ハロウィンもたけなわであるが、しかし多くの日本国民は沈黙している。
(お子さんがいらっしゃる家庭は何かしらイベントをしているとは思うが・・・)
さて、沈黙の理由について、考えてみる。
なぜ沈黙しているのか。それはなぜかと言うと、数年前までそういう風習が無かったからである。
最近はSNSの登場と相まって、仮装で繁華街に繰り出す人も増えたが、日本人にはまだ馴染みがない。
さて、それ以上にとまどうのが「ハロウィンって何をお祭りするの? 」ということであってよく分からない。
例えば、ハッピークリスマス! と言えば、ああ、サンタさんの元ネタになった聖ニコラウスの善行を讃えてお祝いしたり感謝したりするんだな、というぼんやりとしたイメージはあるのだが、ハッピーハロウィンというのは怖いものをお祝いするの? いたずらするものと伴ってお祝いするの? という感じで今ひとつピンと来ない。
これは社会返報性に由来する。
聖人に対する信仰やそれに伴う感謝の気持ち、あるいはそれへの返報というのは、その象徴たる対象の善行が元になる。
それに感謝したり、讃えたりするのは人として自然な気持ちで、ハッピーと言う言葉が出てくるのは普通である。
ここへ来て、怖がらせるものと一緒にハッピーというのはまだ日本人には違和感がある。
いや、元々、先祖霊やアミニズムへの恐怖や感謝を伴った畏敬の念というのは日本にも存在した。
ここから仮説である。
これと同様の恐怖と畏敬のアミニズム信仰は世界各地にあり、ハロウィンの発祥でもあるケルトでも同様ではなかったか。
実際、発祥に比較的近いアイルランドでは、アメリカのような賑やかなものではなく、厳かに進行する式であるのだという。
テレビの放送では、そこへ来て、アメリカ人が日本のハロウィンを「これはハロウィンじゃないんじゃないかな」と言えば、「いや、アメリカこそが違う」とアイルランド出身の人が反論していた。
元々精霊と悪霊のモチーフであった静かな行事は、アメリカに入って変質し、日本に入って更に変質した。というのが私の仮説である。
その変質の最中、元々人間が伝統社会的に持ちうる恐怖と畏敬と感謝の気持ちというのが、物質的発展に伴って、「ハッピー」という化学調味料が添加されたのではないか。
「伝統社会的に持ちうる恐怖と畏敬と感謝の気持ち」にはハッピーという気軽な幸福は入っていなかった、と予想する。
(お子さんがいらっしゃる家庭は何かしらイベントをしているとは思うが・・・)
さて、沈黙の理由について、考えてみる。
なぜ沈黙しているのか。それはなぜかと言うと、数年前までそういう風習が無かったからである。
最近はSNSの登場と相まって、仮装で繁華街に繰り出す人も増えたが、日本人にはまだ馴染みがない。
さて、それ以上にとまどうのが「ハロウィンって何をお祭りするの? 」ということであってよく分からない。
例えば、ハッピークリスマス! と言えば、ああ、サンタさんの元ネタになった聖ニコラウスの善行を讃えてお祝いしたり感謝したりするんだな、というぼんやりとしたイメージはあるのだが、ハッピーハロウィンというのは怖いものをお祝いするの? いたずらするものと伴ってお祝いするの? という感じで今ひとつピンと来ない。
これは社会返報性に由来する。
聖人に対する信仰やそれに伴う感謝の気持ち、あるいはそれへの返報というのは、その象徴たる対象の善行が元になる。
それに感謝したり、讃えたりするのは人として自然な気持ちで、ハッピーと言う言葉が出てくるのは普通である。
ここへ来て、怖がらせるものと一緒にハッピーというのはまだ日本人には違和感がある。
いや、元々、先祖霊やアミニズムへの恐怖や感謝を伴った畏敬の念というのは日本にも存在した。
ここから仮説である。
これと同様の恐怖と畏敬のアミニズム信仰は世界各地にあり、ハロウィンの発祥でもあるケルトでも同様ではなかったか。
実際、発祥に比較的近いアイルランドでは、アメリカのような賑やかなものではなく、厳かに進行する式であるのだという。
テレビの放送では、そこへ来て、アメリカ人が日本のハロウィンを「これはハロウィンじゃないんじゃないかな」と言えば、「いや、アメリカこそが違う」とアイルランド出身の人が反論していた。
元々精霊と悪霊のモチーフであった静かな行事は、アメリカに入って変質し、日本に入って更に変質した。というのが私の仮説である。
その変質の最中、元々人間が伝統社会的に持ちうる恐怖と畏敬と感謝の気持ちというのが、物質的発展に伴って、「ハッピー」という化学調味料が添加されたのではないか。
「伝統社会的に持ちうる恐怖と畏敬と感謝の気持ち」にはハッピーという気軽な幸福は入っていなかった、と予想する。