とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

そろそろこのブログ辞めたい

2015-03-21 14:35:53 | 雑感
雑感。
そろそろこのブログを辞めたい。

いや、別にブログ記事を書くことは苦痛でも何でもなく、可能であれば三日間連続で書くことも可能だし、むしろ書かないことの方が私の頭がパンクするので苦痛になる。
元々このブログをやりだしたのは、頭の中にあることをアウトプットしないと頭がパンクしてしまうという体調管理の一貫で始めたものである。

ただ、別の問題が出てきた。
ブログを書くことによって、替わりに実生活の殆どがなおざりになってしまっていて、充足した人生が送れなくなってしまった。

ひとまず言いたいことはまだ山ほどある。
「お金とは何か」「経済とは何か」「兵器とは何か」「差別とは何か」「宗教とは何か」。
これら私が発見したりしたことを述べていきたいのだが自分自身の実生活の時間が無くなってしまう(金持ちになって本でも出版して、それで飯を食うことができればいいが・・・)。

このままではブログ制作画面に張り付きっぱなしで人生が終わるのはやめにしたい。
それにある程度書かなくても頭はパンクしないだろう。

* * * * * 

この直接の原因になったのは、福澤諭吉の「学問のすすめ」である。
2005年、私はこの書籍を購入した。

実は書籍「学問のすすめ」には、現代で購入できるものについては、何バージョンか存在する。
明治の文体で書かれた原文(読みにくい)と、その原文に注釈を加えた校注版(伊藤正雄校注)、完全に現代語訳した現代語訳版(斉藤孝訳)、これに加え、マンガなんてのもあった。

私は最初に手に取ったのが伊藤正雄校注版だった。これがなかなかいい塩梅であった。なぜかと言うと、後で購入した斉藤孝さんが訳した現代語訳版は原文に比べて味が無く(すみません・・・)、かと言って、原文でも難しすぎる。味もあって、解説も丁寧にある、という伊藤正雄さんの校注版が一番良い具合だったのである。
私はこれを読んで「生涯の読書はこれ一冊でいい」と思った。それくらいに良い内容が書いてあった。。。

のだが、やはり注目する箇所というのは加齢につれて変化するらしく、その部分部分を忘れてしまうようになった。

さて、伊藤正雄さんの校注版は良かったが、斉藤孝さんの訳本はなんとなく味気なかったかな・・・と思っていて伊藤正雄さんの訳本が出ていないものだろうか、と思った折、それがまさにドンピシャで出版されていることを先日知ったのである。

早速購入し、読み直すことにした。
そこで再度の衝撃を受けることになる。
長くなるが引用しよう。

現代語訳 学問のすすめ 福澤諭吉著 伊藤正雄訳 P1より

初編(明治五年二月)

天与の人権
 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という(西洋の)言葉がある。この意味はどうかというと、「神様が人間を造るに当たっては、どの人間にもみな平等の権利を授けられた。だから、生まれながらに貴賎上下の差別などというものはない。人間はみんな、万物の霊長たる固有の身心の活動により、天地間にあるすべての物質を利用して、衣食住の役に立てることができる。そうして、だれに遠慮気がねもなく、しかもお互い同士迷惑をかけ合うこともなしに、めいめいが安楽にこの世を渡れるようにしてやろう、とそういうのが神様のおぼし召しなのだ」という意味である。

学問の必要
 ところが、今広くこの人間社会を見渡すと、賢い人間もあれば、愚かな人間もある。貧乏人もあれば、金持ちもある。身分の高い人もあれば、低い人もあって、その実情には天地の総意があるように見える。それはなぜかといえば、理由は、簡単明瞭である。『実語教』という本に、「人学ばざれば智(ち)なし、智なき者は愚人なり」と言ってある通り、賢人と愚人との区別は、学問をするかしないかによって決まるのだ。
 また、(賢人愚人の区別だけではなく、身分の貴賎や貧富の相違も、学問の有無から生ずるのである。すなわち)世の中には、むずかしい仕事もあれば、やさしい仕事もあるが、そのむずかしい仕事をする人を身分の高い人といい、やさしい仕事をする人を身分の低い人という。すべて精神的に苦労の居る仕事はむずかしい仕事であり、手足を使うだけの肉体労働はやさしい仕事である。医者とか、学者とか、政府の管理とか、または大きな商売をする町人とか、大ぜいの奉公人を使用する大百姓などは、みな身分の高い、偉い人といえる。身分が高くて偉い人になれば、自然財産も豊かで、下の者から見れば、まるで手も届かない、違った人種のように思われる。けれども、その相違のもとはと言えば、やはりその人に学問の力があるかないかによって、それだけの相違ができたまでのことだ。別に生まれながらに神様から決められた宿命ではない。ことわざに、「神は富貴を人間そのものに与えるのではなく、その人の活動の報酬として与え給うものだ」といってある。そこで前にも言ったように、人間は生まれつき貴賎貧富の別があるわけではない。ただ学問に励んで、物事をよく知った人間は、偉い人となり、財産家となり、無学な人間は、貧乏人となり、つまらぬ身分になるだけのことなのだ。

和漢学の迂遠
 但し、ここでいう学問とは何か。それはただむずかしい字を知ったり、わかりにくい古文を読んだり、和歌を詠み、詩を作るというような、実社会に役立たぬ学問をいうのではない。むろんそれらの学問も、自然と人の心の慰みとなり、随分結構なものではあるが、昔から漢学者や国学者などが言うほど有難がるべきしろものではない。昔から、漢学者に生活のきり回しの上手な人間は少ないし、和歌がうまくて、商売上手というような町人もめったに聞いたためしがない。そこで用心深い町人百姓は、子供が学問に精出すのを見ると、こいつはいずれ財産をつぶすのではないかと、親心から心配する者がある。無理もないことだ。つまりはその学問なるものが、実用に縁遠くて、日常生活の間に合わぬためである。
 そこで今は、そんな暇つぶしの学問は棚上げして、まず勉強しなければならぬのは、万人に共通の、日常生活に密接な「実学」である。


というわけで私が今しているのがまさにそうじゃないか、ということを認識したわけである。
いや、私は別に学者じゃないし、博士でもないけれども、面白いがゆえに書籍を読み漁ってはいるけれども、それが何の役にも立たない。

鳩山元首相が質実ともにどアホウで、イラン、中国に続きロシアにまで一本釣りされて、ああ、アホだなとか思っても私の生活には何のフィードバックも無いわけである。

確かに外交に関しては若干詳しくなったけれども、それが面白い以上に何の役にも立たぬのだ。

物理の時間の定義を見つけて自分で納得した? それが何の役に立つ。
私の人生に必要なのは安定した人生なのだ。

ということでちょろちょろ書いてはいたが、そろそろペースダウンしたい。
生活の見直しと人生の見直しの為に。そして自分自身のために。

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