とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

役に立たないもの(?)をなぜ研究・発見しなければならないのか

2018-08-12 15:16:35 | 哲学・社会
よくある基礎研究で「役に立たないものに投資する価値はない」と言う。
その通り。役に立たなければ(金を稼げなければ)投資する価値はない。

しかし、一方でその考えではいけない、と言う論も耳にする。
役に立たないものの発見で今の我々の社会が成り立っているからだ。

これを具体例を提示しがてら、交通整理してみよう。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

1.
素数の歴史は古く、紀元前1600年頃(今から3600年前頃)に素数の知識があった。
これを体系的に研究したのは紀元前300年頃(今から2300年前頃)にギリシャで研究があった。

そしてこの素数と言う数理が、現実の社会に応用されて役に立ったのはいつか? 
1970年代、素数が公開鍵暗号のアルゴリズムに使用できることが分かった時期である。

つまり発見から少なくとも3500年、研究体系ができてから2200年は、この研究は「全く役に立たなかった」のである。

2.
1880年代、ハインリヒ・ヘルツが「わたしが発見した無線通信波に今後、実用化の道が見つかるとは思えない」と断言した。
十年後(1890年代)、グリエルモ・マルコーニは無線電信を発明した。が、ラジオ放送は想像もできなかった。
1900年、レジナルド・フェッセンデンはラジオの通信テストに成功した。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

と言うことで、役に立たない研究は、その後の時代に役に立つ。

が、ここで、「じゃあ無意味なものを研究すればいいんだ」と言う論にするのは実に早計だ。
注意深く読んでほしい。上記では「(その場その場で)役に立たないもの」を挙げている。「無意味なもの」ではない。

この「役に立たないもの」と「無意味なもの」と言うものはイコールではない。
その違いは何か、と言うと、人間による有意な哲理的発見、と言うことになる。

ローマの時代に算用数字のゼロは無かったが、それでも高度土木建築は可能であった。
そこでゼロが登場しようが、無用の長物だっただろう。
ここで考えたいのは、人間の哲理的発見と言うのは、即時の効用性をもたらさないことにある。
これは人間が純粋に「あれはどうなんだろう? 」「これはどうなんだろう? 」と哲理的な疑問に対して解を置い続けたことの結果に帰する。
そしてそれを体系化し、大事にした社会が最終的に勝利を収める構図になっている。


この哲理的発見を大事に研究してきた人類社会は、その知体系の構築により、高度社会を実現するに至った。

上記で「人類社会は」とは書いたものの、人類一般がその知的発見とその運用において、繁栄の勝利を収めるわけではない。
それは部分局所的に、知を大事にした場所に繁栄が訪れる。

知を大事にしたイスラムは、イスラム黄金期と呼ばれる時代をもたらした。
知体系を構築した欧米は、今まさにその恩恵に預かっている。

逆の例を考える。この世界には、知識体系を捨てたり、あるいは維持できなかった人間社会も存在する。
ギリシャ時代に地球は球体であると発見していた学術体系は、西暦6世紀頃に若干ナリをひそめ、コスマス・インディコプレウステース僧が、聖書の記述から「地球とは箱の中にあり、星はその天井からぶらさがっている」と導き出し、その内容をキリスト教地誌学に編纂した。
欧州の暗黒時代においては、その知体系と運用が失われ、かつてローマがスペイン地方に築いたセゴビア水道橋は、その後の時代で建築できなくなり、悪魔にしか作れない、悪魔が作ったのだという伝承を残して「悪魔の橋」と呼ばれた。

現在における米ペンシルベニア州に住む宗教集団「アーミッシュ」は、移民当時の生活を頑なに維持ししている。
科学技術の一切を生活に使用することはなく、よって移動は馬車を使い、家には電話がない。
(※ペンシルベニア州で通行する車両はウィンカーをつけなければいけないという州法があるため、アーミッシュの乗る馬車はどうするという問題があったが、蓄電式ウィンカーをつけることで解決した模様だ。)

カンボジアではポル・ポトが、知識集団を否定し、知識人を大量殺害したため、現在においては最貧国の一つとして数えられ、主な産業が売春となるに至っている。

北朝鮮では、金王朝の系譜となる著作の全集に、社会体制がほぼ従わなければならない。
稲を植える間隔もそこに書かれており、後に「○cm間隔だとより多く収穫できる」と言うことが発見されても、なかなかそこから動くことができない(稲の間隔の記述が改善されたかどうかは分からないが、体制政策に修正を加えたい場合は、「新しい文章が発見された」と言う体で追加の文集が出る)。
ちなみに近年北朝鮮で刷新された金正恩体制では、農業に改良を加えたので、農作物の収穫量が上がっていると言う話もある。
(この話の真偽はまだ分からない)。

ロシアにおけるロシア正教分離派は、知識を否定する。
エホバの証人においては、大学進学を否定している。
マザー・テレサは、キリスト教の信仰を背景に、あるがままの痛みを受け入れることを患者に説き伏せ、現代の治療を受けさせなかった。


我々はその知的営為を背景に、電化製品を使用することができたり、あるいは、自動車、船、バス、電車、飛行機での移動を可能にしている。
あるいは延命治療や、完治するための薬をもらえたり、日々の食を得られたりする。

それは何によってか? 
そう、即時の効用をもたらさなかった、哲理的概念の発見の蓄積と体系化、及び運用によってである。

それでは我々は何をすべきか? 
答えは、基本的な疑問の問いは大体解決しているので、インターネットで調べるか、あるいは本をよく読んで、その知識を吸収することである。
そして何より大事なのは、そこで見つからなかった解を自分で追い求める場合、それが世の中に即時的に役に立たなさそうであっても、素朴な疑問を持つことを社会的に許容し、そして社会的に推奨することだ。それこそが、知体系構築がもたらす、長期スパンにおける社会繁栄の基礎となる。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 直線フォントはできればやめ... | トップ | AIに関する個人的メモ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

哲学・社会」カテゴリの最新記事