とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

秋葉原通り魔事件・加藤智大への

2012-10-29 00:12:04 | 国内社会批判
秋葉原通り魔事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%8E%9F%E9%80%9A%E3%82%8A%E9%AD%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6

2008年(平成20年)6月8日に秋葉原で発生した通り魔事件が発生した。
7人が死亡、10人が負傷した。

私はこの日、友人の結婚式と披露宴に参加していた。式と披露宴が終わり、じゃあみんなでカラオケに行くかとなって、カラオケで歌っていた時、その仲間内の一人が奥さんからメールを受け取った。「東京秋葉原で通り魔が起きている」と。私はこの事件をこのメールで初めて知った。
それを知った瞬間は、またどこかでふざけた人間が暴行を働いているんだろうと軽く見ていたが、その後真相をよく知るにつれて、事態が深刻でありかつ、状況が凄惨である事を知った。

通り魔たる犯行を行った人間は加藤智大(かとうともひろ)と言う。
この加藤は同日、トラックを運転して秋葉原の赤信号を無視し交差点突入、青信号を横断中の歩行者5人をはねとばした(5名のうち、3名死亡)。トラックを運転していた加藤は車を降りた後、道路に倒れこむ被害者の救護にかけつけた通行人・警察官ら14人を、所持していた両刃のダガーで立て続けに殺傷した(うち、4名死亡)。

このような犯行に至らしめた加藤の動機は何か。
加藤が事件を起こした要因は次のように説明される。
裁判では、直接的な動機としては掲示板荒らしに対する抗議の表明として実行したとされる。つまり軽い気乗りのような起点からこのような過酷な状況を進行させたとする。
根本的な原因としては不満に対して多様な観点から熟慮せず、話し合いで解決しようとせず、自分の意思を相手に分からせるために、直接的行動で相手の望まないことをしたり、相手との関係を遮断したり、暴力を行使する考え方、間接的な原因として母の養育方法が前記のような加藤の人格形成に影響を与えたと裁判では認定された。

加害者が派遣労働社員であったことから、若者の雇用環境が厳しくなっていることが将来に希望を失い、事件の動機になったとする見方も出た。またこの事件をもって若者の雇用環境悪化を問題視する意見が報道機関から多数出、読者からの投稿でもそれに追随する意見が出された。だが、刑事裁判において、加藤は本件犯行の動機も原因も雇用形態が派遣であることとは無関係であると供述し、弁護人も検察官も裁判官も、その供述が事実であると認定した。この点については後程言及したい。

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この事件を思い出すと、ふつふつと怒りが沸いてくる。
確かに現在の国内雇用情勢を省みるに問題がある事が分かる。
しかし、どうして暴力などに頼ったのか。言論で闘わなかったのか。
そして何よりもなぜ無関係の人間を襲ったのか。
自分と無関係の人間を生死の関係に至らしめるのは言語道断である。そのような権利などというものは我々には存在しない。

事件は凄惨であったし、許されるべき箇所は微塵も存在しない。
しかし、この人間の略歴を見る限り、労働環境におけるその苦労と苦悩に同情するものはある。
そしてこの問題で重要なのは全ての先入観を捨て、何が問題であったかを見つめなおさなければならない事だ。
人道として許されないなどと、安全な位置から批難するのはたやすい。
しかし、道徳に反する、法律に従い裁いて終わり、ではいけない。「暴力的行為はいかん、罰する」では何の解決にもなっていない。今の社会に内在する根本的な解決に到っていない。

これは肺炎や気管支炎の治療と同じだ。医者が肺炎や気管支炎に効く薬を処方し、通院して完治したとしよう。しかし完全に治癒したとしても、それは表面的な解決でしかない。本当の根本原因は「患者の居住環境」にあるのだ。煤煙、埃、不潔なシーツなどなど・・・。肺炎や気管支炎を引き起こすこれらの状況が改善されない限り、患者は病気を再発する可能性がある。これらの根本原因を見つめなおし、分析し、それらの要因を除去した上で、そこで初めて前進したと言えるのではないか(但しこれはあくまで前進であって、解決ではない。解決のターゲットの定義はもっと慎重になる必要がある)。
そしてそれは、今回の通り魔事件と、それに並ぶ社会に内在する問題についても同様だ。これらの根本原因を見つめなおし、分析し、それらの要因を除去した上で、そこで初めて前進したと言える。

人には選択肢を選択するという行為が存在する。加藤には通り魔以外の選択肢が存在しなかった。ここに問題がある。なぜその選択肢を取ったのかは、加藤本人の立ち位置から考えなければ、本当の答えは出ない。
なぜ他の選択肢が存在しえなかったか。他の選択肢は何を用意すべきだったか。
また、根幹の動機ありきで選択肢の用意とその選択が行われるが、その動機が発生した理由は何か。

人間とはいい子ちゃんの部分だけで出来てはいない。清濁併せて人間なのだ。その清を自明によって尊重し、濁を理によって御する。判決文を分析すれば、これ以上の判決は出ないのかもしれない。ただ、これは罰することありきでの原因分析であり、社会の根幹に存在する構造的問題を改善する為の分析では無い。
加藤個人への判決はこれで良いが、社会の構造的問題を改善するにはこれだけではいけない。雇用状況が問題ではなく、加藤本人の暴力性が問題であるならば、それを抑制したりする手段の提供が社会には必要なのだ。

尚、この判決は、社会に一定の役割を担っている。
死刑を判決する事により、社会における再発防止を行っているのだ。判決を出した諸関係者は、現行のシステムの中でベストの答えを出したと私は見ている。が、あくまでこれは受動的対応である。我々はもっと能動的に行動できないだろうか。判決以外の方法でも抑制は可能なのではないか。

それはこの社会をより良く分析し、その構造を明朗簡潔に解明する事によって、政治家は次の法律を作成できたり、あるいはマスコミは社会問題を広く知らしめる事ができたり、あるいは民間は社会への理解と貢献を行うのではないだろうか。

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話しの角度は少し変わる。
この判決に関し、判決そのものはこれで良いと思うが、私は動機の分析を100%信用してはいない。
検察がストーリーを組み立ててそれを被疑者が了承するやり方はよく取られる。先日のクロスサイトリクエストフォージェリを使った遠隔操作ウイルス事件では犯行の事実が無いのに逮捕をしてしまった(後に警察は「真犯人でない方を逮捕した可能性は高い」と誤認逮捕に関するコメントを記者会見で発表)。加藤の取調べでもストーリーが用意された可能性は高いと見ている。
そして私自身は過去、仕事での事故に対してストーリーを組み立てられて責任を被せられた経験が重なる。事件に至るまでのプロセスを構造的に解明する事を組織が行おうとした場合、本当の解明を組織に対して期待してはならない。

また、検察、裁判官は民情を理解していないところもあると思われる。
その名もまさしく「予告犯」というマンガがあるが、私はこのような職場を一度経験した。このマンガでは、契約社員が重圧とパワハラ、暴言に囲まれながら日々自分をすりへらして生きていくのである。こうした会社は実際にもあるが、このようなストレスが嫌で退職するにしても「自己都合」という名で退職するのだ。「自己都合であるから自分の責任なんじゃないか」などと言う方は民間・民情を全く理解していない。良い会社だったのに、自分の気分で会社を辞めました、というのではなく、兎にも角にも見えないナイフで心を削り取られるような職場に対し、自分の心身を守る為に自己都合という冠をつけて退職をするのである。ここには自己都合という言葉の表面から受ける「良い会社だったけれども、自分のやりたい事をやる為に退職しました」などという身勝手な意味合いなど存在しない。自分を守る為にやむなく退職するのだ。「そのような会社を選んだあなたが悪いのではないか」という声もあるだろう。が、それでは何か、公務員になれずに底辺の会社で働いている人間は、文化的に仕事をする事も文化的に生きる事も許されないのであろうか。問題は会社側にあるのである。この判決は会社の待遇面まで踏み込んだ考察をしていない。よって社会構造的問題を解決するに当たって、この判決を引用するには一歩引いて見る必要がある。

話しを戻す。
繰り返しになるが、この事件において許されるべき箇所は微塵も存在しない。
加藤の犯行は然るべき法律において巌に裁かれるべきである。
ただ、これでは不足だ。今後発生しうるだろうこうした行為は、社会において防止策を張る事ができる。日本には社会構造として不足している部分がまだまだ沢山ある。それは日本人の良心によって埋められているところがあるけれども、社会的システムとしては不完全であると言わざるを得ない。繰り返す。日本には社会構造として不足している部分がまだまだ沢山ある。社会的システムに改善をすべき箇所が沢山ある。そこから目を背けてはならないし、我々はそれに向けた努力をせねばならない。政治家は法を整備し、メディアは社会的構造不備を鷹の目、虫の目で追い、公務員はそれを実行し、民間は日本を支える要員として誠意を持って仕事に当たるべきなのだ。
コメント
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