とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

なぜ自分は時間を守れないのか それに関する諸雑考

2024-06-16 15:54:41 | 哲学・社会
最初「人間一般は〜」にしようと思ったが、これは個人的事情しかカバーできず、主語が大きすぎるので「自分は」にした。

さて、元々人間は時間を守らなかった生き物である。
ローマの戦争は冬になると自然休戦し、田畑を耕す農民に時計はなかった。
皆何となくでそれぞれ活動をしていたのであって、その辺りは動物と同じである。

現代のように30分単位でカツカツの計画を立てているのは異常であり、それよりも緩い時代に、時間にコントロールされる社会と群像の様を批判・皮肉で表現したのが、映画「メトロポリス」であり、チャプリンの「モダン・タイムス」であった。

問題は私がなぜ時間ギリギリまで仕事をせず、仕事がギリギリになりそうになってからそれを着手するのか。
これが逆であれば何らかのトラブルに見舞われても大丈夫なように活動できる。
そうしないのはなぜか? 

私が思うに、これは内発性と外部強制の葛藤の後に、内発性が勝ったから、と考える。
これを考えていこう。

時間を他者に決められるのは、自分で判断しないだけ楽ではあるが、他者に自己の行動をコントロールされているようで釈然としない。
では、自分で時間を決めているのはどうか。自分で決めている分だけ健全であるかのように見えるが、結局の所は、他者の都合に併せて自己の行動をコントロールしているという点において、やはり自己の内発性や決定権がないがしろにされているようで、こちらもまた釈然としない。

人は元々時間を決めず、その場その場でやりたいことをやっていく動物としての側面があるのだ。この意味において時間をどのようにコントロールするにしても、不満を感ずる。
そこには時間割で決められた予定の枠組みに押し込められることを意味する。
ここにすんなり入る家畜であるならば問題はないが、その一方において我々とて人間なので、奔放に自由に野を駆ける馬のように走りたいと言う思いもあるのも事実である。

なので、必要最小限の生きていくための手段としては枠を用意し、自らその中に入り、そしてその必要経費を払い終わったら檻の中にいることもないので、檻の錠を外し、自由に生きることをすべきではないかと私は考える。
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