自分の臭いと言うのは自分では分からない。
なので、「自分って今臭いかな? 臭くないかな? 」と言うのは自分自身では判定できない。
なので、一切を気にせず生きていくか、もしくはそれなりに身ぎれいにしていれば、自分で分かってなくとも臭いはないだろうと自分自身を納得させるか、あるいは他人に指摘してもらうか、あるいは臭いチェッカーなどの機械を使うかの対応をすることになる。
では、これらは哲理としてどう捉えればいいか。
簡単に書くと、相対認識と集合による疑似絶対認識である。
仮に臭いが地球上に一種類だけあったとして、それの臭さを0が完全なる無臭、10が激臭でその場にいられないと言うものさしと尺度があったとする。
この尺度の中では、自分がどこにいるのかが分からない。
分かるのは、臭いか臭くないかの判定をする時、自分をゼロと言う形で基底したプラスの方向に触れているか否かが分かるだけである。
この本来はものさしという絶対尺度が欲しいし、世間的にはこれで判定しているのだが、自分自身はこのものさしを持ってない、と言うことにある。
一番近しいのは臭いチェッカーなどが絶対尺度なので、これがあればいいのだが・・・
なので、「自分って今臭いかな? 臭くないかな? 」と言うのは自分自身では判定できない。
なので、一切を気にせず生きていくか、もしくはそれなりに身ぎれいにしていれば、自分で分かってなくとも臭いはないだろうと自分自身を納得させるか、あるいは他人に指摘してもらうか、あるいは臭いチェッカーなどの機械を使うかの対応をすることになる。
では、これらは哲理としてどう捉えればいいか。
簡単に書くと、相対認識と集合による疑似絶対認識である。
仮に臭いが地球上に一種類だけあったとして、それの臭さを0が完全なる無臭、10が激臭でその場にいられないと言うものさしと尺度があったとする。
この尺度の中では、自分がどこにいるのかが分からない。
分かるのは、臭いか臭くないかの判定をする時、自分をゼロと言う形で基底したプラスの方向に触れているか否かが分かるだけである。
この本来はものさしという絶対尺度が欲しいし、世間的にはこれで判定しているのだが、自分自身はこのものさしを持ってない、と言うことにある。
一番近しいのは臭いチェッカーなどが絶対尺度なので、これがあればいいのだが・・・
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