1.
多読の人を聞くと羨ましくなる。
一日に1冊は理想のペースだが、私は年間10冊が限度だ。
が、果たして速読がそんなにいいものかと言う疑問が残る。
読んだ文章の中で、自分の中の理解や、あるいは生き方を変更するものに出会うかもしれないのだ。
そうした一句は、自分がそのまま消化できる形で書かれていることもあればそうでない場合もある。
後者にインスピレーションを感じてしまった場合が大変だ。
それを自分が理解して消化し、自分の生き方や理解に反映する変換作業を自分の中で行わなければいけない。
そうすると、そこで読書が止まってしまう。それが遅読の原因だが、しかし私の中では、それこそが読書であり、それこそが読書ですべき行為であると思っている。
人間の人生における大きな目標としては、具体的に言えば、よりお金を稼いで、より社会的に安定した地位に就き、より安心した生活を送れることなのであって、国内社会の政治的には、個人の集合たる大衆がそれを実現できるように、そこを目指すべきだろう(なお、治安悪化を伴う移民導入の政策は、規模の経済の拡大により大企業に恩恵をもたらすが、トリクルダウンがなされないこともプラスして、大企業に勤めない多くの日本人個人にはダメージを与える。)。
上記は具体的に言ったが、これを抽象的に言えば、収支を安定させることにより人生の経営を盤石にし、人との繋がりの本数を多くし、あるいは太くすべきだろう。それが人間としての幸せであり、これを具象化した目標を設定して、人間個人と、社会共同体たる政治は動くべきだ。
そして、この他にも、人間には大なる目標がある。
今の産業国家体制での教育では失われてしまった、人間としての修養だ。
人間のよりよい判断基準は、その人間の理解から生まれる。
社会でも物理でも同じことで、それは教育や教科書から得ることが基本となるが、それ以外にも人の話をよく聞いたり、あるいは映画を見たり、小説を読んだりして、他者の代理経験を得て、自身の行動哲理に組み込むことが大事なのだ。
何に対して人が困っているから、自分はどう助けるのか。あるいは冷酷な話として、自分はどう「関わらない」と言う線を引くべきなのか。
他者の意見を自己の行動哲理に組み込む時には時間がかかる。
しかしそこで真に組み込めたのであれば、その後の自分の行動には迷いと言うものはなくなるだろう。
それこそが人間が人生で目指すべき目標の内の一つのように思われる。
そしてそれは主に読書から得られる。あるいは映画を観ても、行動原理が変わることもある。
なお、今は時代が変わったので、ネットでもそうした情報を摂取することは可能だ。
なお、既に自己の行動哲学が備わっている人にはこういうことは必要がない。よって、これは一般論として言えることではないのだが、しかし自己の行動哲理に迷っている人は多いので、それを成すのであれば、読書とネットが有用になる。
2.
電車の中で色んな本を読む人を見かける。
普通の縦書きの小説を読んでいる人もいれば、会議資料を読んでいる人もいる。
あるいは資格の本を読んでいる人もいれば、横書きの洋書を読んでいる人も見かける。
びっくりしたのは、五線譜の音符しか書かれていないページを凝視して読んでいる人がいて、あれは、自分の頭の中で音階を組み立てたり、あるいは記憶したり、あるいはそこにインスピレーションを得ているのだろう。
まだ出会ったことが無いのが、地図を読んだり、あるいはゴルフ雑誌のスイングのコマ送り写真を見たりする人だが、しかしもし仮にそういう人がいたとしても、その「読んでいる」理由とはおおよそ同じだろう。
そこにある諸情報から、自分の行動哲理に何らかの修正や変更、あるいは新規性の導入を試みたいのだ。
ファッション誌を読む人は、そこからトレンドを追いたいのだろう。
私のように、子供時代からファッション誌とオフィス用品カタログ、エクステリア雑誌を見て「そもそもアートとデザインはなんなのか」と考えながら読んでいるのは少数派だろうが、読み方にも色々あるのだ。
多読の人を聞くと羨ましくなる。
一日に1冊は理想のペースだが、私は年間10冊が限度だ。
が、果たして速読がそんなにいいものかと言う疑問が残る。
読んだ文章の中で、自分の中の理解や、あるいは生き方を変更するものに出会うかもしれないのだ。
そうした一句は、自分がそのまま消化できる形で書かれていることもあればそうでない場合もある。
後者にインスピレーションを感じてしまった場合が大変だ。
それを自分が理解して消化し、自分の生き方や理解に反映する変換作業を自分の中で行わなければいけない。
そうすると、そこで読書が止まってしまう。それが遅読の原因だが、しかし私の中では、それこそが読書であり、それこそが読書ですべき行為であると思っている。
人間の人生における大きな目標としては、具体的に言えば、よりお金を稼いで、より社会的に安定した地位に就き、より安心した生活を送れることなのであって、国内社会の政治的には、個人の集合たる大衆がそれを実現できるように、そこを目指すべきだろう(なお、治安悪化を伴う移民導入の政策は、規模の経済の拡大により大企業に恩恵をもたらすが、トリクルダウンがなされないこともプラスして、大企業に勤めない多くの日本人個人にはダメージを与える。)。
上記は具体的に言ったが、これを抽象的に言えば、収支を安定させることにより人生の経営を盤石にし、人との繋がりの本数を多くし、あるいは太くすべきだろう。それが人間としての幸せであり、これを具象化した目標を設定して、人間個人と、社会共同体たる政治は動くべきだ。
そして、この他にも、人間には大なる目標がある。
今の産業国家体制での教育では失われてしまった、人間としての修養だ。
人間のよりよい判断基準は、その人間の理解から生まれる。
社会でも物理でも同じことで、それは教育や教科書から得ることが基本となるが、それ以外にも人の話をよく聞いたり、あるいは映画を見たり、小説を読んだりして、他者の代理経験を得て、自身の行動哲理に組み込むことが大事なのだ。
何に対して人が困っているから、自分はどう助けるのか。あるいは冷酷な話として、自分はどう「関わらない」と言う線を引くべきなのか。
他者の意見を自己の行動哲理に組み込む時には時間がかかる。
しかしそこで真に組み込めたのであれば、その後の自分の行動には迷いと言うものはなくなるだろう。
それこそが人間が人生で目指すべき目標の内の一つのように思われる。
そしてそれは主に読書から得られる。あるいは映画を観ても、行動原理が変わることもある。
なお、今は時代が変わったので、ネットでもそうした情報を摂取することは可能だ。
なお、既に自己の行動哲学が備わっている人にはこういうことは必要がない。よって、これは一般論として言えることではないのだが、しかし自己の行動哲理に迷っている人は多いので、それを成すのであれば、読書とネットが有用になる。
2.
電車の中で色んな本を読む人を見かける。
普通の縦書きの小説を読んでいる人もいれば、会議資料を読んでいる人もいる。
あるいは資格の本を読んでいる人もいれば、横書きの洋書を読んでいる人も見かける。
びっくりしたのは、五線譜の音符しか書かれていないページを凝視して読んでいる人がいて、あれは、自分の頭の中で音階を組み立てたり、あるいは記憶したり、あるいはそこにインスピレーションを得ているのだろう。
まだ出会ったことが無いのが、地図を読んだり、あるいはゴルフ雑誌のスイングのコマ送り写真を見たりする人だが、しかしもし仮にそういう人がいたとしても、その「読んでいる」理由とはおおよそ同じだろう。
そこにある諸情報から、自分の行動哲理に何らかの修正や変更、あるいは新規性の導入を試みたいのだ。
ファッション誌を読む人は、そこからトレンドを追いたいのだろう。
私のように、子供時代からファッション誌とオフィス用品カタログ、エクステリア雑誌を見て「そもそもアートとデザインはなんなのか」と考えながら読んでいるのは少数派だろうが、読み方にも色々あるのだ。