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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

色と数学

2024-07-20 13:11:49 | 哲学・社会
色って何色あるんだろう? と言うと、これは区分けと分割の区分の定義にほかならない。

現在ではコンピュータによりほぼ無限に近い色が得られるようになったが、まだ厳密には無限ではない。デジタルから離れられないためである。

虹のスペクトルに関して、あの幅に全ての色の要素が詰まっていることを考えれば、可視光の色と言うのは電磁波の周期の長さによって決定されることが分かる。

では更に歩を進めて「円周率にはすべての数字列が現れるか? 」と言うお題に沿って考えていこう。
答えは「未解決」である。

しかし一方において、全ての可視光における全ての周波数の色はあの短い虹のスペクトルに全て集約されている。


大江匡衡がラップバトルで女官をディスり返した話

2024-07-03 22:05:41 | 哲学・社会
今昔物語



巻二十四第五十二話 大江匡衡、和琴を詠む | 今昔物語集 現代語訳
https://hon-yak.net/24-52/

巻24第52話 大江匡衡和琴読和歌語

今は昔、式部大夫(しきぶのたいふ・式部省の次官)大江匡衡(おおえのまさひら)という人がいました。

まだ学生(がくしょう)であったころ、風雅の才はあったのですが、のっぽで怒り肩をしており、容姿が見苦しかったので、女房たちに笑われていました。
あるとき、女房たちが匡衡を呼んで和琴(わごん・桐胴の六弦琴で東琴ともいう)を差し出し、「あなたは何事でも知らないことのないお方ですから、ひとつこれを弾いてくださいませんか。どうぞ、お弾きあそばせ。お聞かせくださいな」と言うので、匡衡はそれには答えず、このように詠みかけました。

あふさかの 関のあなたも まだみねば
あずまのことも しられざりけり

(逢坂の関の向こうはまだ見たこともないので、東(あずま)のことは何もわかりません。和琴(あずまごと)は不重宝です)

女房たちに、これの返歌はとうてい出来そうになかったので、よう笑いもせず、しんと静まって、一人立ち二人立ちし、皆立って行ってしまいました。

また、この匡衡がある官職の希望を申し出たとき、達せられないで嘆いているころ、殿上人が大勢で大井川へ行き、船に乗って上り下りして遊びながら歌を詠んだのですが、この匡衡も人びとに誘われて同行し、こう詠みました。

河舟に のりて心の ゆくときは
しずめる身とも おもはざりけり

(川舟に乗り、美しい景色を愛でつつ遊びながら行くと、心ゆく思いがして、任官できない不満など、消し飛んでしまうような気がすることだ)

人びとは、これをほめ讃えました。

また、この匡衡は、実方朝臣(さねかたのあそん)が陸奥守(むつのかみ・奥州の国司)になって任国へ下っているとき、こう詠んで送りました。

都には たれをか君は 思ひつる
みやこの人は きみをこふめり

(都にいる人で、あなたは誰を思い出しますか。都の人は誰もみな、あなたを恋しく思っているのですよ)

実方朝臣はこれを見て、きっと返歌を寄越したことでありましょう。
しかし、それは語り伝えていません。

この匡衡は、漢詩文の道を究めた人でありましたが、また和歌をこのようにすばらしく詠んだ――とこう語り伝えているということです。



なぜ自分は時間を守れないのか それに関する諸雑考

2024-06-16 15:54:41 | 哲学・社会
最初「人間一般は〜」にしようと思ったが、これは個人的事情しかカバーできず、主語が大きすぎるので「自分は」にした。

さて、元々人間は時間を守らなかった生き物である。
ローマの戦争は冬になると自然休戦し、田畑を耕す農民に時計はなかった。
皆何となくでそれぞれ活動をしていたのであって、その辺りは動物と同じである。

現代のように30分単位でカツカツの計画を立てているのは異常であり、それよりも緩い時代に、時間にコントロールされる社会と群像の様を批判・皮肉で表現したのが、映画「メトロポリス」であり、チャプリンの「モダン・タイムス」であった。

問題は私がなぜ時間ギリギリまで仕事をせず、仕事がギリギリになりそうになってからそれを着手するのか。
これが逆であれば何らかのトラブルに見舞われても大丈夫なように活動できる。
そうしないのはなぜか? 

私が思うに、これは内発性と外部強制の葛藤の後に、内発性が勝ったから、と考える。
これを考えていこう。

時間を他者に決められるのは、自分で判断しないだけ楽ではあるが、他者に自己の行動をコントロールされているようで釈然としない。
では、自分で時間を決めているのはどうか。自分で決めている分だけ健全であるかのように見えるが、結局の所は、他者の都合に併せて自己の行動をコントロールしているという点において、やはり自己の内発性や決定権がないがしろにされているようで、こちらもまた釈然としない。

人は元々時間を決めず、その場その場でやりたいことをやっていく動物としての側面があるのだ。この意味において時間をどのようにコントロールするにしても、不満を感ずる。
そこには時間割で決められた予定の枠組みに押し込められることを意味する。
ここにすんなり入る家畜であるならば問題はないが、その一方において我々とて人間なので、奔放に自由に野を駆ける馬のように走りたいと言う思いもあるのも事実である。

なので、必要最小限の生きていくための手段としては枠を用意し、自らその中に入り、そしてその必要経費を払い終わったら檻の中にいることもないので、檻の錠を外し、自由に生きることをすべきではないかと私は考える。