とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

映像作品とは何か

2018-03-03 09:07:55 | 哲学・社会
古くはニッケルオデオンから、現代のYoutubeに至るまで、その映像作品は楽しませ、悲しませ、考えさせて、感銘させ、そして行動させた。
その映像作品とはそもそも何なのか。

簡単に言えば、人間は他の動物と比較して、ストーリーによって感化する優位性があり、逆に言えばストーリーによって感化されてしまう本能や習性がある。
この絵つきのストーリーが映像作品だ。

そして逆に言えば、映像作品とは、その人間の特性を喚起すべき触媒となるべきなのだ。
単に映像を流すのではなく、観ている人間を楽しませ、悲しませ、考えさせて考えさせ、行動させる。
できるならば、人生哲学や人生そのものまでを、よりよい方向に変えてしまえるのがのぞましい。

古代ギリシャやローマでは、演劇がその役割を担っただろう。
ニッケルオデオンの時代は映像のみで、音楽はそばにいる伴奏者が演奏したものを聞いていた。
それが映画へ、そしてテレビへと変遷し、今ではそれがYoutubeに代替されている。

その昔、私はアメリカのキリスト教右派の中に「テレビ伝道師」と言う職業があることに驚愕した。
キリスト教の神性を謳うのに、なぜ今風のテレビを使うのか? 
しかしこれは絶大な効果を発揮したようだった。

ニュース映画があったように、宣伝、喧伝には映像が盛んに使用される。
古代であれば、それは劇だったのだろう。
現代であれば、それはYoutubeに代替されるように思われる。
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シェイクスピアとゲーテとコードギアスの機会的損失

2018-03-03 08:48:12 | 文章・日本語・言葉
先日、ロボットアニメの「コードギアス」第一部を見たのだが、これが本当に面白い、面白い。

アニメの中のロボットの動きもさることながら、物語の脚本とプロット構成、登場人物の台詞回しが本当に上手いのである。
ただ、ここに神学的要素は無いのだが、しかし娯楽作品として圧倒的な面白さがここにある。
世界中のアニメファンが面白い面白いと釘付けになるのも納得だ。

今の現代を生きる我々は、コードギアスを十全に楽しめると言う恩恵に属しており、そしてあと100年はこの作品が大衆社会の中で見られていくことだろう。

ただ、問題がある。100年後の人たちは今ほどこの作品を楽しめるだろうか? 

ドラマCDの中にあった「スケバンおネリ」だとか「単車マンジェレミア」のネタだとかは、完全に昭和を知らない人間は楽しめない内容になっており、これを楽しめるのは、日本の昭和に生きていた人間と言う非常に範囲の狭い人たちに限られている。合コンネタは今の日本人でもついていけるだろうが、しかし海外の人は分からないだろう。
これを全て分かると言うことは、たまたま生まれ落ちた国と時代がなせる幸運なのだ。
他、「チキチキ☆初めて見るキノコでドォーン」だとか「ヌルヌルだよ」ネタもこの時代に生きていないと面白さが分からない。

同様に、ゲーテのファウストの中でも、当時の流行ネタが書かれていて、この部分に関しては今現代における読者はついていけなかった。シェイクスピアでもついていけない部分がいくつかある。

こうした「作られた当時でなければ楽しめない」部分が世界的作品には存在していて、そしてその機会的損失と、娯楽を享受できない損耗が時代を超えた作品には存在するのだ。
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死に至るまでの崖

2018-03-03 08:31:59 | 哲学・学術・教育
死生観としてのメモ。

我々は、どの人間においても、死に至るまでの崖に向かって走ったり歩いたりしているようなものだ。

走っていたり、歩いていたりするまでの移動を人生と呼ぶならば、崖のことを考えても仕方はない。
歩いている間に踊ったり、喋ったり、うたったり、あるいは地面をどう走るのか、歩くのか、あるいは踊ったり転げたり、転んだりするのがいいのか、そう考えた方が、人生にとってははるかに重要だろう。

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日本の従前な事故防止論と、無視されるダメージ軽減論

2018-03-03 08:30:08 | 哲学・社会
まず最初に言わなければならないのが、「変えるべきは我々の意識である」と言うことになる。
それでは何を変えなければいけないのか。

パッシプセーフティと言う言葉がある。
どういう意味かと言うと、「事故が起こった時に、人へのダメージを最小限にしましょう」と言うことである。
自動車の衝突事故実験で車がひしゃげるが、中の搭乗者は無事、と言う映像を見たことはあると思う。

そんなものは当然で、今更議論すべくもない話じゃないか、と言う意見もあるだろうが、実は日本にはこのパッシプセーフティと言う思想が希薄だ。

分かりやすいのが原発の例で、あれは、事故と言うものを想定しておらず、そのために事故発生後の回避策さえ実装できなかった。

あるいは鉄道車両にはパッシプセーフティの思想がない。よってJR福知山線脱線事故のように、一旦事故が発生すると乗客の安全が一切図られないという事態に直面する。そしてその事態に直面した後では遅いのだ。

元々日本人は「事業を運営している以上、事故は起こしません」と言う意識が非常に強い。
反面、事故を想定した行動を取ると、「事故を起こすような運営をしているのか」と言う非難も巻き起こりやすい。
これがいけないのだ。

無論、事故を起こさないことは大変に重要なことであり、最優先に検討すべき課題であるが、その裏返しとして、事故が起こったあとの安全性を全く検討していなかったのが、日本の原発であり、電車であったのである。

それと同時に、我々が持っている意識にも問題がある。
大衆意識として持っている倫理規範として、事故防止に務めると言うポイントに重点を置くがあまりに、事故後対応の事前準備(パッシプセーフティ)を全く考慮せず、そればかりかそれの実装を非難する傾向があるからだ。

大衆がこれではいけない。大衆の意識を元に事業体が動き、社会が動くからである。

今後は、事故防止の観点とともに、「社会運営上、事業として行う何かしらのものは人が作ったものであり、完全に事故防止ができるところを目指すべきであるが、一方で、人が作ったものには完全ではないことを想定せねば十全な対応が取れない。この事故が発生した際のダメージ軽減策も、事故防止と並んで、二枚看板で事業は運営していくべきだ」と言う意識を持たねばならない。
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