goo blog サービス終了のお知らせ 

現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

西原理恵子「はれた日は学校を休んで」

2025-03-08 09:17:57 | コミックス

 1989年から1995年までに描かれた作品をまとめた、作者の初期短編集です。
 当時の現代児童文学(定義に関しては他の記事を参照してください)と非常に近い作品世界(例えば長崎夏海の作品などと)だったので、児童文学者の間でもかなり評判でした。
 作者は、現在では高須クリニックの関係者としての方が有名ですが、当時は若い感性の優れた無頼派(ギャンブルや酒やと異性関係など)の美人女性漫画家として注目されていました。
 学校への不適合、両親(特に母親)との愛憎入り混じった感情、友情(女同士だけでなく男同士も)、弱者(成績不良、貧困、動物、老人など)への複雑な視線など、今日でも子どもたちにとって重要な問題が、作者独特の善悪が入り混じった独特の視点で繊細に描かれていて、現在でも少しも古びていません。

はれた日は学校をやすんで (アクションコミックス)
クリエーター情報なし
双葉社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポール・ベルナ「首なし馬」

2025-03-06 09:37:55 | 参考文献

 1955年発行のフランスの児童文学の古典です。
 戦後しばらくして(おそらく1950年前後)のフランスの下町を舞台に、首なし馬(馬の形をした大型三輪車だが、首も取れてガラクタ扱いだった物)で、坂を猛スピードで下る遊びを中心にして団結している10人の少年少女のお話です。
 ひょんなことから、列車強盗団の1億フランの隠し場所を知ることになった彼らは、犯人逮捕に大きく貢献します。
 この作品の一番すぐれている点は、列車強盗団の逮捕というミステリーの部分(エンターテインメント)と、子どもたちの遊びを中心にした生活(自分たちでお金を稼いで、時には煙草を吸ったりもします)をいきいきと描いた部分(リアリズム)が、無理なく有機的につながっていることです(遊びの中で犯人逮捕のきっかけをつかみます)。
 ご存じのように、フランスは第二次世界大戦中はナチスに侵略されて悲惨な状況でした。
 そこからの復興期には、貧しく荒廃しているところも残っていますが、みんなが生き生きとエネルギッシュに生きていました。
 大人たちは生活するのに精いっぱいで、子どもたちに干渉する暇はありません。
 子どもたちは、戦争後のベビーブームで、町にはたくさん溢れていました。
 このような状況では、子どもたちだけの社会が、今では全く想像できないほど大きなものでした。
 もちろん、当時からいじめもありましたが、子どもたちの社会が、今のような水平構造(同学年で輪切りにされています)ではなく、垂直構造(小学一年から六年、時には中学生も一緒に遊んでいました)であったために、自然と年長の子たちは年少の子たちを面倒を見るようになり、そこには自治と呼んでも差し支えないような世界があって、その中でいじめなどの問題も、多くは大人の手を借りることなく解決していました。
 このような作品を、今リアリズムの手法で描いても、全くリアリティを持たないでしょう(ファンタジーの手法を用いれば、ハリー・ポッターの魔法学校ような独自の世界を描けますが)。
 現在では、子どもたちの世界は、家庭、学校、塾、スポーツクラブなどの習い事など、大人たちによって支配され、搾取され、細分化されているからです。
 こうした子どもたちだけの世界が崩壊したのは、決して最近の事ではありません。
 私はこの本が出版される前年の1954年生まれですが、私が幼少のころ(小学校低学年ぐらい)まではこうした子どもたちだけの世界はありましたが、私が年長(小学校高学年)になるころ(ちょうど東京オリンピックが終わった後です)には、私の育った東京の下町ではすでに崩壊していました。
 子ども数の減少や、塾や習い事などの教育ブームなどがその背景にはあります。
 日本が高度成長期に差し掛かって、大人たちにゆとりができて、子どもたち(それまでは少なくとも四、五人いた子どもたちが、各家庭に二、三人になっていて、一人っ子も珍しくなくなっていました)に干渉するようになったからです。
 おそらく、地域によっては、もう少し長い間、子どもたちだけの世界はあったかもしれません。
 しかし、農村や漁村では、長い間、子どもたちは労働力としてみなされていましたから、東京の下町のような自由に遊ぶ時間はずっと少なかっただろうと思われます。
 ところで、私はこの作品を小学校低学年のころに初めて読んだのですが、その本は講談社版少年少女世界文学全集の第29巻で1961年2月の発行です。
 わずか5、6年前にフランスで出版された話題作がすぐに日本でも読めたわけですから、日本の児童書の出版状況は今よりもはるかに健全だったのでしょう。
 そこに載っていたのは紙数の関係(一巻に複数の作品を掲載するため)で抄訳でしたので、犯人逮捕の部分はややあっけなかったように記憶しています(今回全訳で読んで、初めてその部分はすっきり納得できました)が、子どもたちの遊びや生活の部分はほとんどカットがなく、私が子どもの時に魅了されたのはこちらの方でした。
 特に、日本と違って男の子も女の子も一緒に遊び、主人公のフェルナンに、仲良しのマリオン(犯人逮捕の時に大活躍する犬使い(町中の犬たちと友だちで、口笛一つで何十匹も呼び集めることができます)の少女)が別れ際にほっぺにキスをするのを、ドキドキしながら読んだ記憶があります。
 ちなみに、この作品は、1963年にディズニーで実写映画化されて日本でも封切られたので、私も見た記憶があります。


首なし馬 (偕成社文庫)
クリエーター情報なし
偕成社



 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダウン・バイ・ロー

2025-03-05 09:38:11 | 映画

 1986年に公開されたジム・ジャームッシュ監督の映画です。
 留置所で知り合った三人の男が脱獄し、南部の湿地帯をさ迷い歩く話です。
 題名は「ムショ仲間」と言う意味のスラングだそうですので、そのまんまの映画です。
 ストーリー自体はいい加減なものなのですが、それはどうでもいいのです。
 荒廃した風景を切り取ったモノクロ写真の連続のような映像、しゃれた会話、三人の俳優(この映画に楽曲を提供しているシンガー・ソングライターのトム・ウェイツ、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(その記事を参照してください)でもおなじみのジョン・ルーリー、そしてなかでも異彩を放つロベルト・ベニーニ(後に「ライフ・イズ・ビューティフル」で監督主演をして、アカデミー賞やカンヌ映画祭などの賞を総なめにしています))の魅力が、画面に溢れていて観客を引きつけます。

ダウン・バイ・ロー [Blu-ray]
クリエーター情報なし
バップ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手塚治虫「鉄腕アトム」

2025-03-04 13:10:07 | コミックス

 私が生まれる前の1952年(前身の「アトム大使」は1951年から1952年まで)から、中学生になっていてすでに漫画を卒業していた1968年までの長期にわたって、少年マンガ月刊誌の「少年」に連載されたロボットSF漫画です。
 私は、少年漫画週刊誌世代(私自身は少年サンデーを家で取ってもらっていました(当時は近所の本屋が配達してくれました)が、近所の友だち二人と交換で回し読みをして少年マガジンと少年キングも読んでいたので、当時出版されていた少年漫画雑誌はすべてカバーしていました。
 少年ジャンプは1968年(週刊誌になったのは1969年)、少年チャンピオンは1969年(週刊誌になったのは1970年)からなので、すでに私は漫画を卒業していて、本屋での立ち読みで人気漫画(少年ジャンプは「ハレンチ学園」や「男一匹ガキ大将」など、少年チャンピオンは「あばしり一家」や「夕焼け番長」など)を読むぐらいでした(Hな漫画と喧嘩の漫画ばかりですね)なので、当時は鉄腕アトムの漫画自体はほとんど読んでいませんでした。
 しかし、1963年から1966年まで、日本初の30分テレビアニメシリーズとして絶大な人気(視聴率30%以上)を誇っていたので、当時小学生だった私にとっては、伊賀の影丸(その記事を参照してください)と並んで最大のヒーローでした。
 当時の私の下敷きや筆箱には、他の男の子たちと同様に、アニメのスポンサーだった明治製菓のマーブルチョコレートなどのおまけに付いていたアトムやウランちゃん(アトムの妹、今考えるとすごいネーミングですね)のシールやマジック・プリントがベタベタと貼ってありました。
 それにしても、アトムが誕生するはずの2003年は、1960年代の小学生にとっては遠い未来でしたが、あっという間に過ぎ去ってしまいました。
 同様の感慨に浸ったのは、1984年(ジョージ・オーウェルの「1984年」)、2001年(スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」)の時を今でも覚えていますが、2019年にはついに「ブレードランナー」(その記事を参照してください)の時代になってしまい、その30年後を描いた「ブレードランナー2049」(その記事を参照してください)が2018年に公開されました。
 現実は、それぞれの優れた作者たちが描いた未来世界とはかなり違った世界になってしまいましたが、「鉄腕アトム」も同様です。
 お馴染みの空飛ぶ車や巨大なコンピューターはご愛嬌ですが、アトムが原子力エンジンで動く設定には、福島原子力発電所の事故を経た現在では、やはりギョッとさせられます。
 当時は、原子力についてもっと楽観的で、放射能も制御できると考えていたのでしょう(作者に限らず、私も含めて大半の人が同様だったと思います)が、人類はあまりにも無知でした(今もあまり進歩していませんが)。

鉄腕アトム(全21巻+別巻2巻セット) (SUNDAY COMICS)
クリエーター情報なし
秋田書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マージェリー・シャープ「ミス・ビアンカ シリーズ1 くらやみ城の冒険」

2025-03-03 09:02:27 | 作品論

 この物語の世界には、「囚人友の会」という世界的なネズミたちの組織があります。
 この会のネズミたちは、囚人たちの心をなごませるために刑務所などにいき、「自尊心の高いねずみなら考えもしないような、ばかげた悪ふざけのお相手をつとめ」ることに精を出してくれています。
 さて、今回その「囚人友の会」の総会で議題に出されたのは、くらやみ城と呼ばれる監獄のことです。
 流れのはげしい川の崖っぷちに建てられ、崖のなかを掘りぬいたところに地下牢を置いているその監獄は、たとえ「囚人友の会」のネズミをもってしても、囚人のところにたどり着くことさえ困難な難攻不落の場所として有名です。
 よりによって、そこに囚われている詩人を救い出すという救出作戦が決行されることになります。
 詩人はノルウェー人であり、救出作戦のためには、通訳としてノルウェー出身のネズミが必要です。
 ネズミたちは、世界共通のネズミ語とその国の人間の言葉が使えることになっています。
 そして、そのノルウェーのネズミに「囚人友の会」の救出作戦を伝える者として名前があがったのが、ミス・ビアンカでした。
 ミス・ビアンカは大使の坊やに飼われている貴婦人のネズミで、坊やの勉強部屋の瀬戸物の塔で暮らしています。
 その大使一家が近々転勤でノルウェーに発つという情報が、「囚人友の会」にも伝わってきていました。
 つまり、ノルウェーまでもっとも早く救出計画を伝えられるのが、ミス・ビアンカだったのです。
 この本の面白さの第一にあるのは、ミス・ビアンカをはじめとするネズミたちのキャラクターが際立っている点があげられます。
 中でもミス・ビアンカは、なんといっても貴婦人ネズミです。
 渡辺茂男の訳による彼女のセリフ回しは、まるで「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンか、「エースをねらえ!」のお蝶夫人のようです(声優が同じなので、この二人のセリフ回しが一緒なのは当たり前ですが)。
 教養は高いけれど、気どり屋で、おいしい食べ物を与えられることがあたり前の生活をしてきた彼女は、ネズミたちにとっては天敵であるはずのネコに対して何の怖れもいだいていないという、まったく浮世離れしたところがあります。
 そんな世間知らずのミス・ビアンカが成りゆきとはいえ、ノルウェーまで赴いて救出計画に適任なネズミを探してくるだけでなく、自らも救出作戦にくわわって、くらやみ城までついていってしまうことになるのですから、まったく思いがけない展開です。
 ミス・ビアンカのお供をすることになる二匹のネズミたちにも、大使館の料理部屋に住むバーナードには沈着冷静な実務家、ノルウェーからミス・ビアンカに連れてこられたニルスには勇敢な船乗りといった際立った個性が与えられています。
 はたして監獄から詩人を脱出させるでしょうか?
 人間がやっても困難だと思われる難しい救出計画を、いかにしてクリアしていくのかがこの作品の醍醐味のひとつです。
 しかし、何より感心させられるのは、物語の中心人物がネズミであるという視点を常に意識していながらも、物語の進行においてミス・ビアンカ、バーナード、ニルスのそれぞれにもつ性格や特技を最大限にいかせるような工夫がなされている、という点です。
 たとえば、彼らはネズミであるがゆえに、その小柄な体格を生かして人目につくことなく移動し、人間を観察したり、移動手段である馬車のなかに潜り込んだりします。
 そうしたキャラクターの独自性という意味でもっとも顕著なのが、他ならぬミス・ビアンカです。
 バーナードの冷静さやニルスの勇気もたしかにこの冒険で必要ですが、それだけではどうにもできない窮地を切り抜けていくのに、ミス・ビアンカの女性としての魅力や機知がなにより有効に発揮されています。
 また、バーナードのミス・ビアンカへの恋心(ミス・ビアンカも騎士道精神あふれるバーナードに好意を持っています)や、バーナードとニルスのお互いを認め合った上での男同士の友情が、この作品に彩りを添えています。
 無事に囚人を救い出した後で、ニルスはノルウェーへ、そしてミス・ビアンカも大好きなバーナードと別れて、大使の赴任先のノルウェーの大使館へ戻ります。
 この作品は、1957年に発表されると、たちまち世界中でヒットした動物ファンタジーの代表作です。
 ケネス・グレアムの「楽しい川辺」やA・A・ミルンの「くまのプーさん」といった、イギリス伝統の動物ファンタジーの正統な後継者として高く評価されています。
 原作の題名はレスキュアーズ(救出者)で、日本では1967年に渡辺茂男の翻訳で「小さい勇士のものがたり」という題名で出版されました。
 私事で恐縮ですが、大学の児童文学研究会に入ったときに、最初に出席した読書会の作品が「小さい勇士のものがたり」でしたので、私にとっては思い出深い作品です。
 ちょうどそのころ(1973年ごろ)は、仲間内で三大動物ファンタジーシリーズと呼んでいた「ミス・ビアンカ」、「くまのパディントン」(その記事を参照してください)、「ぞうのババール」の翻訳が出そろったころなので、動物ファンタジーは一種のブームだったのかもしれません。
 それに、今までの動物ファンタジーの概念をくつがえす野ウサギの生態を徹底的に生かしたリチャード・アダムスの「ウォーターシップダウンのうさぎたち」も、1972年に出版されて邦訳は1975年に出ました。
 私も含めて児童文学研究会のメンバーはこの本に夢中になり、「フ・インレ」とか、「ニ・フリス」とか、「シルフレイ」といったうさぎ語を使って会話したものでした(「ウォーターシップダウンのうさぎたち」を読んでいないない人にはぜんぜんわからないでしょうが、つい書きたくなってしまいました)。
 また、日本でも斎藤敦夫の「グリックの冒険」が1970年に、「冒険者たち」が1972年に出ています。
 動物ファンタジーには、完全に擬人化されていて登場動物がイギリス紳士そのものになっている「楽しい川辺」から、生態的にはあまり擬人化していない「ウォーターシップダウンのうさぎたち」のような作品まで、さまざまな擬人化レベルがあります。
 「ミス・ビアンカ」シリーズは、その中庸に位置する擬人化度で、子どもが読むお話としてはよくバランスが取れています。
 斎藤敦夫の「冒険者たち」がトールキンの「ホビットの冒険」の影響を受けていることは有名ですが、動物ファンタジーの擬人化度の点では、この「ミス・ビアンカ」シリーズに影響を受けているように思えます。
 さて、マージェリー・シャープの「レスキュアーズ」シリーズは全部で9作品がありますが、日本では1967年から1973年にかけて4作が出版され、1987年から1988年にかけて「ミス・ビアンカ」シリーズとして7作が出版されています。
 訳者は渡辺茂男、出版社は岩波書店とまったく同じなのに、なぜか後のシリーズで邦名が変わっていて読者はこんがらがります。
 以下に、原作と翻訳の題名と出版年度を整理しておきます。
1.The Rescuers (1959)「小さい勇士のものがたり」(1967)「くらやみ城の冒険」(1987)
2.Miss Bianca (1962)「ミス・ビアンカの冒険」(1968)「ダイヤの館の冒険」(1987)
3.The Turrent (1963)「古塔のミス・ビアンカ」(1972)「ひみつの塔の冒険」(1987)
4.Miss Bianca in the Salt Mines (1966)「地底のミス・ビアンカ」(1973)「地下の湖の冒険」(1987)
5.Miss Bianca in the Orient (1970)「オリエントの冒険」(1987)
6.Miss Bianca in the Antarctic (1971)「南極の冒険」(1988)
7.Miss Bianca and the Bridesmaid (1972)「さいごの冒険」(1988)
8.Bernard the Brave (1977)
9.Bernard into Battle (1978)
 この本の大きな魅力のひとつに、ガース・ウィリアムズの挿絵があげられます。
 当時、結婚プレゼントの定番だった絵本「しろいうさぎとくろいうさぎ」(その記事を参照してください)の作者でもある彼の絵を抜きにしては、ミス・ビアンカ・シリーズの魅力は語れません。
 彼の手によるミス・ビアンカやバーナードやニルスは、最高に魅力的です。
 特に、ミス・ビアンカのかわいらしさには、当時熱狂的な男性ファンがついていたほどです。
 この挿絵は、「くまのプーさん」や「楽しい川辺」のシェパード、ケストナーの作品群のトリヤーの挿絵のように、作品世界とは切り離せなくなっています。
 残念ながら、シリーズの途中でガース・ウィリアムズが亡くなったので、5作目以降は別の人の挿絵になっています。
 そうとは知らずに、まだ翻訳が出る前に5作目以降の原書を苦労して(今のようにアマゾンで安く簡単に洋書が手に入る時代ではありませんでした)手に入れた時に、絵が違っていて非常にショックを受けました。
 なお、1977年にThe Rescuersのストーリーを中心にして、ミス・ビアンカ・シリーズはディズニーのアニメになっているので、今ペーパーバックを入手するとアニメの絵が表紙になっていてさらに大きなショックを受けます(これは「くまのプーさん」も同様です)。
 この作品は、良くも悪くも古き良き時代の英国ファンタジーの王道を行く作品です。
 ジェンダーフリーの現代では、ミス・ビアンカやバーナードのキャラクターは古臭く感じられるかもしれませんが、六十年以上も前に書かれた一種の古典として読み継がれるべき作品だと思います。


くらやみ城の冒険 (ミス・ビアンカシリーズ (1))
クリエーター情報なし
岩波書店



 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手塚治虫「火の鳥 羽衣編」

2025-03-02 08:22:33 | コミックス

 

 

 1971年10月に「COM」に発表された短編です。
 三保の松原の「羽衣伝説」の天女を未来人に変えて、核戦争などの文明批判を展開しています。
 「羽衣伝説」は「鶴の恩返し」などのような異類婚姻譚の変形なのですが、女性を未来人に変えることによって、SF的なタイムパラドックスや放射能汚染などを加味しています。
 すべてのコマを同一の横長に統一して舞台劇のように描いた実験作ですが、その分動きがなくなって手塚漫画の特長である映画のようなダイナミズムが失われています。
 また、どうしてもセリフに頼ってストーリーが展開されるので、風刺や文明批判が生な形で提出されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代

2025-03-01 09:23:31 | 参考情報
Casa BRUTUS(カーサ ブルータス) 2019年 3月号 [ル・コルビュジエと世界遺産]
マガジンハウス
マガジンハウス



 2019年2月から5月にかけて行われた展覧会です。
 タイトルから分かるように、ル・コルビュジエ(本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ)の「絵画から建築へ」移行する過程と、アメデ・オザンファンと共にキュビズム(立体派)を批判してピュリスム(純粋主義)を立ち上げる過程の両方を、混在させながらも要領よくまとめられています。
 前者については、もともと建築に携わっていたル・コルビュジエが、絵画を中心としたピュリズムの時代を経て、絵画だけの枠には収まり切らずに、建築、都市計画、出版、インテリア・デザインなど多方面にわたった活躍を見せるようになる過程(やがて絵画そのものは発表しなくなりますが、その創作は続けられて、彼のインスピレーションの源になり、それが多方面の分野へ展開されていきます)がよくわかりました。
 後者については、、アメデ・オザンファンから油絵の技術を吸収する一方で、建築の要素(作図的な理論)を絵画に持ち込み、ピュリズムの「構築と総合」の芸術を確立していく過程がよくわかりました。
 もっとも興味深かったのは、彼が実作だけでなく、自分が編集した雑誌でその創作理論を展開していった点です(ル・コルビジュという名前は、もともとは雑誌に執筆した時のペンネームでした)。
 そういった意味では、彼は建築や絵画などの芸術家であるだけでなく、それらの創作理論を展開する学者あるいは研究者でもあったのです。
 日本の児童文学の世界でも、かつては安藤美紀夫や古田足日や石井桃子のように実作と評論(研究)の両方で大きな実績を残した児童文学者がいたのですが、現在では全く見当たりません(しいて言えば、村中李衣かな?)。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武田勝彦「グラドウォラ=コールドフィールド物語群」若者たち解説

2025-02-28 08:52:24 | 参考文献

 訳者である鈴木武樹が、ジョン・F・グラドウォラあるいはホールデン・モリス・コールフィールドを主人公にした短編を一つのグループにまとめたのに即して解説しています。
 これらの作品は、サリンジャーの代表作である「キャッチャー・イン・ザ・ライ」ないしは、自選短編集「九つの物語」のための習作あるいは下書き的な性格を持っています。
 そのため、これらの作品自体を論ずるよりは、完成形の作品との差異やなぜそのように変化していったかを考察すべきだと思うのですが、そのあたりが中途半端になっています。
 また、アメリカ文学の流れとしての「ロマンス」から「ノヴェル」への変化についても言及していますが、こうした大きな話は限られた紙数の「解説」という場にはふさわしくなく、中途半端に終わっています。
 以下に各短編の評について述べます。

<マディスンはずれの微かな反乱>
 この作品は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の第17章から第20章にかけての内容の、ごく断片的な下書きともいえます(その記事を参照してください)。
 しかし、著者は、それとの関連に対する考察は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と「美しき口に、緑なりわが目は」とのあまり本質的ではない関連に触れただけで、この作品自体の評価としては、サリンジャーの巧妙なまとめ方は認めつつも完成度が低いとしています。
 この短編を読んで、ここから長編「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にどのように変化していったかを類推しようとしないのは、著者が実作経験に乏しいためと思われます。
 他の記事にも書きましたが、創作する立場から言うと、長編作品には、大きく分けると「長編構想の長編」と「短編構想の長編」があります。
 前者は、初めから長編として構想されて、全体を意識して創作される作品です。
 後者は、初めは短編構想で書きあげられて、そののちそれが膨らんだり、あるいはいくつかが組み合わさったりして、結果として長編になる作品です。
 サリンジャーは、自分自身も認めているように、本質的には短編作家です(長編は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」しかありません)。
 そうした作家の長編の創作過程を考察するためには、こうした初期短編は絶好の材料です。
 その点について、もっと掘り下げた考察をするべきでしょう。
 また、五十年以上前の文章なので仕方がないのですが、著者のジェンダー観の古さと、アメリカ人と日本人のメンタリティの違いが理解できていないことも感じられました。

<最後の賜暇の最後の日>
 平和主義者のサリンジャーの戦争批判の仕方について論じて、「エスキモーとの戦争の直前に」(その記事を参照してください)との共通点を指摘しています。
 ただ、この作品が、幾つかの点で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)のための習作の役割(詳しくはこの作品の記事を参照してください)を果たしていることが書かれていないので、物足りません。

<フランスへ来た青年>
 戦争で精神的に傷ついた青年が、妹からの手紙で救済されたことについて、「エズメのために ― 愛と背徳とをこめて」との関連で述べています。
 ここにおいても、幾つかの点で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)のための習作の役割(詳しくはこの作品の記事を参照してください)を果たしていることが書かれていないので、物足りません。
 また、当時の翻訳者が、日本と外国(この場合はアメリカ)との風俗や人間関係の違いから、読者にわかりやすくするという名目で勝手に意訳したり設定を変えたりすることについて肯定的に考えていることがほのめかされていて、驚愕しました。
 そう言えば、最近は少なくなりましたが、外国の文学作品や映画の日本でのタイトルはかなり大胆に変えられていて、オリジナルのタイトルを知って驚かされることがあります。
 もちろん、そちらの方が優れている場合もあるので、一概に良くないとは言えないのですが。
 例えば、スティーブン・キングの有名な「スタンド・バイ・ミー」は本当は主題歌のタイトルなのですが、オリジナルの「ボディ(死体)」よりはこちらの方が内容的にもしっくりします。
 サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も、初めの邦題は「危険な年頃」なんてすごい奴でしたし、日本で一番ポピュラーになっている「ライ麦畑でつかまえて」もなんだかしっくりきません。

<このサンドイッチ、マヨネーズがついていない>
 主として技巧面での解説をしていますが、この作品については「キャッチャー・イン・ザ・ライ」との関連が述べられています(詳しくはこの作品の記事を参照してください)。

<一面識もない男>
 サリンジャーの繊細な表現について肯定的な評価をしていますが、明らかな誤読か見落としがあって、この作品もまた「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の原型の一つであることに気づいていません(詳しくは、この作品の記事を参照してください)

<ぼくはいかれている>
 この短編が、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の原型であることは述べていますが(まあ、誰が読んでも明白なのですが)、それについての具体的な考察はなく将来の研究(他者の?)に委ねてしまっています(私見については、この作品の記事を参照してください)。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トイ・ストーリー4

2025-02-27 08:33:39 | 映画

 人気アニメ・シリーズの第4作です。
 ディズニーらしいハッピーエンディング・ストーリーなのですが、よく練られたストーリーで大人の鑑賞にも十分耐えられます。
 夏休みの子どもたちと引率の親たち(圧倒的に母親ですが)で満員の場内には、終始大きな笑い声が響いていました。
 そのタイミングを観察していると、子どもたちが笑うシーンと大人が笑うシーンは見事に違っています。
 子どもたちはちょっとした言葉の面白さやギャグに敏感ですし、アクションによるドタバタシーンへの反応もいいです。
 もちろん、大人たちもそういったシーンでも笑っているのでしょうが、もう少し手の込んだギャグやユーモアに対しては子どもたちよりも大人たちの笑い声の方が目立ってっていました。
 意外にオーソドックスな人間(?)関係(持ち主の子どもとおもちゃ、恋愛、男同士の友情、親子の愛情など)は目新しい物ではありませんが、その方が子どもたちにも理解しやすいのかもしれません。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トイ・ストーリー2

2025-02-26 09:04:16 | 映画

 1999年公開の人気アニメシリーズの第二作です。
 前作から四年後の作品ですが、持ち主のアンディの家族の様子を見ると、映画の中の設定は前作の直後のようです。
 この作品では、おもちゃが壊れたり、持ち主が大きくなったりすることによって、おもちゃとサヨナラする日がテーマになっています。
 それは、人間側から見ると、「子どもの時代にサヨナラする日」を意味するので、児童文学の大きなモチーフの一つです。
 そして、このテーマは後に「トイ・ストーリー3」(その記事を参照してください)で、深化されてその素晴らしいラストシーンへと昇華されます。
 また、この作品でも、主人公のウッディ、アンディ、バズ・ライトイヤーの三人の友情が作品を支えています。
 特に、前作でウッディに救ってもらったバズが見せる男気は、観客の男の子たち(子供時代を忘れない大人の男性も)にはたまりません。
 また、新登場のカウガールのジェシーとかつての持ち主のエミリーとの悲しい別れ(エミリーが成長しておもちゃに関心がなくなり、ジェシーは捨てられてしまいます)が描かれ、女の子のファンも拡大されたことでしょう。
 この作品では、おもちゃを取り巻く環境の変化も巧みに取り入れられています。
 ウッディが、かつて白黒テレビ時代の操り人形劇の主人公で、関連グッズもたくさん販売され、おもちゃコレクターの間で莫大な金額で取引されるプレミアな人形だということがわかり、そのためにおもちゃ屋のオーナーに誘拐されます(最終的な行き先が日本のおもちゃ博物館だというのが笑えます)。
 テレビゲームのヒットにより、バズは大人気おもちゃになり、おもちゃ屋には多数のバズが並んでいて、「俺が本物だ」と争うのも笑えます。
 誘拐されたウッディ救出のためにお約束の冒険活劇が繰り広げられますが、結果として、従来のおもちゃのメンバーに、元気少女のジェシーやウッディの愛馬のブルズアイといった魅力的なキャラクターが仲間に加わり、アンディのおもちゃたちへの愛情も再確認でき、ディズニーらしいハッピーエンドで物語が終わります。

トイ・ストーリー2 (吹替版)
ヘレン・プロトキン,カレン・ロ・ジャクソン
メーカー情報なし
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする