とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

会社のサディズム

2012-10-06 23:02:42 | 会社での出来事
私は今までの社会人経験の中で三種のサディズムを経験してきた。ここで言うサディズムとは人間が生来に持つ暴力的性質そのものが陰に陽に表れ、その人間自身の構築する社会に対して悪影響を及ぼす様を指すものとする。このサディズムは、現代の社会的病理であり、ここで挙げるそのいずれもが、社会的に悪影響と認識されながらも、本質的改善が図られていないという公衆からのあきらめに似た認識を持たれている。これが共通の特長だ。尚、暴力的性質の中身については本論で具体的な内容を記載する事によって説明したい。
このサディズムは如何に悪影響を及ぼしているか、その点について、組織論という思考の補助線を与えて考えてみたい。

本論に入る前に注意したいのだが、私が経験した会社などの職場関係では無論そうした暴力だけではなく、人情的優しさや愛情などもちゃんと存在した。しかし、だからそれらの優しさがあったから、病理と優しさをまぜこぜにして全てをうやむやにするのではなく、きちんと良い所は良い、悪いところは悪いと言う事が必要なのだと思う。この為、これを記載している。

さて、冒頭に上げたサディズムであるが、物理的暴力は一切無い。しかし、精神的に攻撃される事はままあった。これを取り上げてみたい。

1.
まず最初は直接的な人格攻撃である。
下記のURLが参考になる。
「IT土方ってこんな感じなん?」
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-5437.html

私が過去に経験した職場もほぼこのような感じであった。
上記のコミック中の登場人物とは異なり、私もその他の社員も、皆正社員であったが、似たような待遇であった。

一般論として、会社としての一番の成功モデルは次のようなものだと私は考える。会社がその会社でしかできない生産品を製造し、それを取引先企業へ納品する。この納品とその製品支払いにより、社会貢献を伴った利益を出す。この利益が最大になれば成功だ。そしてその納品物を作成する一因子たる作業員は、正確な結果を出し、効率よく、良いものをアウトプットする事が望ましい。一歩進んで考えれば、作業員そのものをメンテナンスすれば良い製品が効率良くアウトプットできるのだ。
会社の運営を車の走行に例えれば、一つ一つの部品(作業員)が機能して、安全・高速に走行(生産・納品)をする事ができる。
あるいは、自社で生産した自動車を顧客先に納品しているイメージでも良い。顧客の立場からすれば、安全で高速な走行のできる自動車を納品されているのか、あるいは単に走ればいいだけの自動車を納品されているのか。

この会社を例に出すと、この会社の戦略は以下の点で成功している。
まずこの会社は、高度なアウトプットを求めていない。出来上がったものをその時の気分次第で、後付け的に「こうすべきだったが分からなかったのか」と難癖をつける(まあ辞めさせる際の手段なのだろうが)。今言われたのであれば遡求不可で履行不可能な命題を後からつきつけては、業務上の主導権を握る手法をとっている。ただ、本当の職場、本来の運用であれば、生産時の作業規約や手順を確立して作業員に作業を当たらせるべきなのだ。そうでなければ、組織とその運用において成功しているとは言えない。「車(会社)において、この部品(作業員)はこういう働きをすべき(正確な作業をすべき)」と教育指導し、それを徹底して生産に当たらせるべきである。また、PDCAサイクルとして、失敗に関しては、組織内部にその失敗事例とその反省を共有財産として保持すべきである。また、ホワイトワーカーへのメンテナンスとして、精神的葛藤を与えるような職場環境の構築や、あるいはそれを生成する行動などを抑制する必要がある。精神的疲弊とは、実際の問題として生理的・物理的に脳を疲弊させている。品質を向上したいのであれば、生産に直接関わる労働者における疲弊を生む要素というのは極力排除させねばならない。「精神的葛藤など誰もが歩む道なのに、それを取り除いて本当に社員が鍛えられるか」という意見もあるだろうが、比類なき困難に対して乗り越えられるような少数の精鋭に、社会運営を任せるという時代はとうの昔に終わっている。日本軍の機器取り扱い説明書が難解な文章で書かれていたのに対し、米軍の機器取り扱い説明書は図入りで分かりやすく書いてあったのが代表的であるが、要は、これからの時代は「使える人間をいかにシステマティックに増やすか」が問題なのだ。量は質へと転化する。この件で言えば精神的圧力などをかけず、この社員を教育した方が、結果として品質が高いものを生み出せる。
が、そのような組織的運営や機能がこの会社には皆無である。私が想像すると、この会社は「そのような高度な目標は設定せず、自社という車を動かすには、単に動けば良い。正確な動作や高速走行はできなくとも良い。部品(作業員)をメンテナンスするコストを払う事にメリットが無いと思うからだ。部品は次々と供給される。メンテなどしなくてよい。」という理念を持っているように思える。実際に、単に走る事のできる車が売れるというのがこのコミックの世界の話であって、そして私が経験した世界の話であったのであろう。
そうした理念と現実の一致において、この会社は成功している。一般的な会社の形態に例えてみたい。会社には通常、職制というものが存在する。上から順に社長、役員、専務、本部長、担当本部長、部長、担当部長、副部長、課長、課長補佐、主任、担当などなど・・・。この中、会社において主任という位置が手当て的にも作業的にも責任の大きさとしても一番の役得であるという見方がある。そうした事により、通常はもっと上へ、もっと上へと昇進の意欲が働くのが普通であるが、ごく希に、主任に昇進した後そこから意図的に昇進しないように心がけている人がいたりする。これは払うべきコストが役職に対して一番小さいという観点があるからだ。この観点から見れば主任という位置を保持するというこの戦略は、保身的に成功だ。責任も負わないが、ほどほどの給料を確保できる。上記リンクにあげた会社はこれに通ずるものがある。この会社は社会において万年主任の立場であり、給料的にも、仕事内容的にも美味しい位置を占めているのだ。この点において、この会社の戦略は成功している。

余談ではあるが、部品(作業員)のメンテナンスは、その部品が構成する全体へと影響が波及する。一つのボルトの欠落が、いつしか重大事故へと繋がる(これは私にとってもわが身を振り返らねばならないが)。会社の運営を車の走行や、あるいは自動車の納品に例えたが、顧客の方々は、今一度発注先の生産体制について、計画、内部生産規約、生産されたもののチェックとその体制確立などについて調査をした方が良いように思われる。
(私が今いる職場ではその件については非常にしっかりしているので、職場的にはきちんとやっていると胸を張って言える。ただ、私個人がそれを履行できているかどうかについては、私個人の主観からはおおいに疑問の残る所であるし、反省せねばならない所が多々あるが・・・)

2.
以上は直接的サディズムであったが、次に挙げるのは間接的サディズムである。
2006年4月、私は人間的な温情に恵まれた職場にいた。分からない所があれば、親切に教えてくれるし、何より1の例にあった人格破綻者が滅多にいない事がうれしかった。仕事も比較的緩やかだ。
何か教えてくれと頭を下げに行くと「ったく仕方ねえなあ」「だからおめえはよお」「まだまだだなあ、もうちょっと勉強しろよ」と愚痴っぽいセリフを言いながらも、人に教える事が喜びであるかのように嬉しそうに教えてくれるのだった。
ただそれでも問題はあった。その裏に愛情があると分かっていても、そうした愚痴を恒常的に言われると、やはり精神的につらいのである。優しい行動ときつい言葉で構成されるこの行為は、言葉の上では優しいが、その実体はいじめであるという相撲の「かわいがり」という風習の逆であろうか。このある種のかわいがりを何とか封じたかったのだが、二回ほどそれを封じる機会があった。本論とは直接関係はないが、少し記載しておこうと思う。

一回目は2006年の6月だったと思う。とある案件が私に来たので、初期資料を作成した。資料のレビューという事で、親会社にあたる会社の主任であるAさんと私の直接の先輩であるBさんと私の三人でレビューに当たった。レビューを開始する前に、私以外のほかの二人はニヤニヤしている。私も愛想で笑う。この様子から見るに、二人は「ここがなっていないから直しとけ」「ったくお前はまだまだだ」というような意見を言っておきたかったのだろう。しかし、この後私の出した資料は、手前味噌ながらも非の打ち所が無かった。一通り資料の説明を終えたところ、二人の言ったセリフは次のようなものであった。
Aさん「ま、まあいいんじゃないの」(「ま」は二回言った。)
Bさん「こうした資料作成ができるから、○○(私の名前)はここに来たんだからね」
Bさんの言う事はちょっとよく分からなかったが、このレビューを終えた後、暫くの間は、二人からの「かわいがり」は無くなって、正直少しほっとした。

二回目は上記の件から暫く経った後だった。次第に「かわいがり」も復活し始め、これではいけないと思っていた矢先である。上記とは別の案件で、Aさんの仕切る案件の打ち合わせがあった。打ち合わせのメンバーは、Aさん、Bさん、私のほか、グループ会社の主任であるCさんも加わった。
案件については詳細を記載しないが、IT系の話しである。システムデータを定期バックアップし、ディザスタリカバリ(災害対策によるデータの物理的退避)をする、という内容だ。
一通り打ち合わせが終わったあと、Aさんが「○○(私の名前)は分からない事は無いか? 」と聞いてきた。Aさん、Bさんはニヤニヤしている。私は考えた。私自身の知識の浅さをついて、このレビューの場でまた例の言葉を繰り返し、私をやり玉にあげるのではないかと。これには防御しなければならない。しかし、直で反論すれば心象が悪くなり、私の立ち位置が悪くなる。どうすれば良いか。私は、「分からないところはあるのですが、打ち合わせ時間の事も考えれば後で聞きたいのですがいいですか? 」と言う。Aさん、Bさんはニヤニヤしている。Cさんが「今でもいいよ」と言う。Aさん、Bさんはまだニヤニヤしている。「それでは・・・」と言って、私が静かに口を開いた。「まず、この計画書にはAシステムとBシステムのデータを一つのテープにバックアップするって書いてありますよね」。Cさんが応える。「そうだね」。私「次にテープバックアップですが、これって一度の操作で一回の書き込みしかできませんよね? 追記はできないんですよね? 」。Cさん「そうだよ」。私は知識のひけらかしと捉えられないよう、尊大な態度と受け取られないよう、入念に注意しながら恐縮の姿勢を崩さずに言った。「そうすると、Aシステムのデータをバックアップした後に、同じテープへBシステムのデータのバックアップはできないんじゃないでしょうか・・・」。

こうした裏の動きは正確に検討していなかったのだろう。ここで、Aさんが椅子の背もたれに背をかけていた状態から前のめりに跳ね上がった。そして目を丸く見開いて資料を目の前に持ってきて確認するという、映画のワンシーンのような動きを見せた。Aさんは「自分が担当してきた事への否定」について否定できない。Bさんはまだニヤニヤしていたのだが、表情はそこから動かずニヤニヤ顔のまま無言で硬直していた。
私は事前に保険をかけた。「分からないところはあるのですが、打ち合わせ時間の事も考えれば後で聞きたいのですがいいですか? 」と。これは私自身の業務に対する無知による逃げではない。「これからAさんの計画に対する否定的疑問を投げかけますよ。この場ではそうした発言はまずいかもしれないので後で言った方がいいですか? 」という事前のフォローだ。小賢しいに程があるかもしれないが、この発言は周囲に無用の攻撃をしない、という私の保身の為にどうしても必要だった。
Aさんは目を見開いた状態から動かない。この案件の当事者本人であるのに発言が無い。どうもこの質問に回答できなさそうだ。Bさんは単に私の先輩であるからというだけで出席しているので、この件については門外漢である(それでも何か質問内容に不備があれば難癖をつけていただろうが)。よって予想された、「かわいがり」の攻撃に対して、私は誰も傷つけず、誰も攻撃せず、自分の防御壁を構築する事ができたと思った。

Cさんがこの後に続く。「これは通常のバックアップじゃなくて、○○○○○○○○○○○○○という製品を使うんでこういう事ができるんだ」と(上記の伏字は実際の製品名である)。私がこれに応える。「そうだったんですね。それは実際に見た事があります。前の職場で他の人が担当されていました。」と。Aさん、Bさんは私の前の職場でやっていた仕事内容について知っている。業務知識は私はまだまだ勉強するところがあったが、技術的知識は私の方が先行していた。これを恐縮しながら低姿勢で見せることで、Aさん、Bさんの動きを完全に封じた。
「かわいがり」の攻撃を箱に入れ、蓋をし、ビスできっちり締め上げた感触があった。

本論に戻る。この件ではうまく防げたかもしれないが、もし逃れられなかったら私はジワジワと憔悴していっただろうと予想する。かなりオブラートに包んで書いたが、この二人のやっている事は、詰まる所ただのいじめだ。教育の名の元に社員を教育し、仕事を上手く回す事よりも業務主導権を確保する事を優先している。教育と称した一見優しい行動と思われる行為も、その途中経過で本人への間接的人格攻撃があったともなれば、それはサディズムに分類される。

いかに最終的行動が貢献行為となっていようとも、その途中経過も含めて品質に関係する組織運用だという事を忘れてはならない。

3.
今日は疲れたのでこの辺で。
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