子どもたち(高度成長時代以前はそれが日本社会の大半でした)をさしているのであり、武士の世界では近代以前にも元服という通過儀礼は存在していました。
 近代以降にこうした年齢別制度が確立されたのは、武士に代わる国民育成を目的とした徴兵制と学制のためですが、それでも、戦争直後までは、大半の「子ども」は小学校卒業(一部は高等小学校卒業)で、実社会の構成要因となりました。
 中学校に進むものは少数でしたし、ましてや高等学校や大学にまで進むものはごく少数のエリート(徴兵制においても優遇されていました)にすぎませんでした。
 そういった意味では、赤い鳥や小川未明に代表される近代童話が「子ども不在」あるいは一部の富裕層の「子ども」のみを対象としていたのは、当然のことだったと思われます。
 ただし、大正期にも、プロレタリアート児童文学という庶民の子どもたちを対象としていた例外はありました。
「現代児童文学」がスタートした1950年代半ばにおいても、児童文学を読むような子どもは少数派であり、彼らがいうところの「現実の子ども」「真の子ども」「生きた子ども」なども観念的なものにすぎなかったのです。
「現代児童文学」のスタートを支えた早稲田大学の学生たちや留学経験を持つ石井桃子などを含む「子どもと文学」のメンバーたちも、当時としてはごく一部のエリート層に属していて、彼らの書いた文章を今読んでみると、どちらのグループにもエリートゆえの自負心や使命感、気負いなどが感じられます。
 現在では徴兵制もなく、学歴の神話も崩れつつある中で、子ども(青年も含む)と大人の狭間がまたあいまいになりつつあります(昔と違っていつまでも大人にならないという形ですが)。
 すでに八十年代ごろから少子化(女性が子どもを産まない、あるいは少数しか産まない社会)が大人にならない女性たちを大量に生み出していましたが、バブルの崩壊以降は男性の非正規雇用化も進み大人にならない(あるいはなれない)男性も急増しています。
 そんな時代に、いい意味でも悪い意味でも「子ども」を強く意識していた「現代児童文学」が終焉し、子どもと大人(特に女性)に共有化されるエンターテインメントのひとつのジャンルとしての<児童文学>が誕生したのではないかといわれている(児童文学研究者の佐藤宗子など)のも、歴史的必然なのかもしれません。

こども風土記
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