内戦下のシリアで2015年に消息不明となり、武装勢力から解放されたフリージャーナリストの安田純平氏(44)が10月24日、日本に向けて経由地のトルコから出国した。無事に解放されたのは、喜ばしいことだ。
安田氏は「とてもタフで気力のあるジャーナリスト」(ジャーナリストの常岡浩介氏)。それだけに帰国後の報告が待たれよう。
シリア内戦を取材するため、安田氏はトルコからシリア北西部に潜入した後、イスラム過激派組織によって、誘拐・拘束され、2015年6月21日以降、消息を絶っていた。拘束されてから3年以上が経つ。
今年7月にはイスラム過激派組織から、最後通牒とも思える動画が配信。銃を持った2人の男に挟まれ、やがて殺害される可能性が高い黄色い服(「IS=イスラム国)はオレンジ色だが「ヌスラ戦線」系は黄色)を着せられた安田さんが、必死に解放を呼びかける動画が配信され、その安否が心配されていた。これ以前にも何度か、イスラム過激派によって、安田氏の身代金との交換を示唆するメッセージが流されていた。
20億円かかった?イラク人質事件の「後悔」
が、国際連合の安全保障理事会決議は、人質と身代金の交換を禁止している。日本政府もそれに従うのを方針としている。
日本政府には苦い教訓がある。2004年にイラクで起きた日本人人質事件だ。同年、イラクのファルージャで高遠菜穂子さんなど日本人3人が武装グループに拘束され、「自衛隊の3日以内の撤退を求め、要求に応じないと、3人を3日以内に焼き殺す」と宣言された事件である。
当時の小泉純一郎首相はこれに応じず、世論のほうも、イラクに勝手に潜入し人質になった3人への”自己責任論”が高まり、政府の判断を支持する声が大勢になった。結局、3人は殺害されず、日本に戻ったものの、3人の帰還に「約20億円の救出費用」(中東情勢に詳しい大野元裕参議院議員)がかかったとされ、世論の批判も浴びたことから、日本政府は身代金による人質解放には慎重になったのだ。
このため、安田氏は3年以上、放置されることになる。ファルージャ事件から、政府は中東について、政府の勧告を無視して潜入し人質になった日本人には、身代金を伴う救出作業をしない慎重な姿勢へと変わる。
ところが、一時は生存が絶望視された安田氏だが、拘束していたシリアのアル・カイーダ系とされるヌスラ戦線から分離した反政府武装組織から解放され、トルコの諜報組織によって、今年10月23日にトルコ南西部のアンタキアに無事に運ばれたことがわかった。同日夜23時という遅い時間、緊急記者会見を行った菅義偉官房長官は、「安田純平さんかどうかはまだ確認がとれていない」としながらも、安田氏の解放を事実上認め、「カタールの仲介が解放につながった。日本政府は身代金を払っていない」という趣旨の会見をした。
では、なぜ今になって、安田氏が解放されたのか。
お荷物になった人質の”バーゲンセール”
まず、シリア内戦をめぐる、情勢の変化がある。一時は政権打倒かと思われたシリアのアサド現政権だが、持ち前の軍事力と秘密警察に加え、ロシア、イラン、ヒズボラー(レバノンのイラン系シーア派武装政党)の支援を受け、そのうえ反政府軍の分裂にも助けられて、形勢が逆転。今や反政府勢力に残された主要な地域は、安田氏が拘束されていた北西部のイドリブ県のみとなった。ロシアの空爆支援を受けたアサド政府軍が、いずれイドリブ県に侵攻すると予測され、政府軍による大虐殺が懸念されていたのである。
しかし、大虐殺が起きると、ロシアも非難を浴びることになる。トルコとロシアが協議し、イドリブ県内におけるイスラム過激派の重火器の排除や安全地帯の確保、イスラム過激派でない反政府勢力や難民たちのトルコ国境への移動などが合意され、実施される運びになった。
こうなるとイスラム過激派には、手間のかかる人質は、”お荷物”でしかなくなる。早く金に変えたい――。10月以降、イスラム過激派に拘束されていたイドリブ県での各国籍の人質を解放する、”人質在庫一掃のバーゲンセール”がトルコ紙などで報道された。
今回の安田氏の解放も、その流れに沿ったものだと見られる。イスラム過激派の比較をすると、ISよりも、アル・カイーダ系のヌスラ戦線のほうが狂信度は低い。ヌスラ戦線から派生した「フッダニ・アスリーン」と呼ばれるグループに拘束されていたという、安田氏に幸運が味方したのかもしれない。
それにしても、なぜ、カタールが間に入ったのか。カタールは人口、領土の小さい小国ながら、豊富な天然ガス資源を持ち、アラブ世界で初めて世界に通用する放送局「アルジャジーラ」を立ち上げた野心的な国だ。もともとサウジアラビアと同様、安全保障をアメリカに依存している。カタールには、アメリカの中央軍の基地がある。しかし、サウジアラビアと対決が深まると、トルコ軍が助っ人で駐留し、イラン革命防衛隊まで進駐するという、複雑な構図の中にいる。
「シリア内で豊富な人脈と情報網を持つ」(ジャーナリストの常岡氏)カタールが、安田氏解放の”仲介”を務めたことは間違いないだろう。
カタールが日本に有利な取引をする意味はある。それは日本が電力、ガスの原料となる、LNG(液化天然ガス)の有力な購入者であることだ。カタールは、日本のLNGの輸入先の15%、第3位を占めている。
2011年3月の東日本大震災で起きた福島原子力発電所事故のあと、原発が止まった日本の電力供給を支えたのは、まぎれもなく火力発電である。その原料となるカタール産の天然ガスの緊急輸入が非常時に果たした役割はきわめて大きい。
シリア内戦への影響はほとんどない
カタールが日本に代わって、3億円とも報道されている安田氏の身代金を払ったかどうは、まだ不透明だ。カタールも国連安保理決議に拘束されているため、日本の代わりに身代金を払ったことは認めないはず。ここからは推測になるが、3億円くらいの金額は、日本とカタール間における貿易や政治情勢などで、なんなく処理できる金額だろう。
いずれにしても、この事件がシリア内戦に与える影響を考えると、「何もない」(常岡氏)が結論である。
菅官房長官がカタールとトルコに謝意を述べたように、イドリブ県に対するアサド政府軍の侵攻を何とか食い止めているトルコにも、もっと注目すべきだ。安田氏解放を感情的に論じるだけでなく、もっと冷静に、中東をめぐる複雑なパワーゲームの構図を見つめるべきである。