BOOK、CDなど

1 BOOK、CDなどを断捨離、コンサート、リウマチ(膠原病)などのメモ
2 失念防止のためのメモ

クラシック・コンサート 001から017

2014年03月31日 | クラシック・コンサート
クラシック・コンサート 001から017
2004年度-1回 チケット12000 ホテル9600 計21600
2005年度-1回 チケット16000 ホテル8140 計24140
2006年度-1回 チケット12000 ホテル8140 計20140
2007年度-1回 チケット3000 宿泊なし
2008年度-0
2009年度-0
2010年度-1回 チケット13020 ホテル9400 計22420
2011年度-2回 チケット20000 ホテル13200 計33200
2012年度-2回 チケット16000 宿泊なし 
2013年度-8回(17) チケット103060 ホテル34620 計137680
 
クラシック・コンサート
001-2004年06月13日から017-(2013-08)-2014年02月08日
 
001-2004年06月13日 1500 北海道厚生年金会館 モーツァルト : 歌劇「フィガロの結婚」 
モーツァルト : 歌劇「フィガロの結婚」 
指揮/アメデオ・モルッティ 
管弦楽/イタリア・スポレート歌劇場管弦楽団
合唱団/同歌劇場合唱団
伯爵夫人/ソフィア・ミトロプーロス(S)
スザンナ/ターニア・ブッシ(S)
ケルビーノ/ヴァルデューイ・ハチャトゥリアン(S) 
2階J列 44番と45番 D席6000円×2~合計12000円 
ホテル弥生 2004/06/13~9600円+駐車無料 
12000+9600=21600
 
002-2005年06月21日 1830 北海道厚生年金会館 ビゼー : 歌劇「カルメン」 
ビゼー : 歌劇「カルメン」 
指揮/ミラン・カニャーク
管弦楽/チェコ国立ブルノ歌劇場管弦楽団
合唱団/同合唱団
バレエ/同バレエ団
カルメン/ガリヤ・イブラジモヴァ(MS)
ミカエラ/ダニエラ・ストラコヴァ=シェドゥルロヴァー(S)
カルメンとボレロの構成、ボレロの音が頭に響く。
北海道厚生年金会館の座席は、狭く窮屈。
ステージから遠く、双眼鏡を持参する。
2階J列 60番と61番 D席8000円×2~合計16000円 
ホテルライン 2005/06/21~7140円+駐車1000円 
16000+8140=24140
 
003-2006年06月26日 1830 札幌コンサートホールkitara モーツアルト : 歌劇「魔笛」 
モーツアルト : 歌劇「魔笛」 
指揮/レオシュ・スワロフスキー
管弦楽/プラハ室内歌劇場管弦楽団
合唱団/プラハ室内歌劇場合唱団
夜の女王/ダグマル・ヴァニュカートヴァー(S)
パミーナ/リュドミラ・ヴェルネロヴァー(S)
パパゲーナ/ミジャーツカー・リブシュ(S) 
札幌コンサート・ホール・キタラの座席は、ゆったりし疲れない。
ステージから遠かったが、正面で、管弦楽の音の響き、通りが最高であった。
夜の女王も良かった。
3階 CCブロック 7列 4番と5番 B席6000円×2~合計12000円 
ホテルライン 2006/06/26~7140円+駐車1000円=8140円 
12000+8140=20140
 
004-2008年03月27日 1900 斜里町・夢ホール知床 メンデスゾーン : ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64 ドヴォルジャーク : 交響曲9番 ホ短調 oP.95 「新世界」
ベートーヴェン : 序曲 「エグモント」Op.84 
メンデスゾーン : ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64 
ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 oP.95 「新世界」 
指揮/尾高忠明
管弦楽/札幌交響楽団 
ソリスト/伊藤亮太郎(ヴァイオリン)  
一人で行く。
譜面のめくる音まで聞こえる近さ、最前列で聞く。
音のうねり、絡み、最高であった。
前列の席が高い理由が分かった。 
最前列自由席3000
宿泊なし
3000+0=3000
 
005-2010年11月14日 1500 広島県ふくやま芸術文化ホール・リーデンローズ モーツアルト : 歌劇「魔笛」
モーツアルト : 歌劇「魔笛」 
指揮/ズビグニェフ・グラーツァ 
管弦楽/ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場オペラ管弦楽団
合唱団/ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場オペラ合唱団 
夜の女王~今一、声量がなかった。
パミーナ~一番良かった。
札幌コンサート・ホール・キタラの座席より、狭い、建物は立派。
旅行の日程と一致したので、聞きに行った。 
3階R3列 6番と7番 B席6000円×2+手数料1020円~合計13020円 
カンデオホテルズ福山~2010/11/14~9400円 
13020+9400=22420
 
006-2011年09月13日 1830 札幌コンサートホールkitara ビゼー : 歌劇「カルメン」
ビゼー : 歌劇「カルメン」 
指揮/クリスティアン・ポーラック
管弦楽/モーツァルティアーデ管弦楽団
合唱団/バーデン市劇場合唱団
カルメン/マイラム・ソコロォヴァ
ミカエラ/ニィコオラァ・プゥルォックシュク・マルティニイック
雨、カルメン、ミカエラともに声の通りがよかった、終了午後9時45分、疲れた。
3階 CC6列 34番と35番 C席6000円×2~合計12000円 
ホテルライン 2011/09/13~5400円+駐車800円 
12000+6200=18200
 
007-2012年03月08日 1900 札幌コンサートホールkitara 
ドヴォルザーク:弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 
モーツァルト:ホルン協奏曲 第1番 ニ長調 K412 
モーツァルト:ホルン協奏曲 第3番 変ホ長調 K447 
ドヴォルザーク:交響曲 第9番 ホ短調「新世界より」作品95 
指揮/ヤクブ・フルシャ
管弦楽/プラハ・フィルハーモニア管弦楽団
ホルン/ラデク・バボラーク
指揮者がほぼ正面の座席、指揮者の動きが良く見えた。
音の響きも悪くはなかった、満足した。
アンコール曲は、シンフォニー第8番第3楽章、スラブ舞曲 
C席4000円×2~合計8000円 
ホテルハシモト 2012/03/08~6500円+駐車500円~合計7000 
8000+7000=15000
 
008-2012年04月30日 1330 札幌コンサートホールkitara 第14回チャイコフスキー国際コンクール 優勝者ガラ・コンサート 
チャイコフスキー : ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35 (ナレク・アフナジャリャン)
チャイコフスキー : ロココの主題による変奏曲 イ長調 作品33 (セルゲイ・ドガージン) 
チャイコフスキー : ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23(ダニール・トリフォノフ) 
ダニール・トリフォノフ(グランプリ ピアノ部門第1位/聴衆賞) 
セルゲイ・ドガージン(ヴァイオリン部門第2位(1位なし)/聴衆賞) 
ナレク・アフナジャリャン(チェロ部門第1位)
指揮/アンドレイ・ヤコヴレフ
管弦楽モスクワ交響楽団
C席6000円×2~合計12000円 
宿泊なし
12000+0=12000
 
009-2012年07月01日 1400 札幌コンサートホールkitara モーツァルト : 歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」 
モーツァルト : 歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」 
指揮/高関 健
管弦楽/札幌交響楽団 
フィオルディリージ/一鐡 久美子(第1幕)、土本 麻生(第2幕)
ドラベッラ/小平 明子(第1幕)、村中 朋見(第2幕)
グリエルモ/下司 貴大
フェランド/古城 一樹(第1幕)、安田 哲平(第2幕)
デスピーナ/小貫 多喜子(第1幕)、坪田 由里子(第2幕)
ドン・アルフォンソ/大野 浩司
3階RCブロック7列 19番 B席~4000円 妻旅行で一人で行く 
宿泊なし
4000+0=4000
 
2013年度(2013/04/01~2014/03/31)
010-(2013-01)-2013年07月03日 1900 札幌コンサートホールkitara 〈Kitaraワールドオーケストラ&オペラシリーズ〉 スイス・バーゼル歌劇場がおくるモーツァルト5大オペラ 夢のガラ・コンサート
モーツァルト:歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」より
モーツァルト:歌劇「魔笛」より
モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」より
モーツァルト:歌劇「皇帝ティートの慈悲」より
モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」より
ソプラノ/ジャクリーン・ワグナー、ロザンナ・サヴォイア
メゾ・ソプラノ/フランツィスカ・ゴットヴァルト
バリトン/エフゲニー・アレクシエフ、クリストファー・ボルダック
指揮/ジュリアーノ・ベッタ
管弦楽/バーゼル・シンフォニエッタ 
2階LBブロック4列 21番と22番 A席6000円×2~合計12000円 
好きな曲ばかりなので、感動した 
ホテルハシモト~2013/07/03~6760円+500円駐車=7260円 
12000+7260=19260
 
011-(2013-02)-2013年07月19日 1830 苫小牧市民会館 マーラー:交響曲 第5番 嬰ハ短調 PMFコンサート演奏会
武満 徹:ア・ストリング・アラウンド・オータム ヴィオラとオーケストラのための
マーラー:交響曲 第5番 嬰ハ短調 
指揮/準・メルクル
ヴィオラ/ダニエル・フォスター
管弦楽/PMFオーケストラ PMFオーケストラ PMFアメリカ 
1階E列 14番と15番 A席~3500円×2~合計7000円 
宿泊なし
7000+0=7000
 
012-(2013-03)-2013年09月15日 1400 札幌コンサートホールkitara 〈東京都交響楽団札幌特別公演〉 
ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 
ブラームス:交響曲 第4番 
小林研一郎指揮 東京都交響楽団 
三浦 文彰(vn) 
2階RBブロック6列 17番と18番 A席~4500円×2~合計9000円 
宿泊なし
9000+0=9000 
 
013-(2013-04)-2013年10月11日 1830 埼玉県川口総合文化センター・リリア・メインホール 
モーツァルト : 歌劇「魔笛」 
リハルド・ハイン指揮 プラハ国立歌劇場管弦楽団 同合唱団 同バレエ団  
2階14列 49番と50番 C席~7000円×2+手数料1020円~合計15020円 
ホテルニュー栃木屋~10/11金~5500円 
15020+5500=20520
 
014-(2013-05)-2013年10月14日 1530 Bunkamuraオーチャードホール N響オーチャード定期第76回 
モーツァルト:交響曲第31番ニ長調 K.297「パリ」 
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調 K.219「トルコ風」 
モーツァルト:交響曲第38番ニ長調 K.504 
ロジャー・ノリントン指揮 NHK交響楽団 
木嶋真優(vn)  
初めてのオーチャードホール 
1階36列 29番と30番 A席~6000円×2~合計12000円 
当日券をゲット 木嶋真優について検索した、かなり凄い経歴で美人、且つスタイルも良好、演奏も良い
ビジュアルも重要な要素のひとつ 
ホテルニュー栃木屋~10/14月~5300円 
12000+5300=17300
 
015-(2013-06)-2013年12月01日 1400 札幌コンサートホールkitara 
〈Kitaraワールドオーケストラ&オペラシリーズ〉 
モーツァルト:証聖者の荘厳な挽課(ヴェスペレ) K.339 
モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626 
鈴木雅明指揮 バッハ・コレギウム・ジャパン  
1階3列 7番と8番 はじめて1階席の最前列 S席~8000円×2~合計16000円 
最前列の席だとより感動する、キャロリン・サンプソンのアリア集CDを1枚持っている
ホテルハシモト~2013/12/01~4560円+500円駐車~5060円 
16000+5060=21060
年度でなく、1月からの回数は、2013年は6回
 
016-(2013-07)-2014年02月07日 1900 サントリーホール 
モーツァルト:ドン・ジョヴァンニ序曲 
モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」 
モーツァルト:交響曲第39番 
オルフェウス室内管弦楽団(指揮者なし) 
辻井伸行(P) 
2階P4列 16番と17番 B席~11000円×2+手数料1020円~合計23020円 
はじめてのサントリーホール、辻井伸行はやはり凄い 
ホテルニュー栃木屋~2014/02/07~5500円
23020+5500=28520
 
017-(2013-08)-2014年02月08日 1400 めぐろパーシモンホール 東邦音楽大学公演
モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」 
1階22列 18番と19番 B席~4000円×2+手数料1020円~合計9020円
大学主催なので期待度は低い 
ケルビーノ以外はそこそこ良好 
ケルビーノは失敗、緊張のために声が出ていないし音程が不安定 
ホテルニュー栃木屋~2014/02/08~6000円 
9020+6000=15020

2014年03月30日~笑顔の浅田真央「本当にいい思い出」 世界フィギュア

2014年03月30日 | ネット・ニュースなど

2014年03月30日~笑顔の浅田真央「本当にいい思い出」 世界フィギュア~トレードマークのにこやかな笑顔で、約1万8千人の大喝采を浴びた。浅田は満足げに、うなずいた。(net news)

 

浅田真央の「引退撤回」を画策するテレビ局の“商魂”~フィギュアスケートを取材する報道陣の最大の関心事は、いつ本人の口から「引退」の2文字が聞かれるかだという。(net news)

ソチ五輪で6位に終わった浅田真央(23)がこの世界選手権でどんな演技をするか。そんなことより、進退に血眼になっているのだ。

昨年来、浅田は一貫して「今季はスケーターとしての集大成」と公言。今季限りでの引退を決めていたはずだった。が、ソチ五輪後に「ハーフハーフ(半々)くらい」と発言を後退。現役続行をほのめかした。

浅田の去就を巡ってはスポンサー企業やスケート連盟など周囲の思惑もある。本人の一存では決められないことが決断を遅らせているといわれるが、ここにきてテレビ局も、逡巡(しゅんじゅん)する浅田に必死のアプローチを行っているという。

「特に浅田をジュニア時代から追い続けてきたフジテレビが、引退を撤回させようと目の色を変えている。フジが生中継している今回の世界選手権で、初日に行われた男子ショートプログラム(SP)の視聴率が13.2%を記録。昨年の同種目の10.8%を大きく上回った。局内では『羽生、真央効果』と盛り上がるだけでなく、改めて浅田人気の高さを見せ付けられた出来事もあった。世界選手権の中継が決まってから、スポットCMを提供したいとスポンサーが殺到。提供する企業数、スポンサー料金は前年の3割増しというから、ウハウハです。

フジは放映権料などフィギュアスケートに年間10億円を超える投資をしている。(net news)

 

もう見飽きた、引退して欲しい、引き際を知らない

金銭が生んだ、マスコミに作られてアスリート

テレビが持ち上げ、みんなが誉める「浅田真央」と「上村愛子」には、私はムカツク

シングルマザーの安藤美姫の父親探しをするマスコミ、マスコミにもムカツク


2014/03/27~袴田事件の再審認める「証拠ねつ造の疑い」

2014年03月27日 | ネット・ニュースなど

2014/03/27~袴田事件の再審認める「証拠ねつ造の疑い」

昭和41年に静岡県で一家4人が殺害されたいわゆる「袴田事件」で、静岡地方裁判所は死刑が確定していた袴田巌元被告の再審=裁判のやり直しを認める決定を出しました。
また、裁判所は「捜査機関が証拠をねつ造した疑いがあり、無実の人を陥れて長期間拘束を続けたことになる」と当時の捜査を厳しく批判し、釈放を認める異例の決定を出しました。

昭和41年、今の静岡市清水区でみそ製造会社の専務の一家4人が殺害された事件では、当時、会社の従業員で強盗殺人などの罪で死刑が確定した袴田巌元被告(78)が無実を訴え、弁護団が再審=裁判のやり直しを求めてきました。
最大の争点は事件の1年2か月後に現場近くのみそタンクで見つかり、判決で元被告が着ていたと認定された「5点の衣類」が本人のものかどうかという点でした。
決定で静岡地方裁判所の村山浩昭裁判長は「元被告が犯行時に着ていたとされた、シャツの血液が、本人のDNAと一致しないという鑑定結果は信用できる。ズボンはサイズが合わない可能性があるほか、衣類の色も長期間みその中に隠されていたにしては不自然だ」と指摘しました。
そして「犯行に使われたとされた衣類は、捜査機関によるねつ造の疑いがある」と結論づけて再審を認める決定を出しました。
また、裁判長は「人権を顧みることなく元被告を犯人として追及し、無実の個人を陥れて、長期間、拘束を続けたことになる」と当時の捜査を厳しく批判したうえで、「これ以上の勾留は正義に反する」と指摘して、袴田元被告の死刑の執行と勾留を停止し、釈放を認める異例の決定も行いました。
静岡地方裁判所が再審の開始を認める決定を出したことについて、静岡地方検察庁の西谷隆次席検事は「予想外の決定であり、本庁の主張が認められなかったのは誠に遺憾である。上級庁とも協議のうえ、速やかに対応したい」と話しています。
また、静岡県警察本部は「決定内容を聞いていないのでコメントは差し控えさせていただく」と話しています。

 

死刑囚の再審認める決定は6件目

死刑囚の再審を認める決定は、9年前・平成17年の、いわゆる「名張毒ぶどう酒事件」以来、6件目です。
死刑が確定した事件で初めて再審が認められたのは、昭和25年に香川県で63歳の男性が自宅で殺害されて金が奪われた「財田川事件」です。
その後も、昭和23年に熊本県で夫婦2人が自宅で殺害された「免田事件」。
昭和30年に宮城県で住宅が全焼して一家4人が遺体で見つかった「松山事件」。
昭和29年に静岡県で当時6歳の女の子が連れ去られて殺害された「島田事件」があります。
この4つの事件は裁判をやり直した結果、いずれも無罪の判決が言い渡されました。
一方、昭和36年に三重県で女性5人が殺害された「名張毒ぶどう酒事件」は、平成17年にいったん再審を認める決定が出た後、別の裁判官が取り消しています。
この事件については、その後再審を認めない判断が最高裁判所で確定したため、弁護団が新たに再審請求を行っています。

 

再審認められるケース相次ぐ

ここ数年、科学的な鑑定や新たに開示された証拠が決め手となって殺人など重大な事件で再審が認められるケースが相次いでいます。
このうち、無期懲役が確定した事件では平成17年に茨城県で1人暮らしの男性が殺害された「布川事件」で男性2人の再審が認められたほか、平成21年には栃木県で当時4歳の女の子が殺害された「足利事件」で再審が認められました。
そして、おととしには平成9年に東京電力の女性社員が殺害された事件で、ネパール人の男性に対する再審が認められ、いずれもやり直しの裁判で無罪が確定しています。
足利事件と東京電力の女性社員が殺害された事件では、新たにDNA鑑定が行われて別人のDNAと判明したことが大きな理由となりました。
また、布川事件では検察が開示していなかった無罪をうかがわせる当時の証言が明らかになったことなどが再審の決め手となりました。

 

死刑囚の勾留停止は初めて 

死刑が確定した事件について再審開始決定の段階で、死刑囚の勾留を停止し、釈放を認める判断を裁判所が出したのは今回が初めてです。
法律では再審開始の決定をしたときには裁判所は刑の執行を停止することができると定められています。
しかし、死刑囚の場合、停止する対象は死刑の執行で、勾留については明確な規定がありません。
これまで確定した死刑判決が再審で無罪となった4つの事件でも勾留されていた人が拘置所から出たのは再審の裁判で無罪判決が言い渡されたあとでした。
今回、裁判所が「これ以上、勾留を続けることは耐え難いほど正義に反する」と強い姿勢を示し、袴田被告の釈放を裁量で認めた決定を検察が受け入れるのかどうか焦点となります。(net news)

 

袴田への取調べは過酷をきわめ、炎天下で平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせる等した。

睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかった。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2、3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき、袴田は勾留期限3日前に自供した。取調担当の刑事達も当初は3、4人だったのが後に10人近くになっている。

これらの違法行為については次々と冤罪を作り上げた紅林麻雄警部人脈の関与があったとされている。(wikipedia参照)

 

紅林 麻雄(くればやし あさお、1908年 - 1963年9月)は日本の警察官。階級は警部。

現在の静岡県藤枝市出身。国家地方警察静岡県本部刑事課員として、浜松連続殺人事件などの数々の事件を解決した名刑事であると言われ、数々の表彰を受けた。

しかし、取調べにおいて拷問とそれによって得た自白をいかにして合法とするかを考案したとして、後に「拷問王」と評された。紅林は様々な拷問の手法を考案したが、実行には直接関与せず、部下に指示を出していた。現在では名刑事としての評価は無く、無実の者から拷問で自白を引き出し証拠をでっち上げた上で数々の冤罪を作ったとして批判されている。また二俣事件における山崎兵八の書籍においては、真犯人と思われる人物からの収賄の疑惑も暴露されている。

幸浦事件二俣事件小島事件島田事件の被疑者を拷問で責め落として、自白を取った。この4事件中、島田事件を除く3事件は一審・二審では有罪判決(幸浦事件・二俣事件は死刑、小島事件は無期懲役)が出たが、その後に無罪が確定した。また、島田事件も最高裁で死刑判決が確定したが、その後再審で無罪が確定した。全てが冤罪であった。

1963年7月、幸浦事件の被告人に無罪判決が確定したことを機に警察を引退。同年9月に脳出血により急死した。

前述のように、紅林は拷問による尋問、自白の強要、自己の先入観に合致させた供述調書の捏造のような捜査方法の常習者であった。またアリバイが出てきそうになった場合は、犯行現場の止まった時計の針を動かしたトリックを自白させ、被疑者の周辺で時計の針を動かすトリックがある探偵映画や被疑者が推理マニアであることなどの傍証を積み重ねる手法で、アリバイを否定しようとした。

これらについて二俣事件の裁判では同僚の捜査員である山崎兵八が「県警(島田事件のみ これ以前は国警静岡県本部)の組織自体が拷問による自白強要を容認または放置する傾向があった」と証言。県警当局は山崎を偽証罪で逮捕(ただし「妄想性痴呆症(妄想型統合失調症の旧称)」として不起訴処分)したうえ懲戒免職処分にした。また幸浦事件では自分達が先に被害者の遺体が埋められている場所を探知しておきながら、被疑者に自白させた後に発見したようにして秘密の暴露を偽装した疑惑がある他、主犯とされた男性は拷問による為か持病(てんかん)が悪化しわずか34歳で上告中に死亡した。

紅林捜査法に見られるような強制、拷問又は脅迫によるなど任意性に疑いのある自白調書は、刑事訴訟法322条1項及び319条1項により証拠とすることができない。小島事件では、実際に紅林捜査法に最高裁の判断が下された。最高裁判決では被告人(当時は被疑者)が取調べ中に留置場に戻ってくるたびに赤チン(傷薬)を塗るなど治療を受けていたという証言などが認定され、被告人が主張する程度の過酷な拷問があったかについては疑義を呈しつつも、紅林主導の下で作成された自白調書の任意性が否定され、被告人に有罪を言い渡した原判決が破棄差戻し(後に無罪確定)された。(wikipedia参照)


C445から456⇒ヴィヴァルディ(001)-(012) 633から644⇒ヴィヴァルディ(019)-(024)

2014年03月18日 | クラシック(CD 001-500)

MEMO-ヴィヴァルディ

C-445 ヴィヴァルディ(001) 協奏曲集
C-446 ヴィヴァルディ(002) 協奏曲集 
C-447 ヴィヴァルディ(003) 協奏曲集 作品3 「調和の霊感」 (2CD)1 
C-448 ヴィヴァルディ(004) 協奏曲集 作品3 「調和の霊感」 (2CD)2 
C-449 ヴィヴァルディ(005) ギター協奏集 
C-450 ヴィヴァルディ(006) リコーダーのための協奏集

C-451 ヴィヴァルディ(007) Recorder Concertos(Dan Laurin) 
C-452 ヴィヴァルディ(008) Flute Concertos(Dan Laurin) 
C-453 ヴィヴァルディ(009) 協奏曲集 作品8 (2CD)1 
C-454 ヴィヴァルディ(010) 協奏曲集 作品8 (2CD)2 
C-455 ヴィヴァルディ(011) 協奏曲集 作品9 (2CD)1 
C-456 ヴィヴァルディ(012) 協奏曲集 作品9 (2CD)2

C-633 ヴィヴァルディ(013) アリア集 ジュノー盤
C-634 ヴィヴァルディ(014) アリア集 バルトリ盤
C-635 ヴィヴァルディ(015) 宗教音楽作品集1 
C-636 ヴィヴァルディ(016) 宗教音楽作品集2
C-637 ヴィヴァルディ(017) 宗教音楽作品集3
C-638 ヴィヴァルディ(018) 宗教音楽作品集4
 
C-639 ヴィヴァルディ(019) オペラ・アリア、重唱集
C-640 ヴィヴァルディ(020) オペラ、宗教作品のアリア集
C-641 ヴィヴァルディ(021) モテット
C-642 ヴィヴァルディ(022) 『勝利のユディータ』ハイライト
C-643 ヴィヴァルディ(023) 『オリンピアーデ』ハイライト
C-644 ヴィヴァルディ(024) 『試練の中の真実』ハイライト
 

歌川国貞(三代目歌川豊国)~琴碁書画

2014年03月14日 | 浮世絵

歌川国貞(三代目歌川豊国)~琴碁書画

絵 師~歌川国貞 (1786~1864年)
時 代天保14~弘化4年 (1843~47年)
サイズ大判
説 明~シミ汚れ、少虫穴、右下薄み、折れじわ、裏側右側面タテに少紙くっつき有り、香朝樓国貞の美人画シリーズ絵「琴碁書画」

購入日~2014/03/20

購入先~オークション、アート芳桐

購入額~5800円+送料1370円÷2~5800円+685円~6485円

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2011815 

 

歌川 国貞(うたがわ くにさだ、天明6年〈1786年〉 - 元治元年12月15日1865年1月12日〉)とは、江戸時代浮世絵師。のちの三代目歌川豊国。 

 

初代歌川豊国の門人。本名は角田 庄五郎(すみた しょうごろう)。後に庄蔵、肖造と改める。号は、五渡亭・香蝶楼・一雄斎、琴雷舎、北梅戸、富望山人、富望庵、桃樹園、月波楼、喜翁、浮世又平、不器用又平など。誕生日は不明だが、安政2年(1855年)5月19日に、70歳を祝した宴会を両国中村楼で催す旨を記した招待状を版行配布している事から、5月19日かそれ以前の日が誕生日だと推定できる。面長猪首型の美人画が特徴。存命中と没後で評価が分かれる。豊国襲名後は工房を安定させ大量の作品を出版、作品の数は浮世絵師の中で最も多い。その作品数は1万点以上に及ぶと言われる。嘉永6年(1853年)の『江戸寿那古細撰記』には「豊国にかほ(似顔)、国芳むしや(武者)、広重めいしよ(名所)」とある。

 

天明6年(1786年)、江戸本所竪川の五ツ目に渡し船の株を持つ材木問屋の家に生まれた。生家は亀田屋といい、父は庄兵衛といった。15、6歳で豊国の門下に入り、歌川を称し、後に国貞と名乗った。五渡亭の号は狂歌師の大田南畝からつけてもらったものといわれ、国貞は他の号を名乗るようになってもこの号を長く愛用している。文化4年(1807年)22歳頃から美人画を描き始め、文政8年(1825年)には艶本の挿絵も始めた。文化11年から文化12年頃の「大当狂言之内」全9枚シリーズを始めとする役者絵は師をも越えた作品と評価された。

 

英一蝶に私淑しており、文政10年(1827年)頃より使用した香蝶楼の号は一蝶の「蝶」と一蝶の名の信香の「香」を取ってつけたものであった。天保元年(1830年)、英一珪に師事して英一螮と号す。歌川広重と合作した「双筆五十三次」においては、三代目豊国が歌舞伎役者などの人物を描き、広重が風景を描いている。この「双筆五十三次」の内、赤坂の画中に英一螮の落款がみられる。天保の改革により、美人画、役者絵にさまざまな制約が加えられたが、改革の抑圧が緩和すると、嘉永頃にはその反動で彫り摺りの技術は一層高度に極彩、細密なものとなり、目を奪う工芸美といえる浮世絵版画が作られるようになっていった。

 

弘化元年(1844年)、二代目豊国を称した。同門の歌川豊重が二代目豊国を襲名していたので実際には国貞は三代目豊国であり、現在も豊重と区別する必要があることから「三代目豊国」と呼ばれる。またその居宅を以って亀戸豊国ともいう。弘化2年(1845年)、剃髪して名も肖造と改める。弘化3年、三代目歌川国政を養子にして二代目歌川国貞を継がせ、文久2年(1862年)の77歳以降、喜翁と号した。

 

作画期が長く、その作品の量も膨大なものになっている。五渡亭国貞時代の美人画が、良く時代の「粋」な女性像を表現し得ている。また柳亭種彦偐紫田舎源氏』の挿絵は「源氏絵」ブームを巻き起こし、歌舞伎に影響するほどであった。この評判に隠れて役者絵は押されがちであるが、質量ともにやはり独自な世界を持っており、ことに大首絵は優れていた。国貞の肉筆浮世絵も見落とせないが、また国貞時代の春画も彼の力量を良く伝えるものであった。代表作として「浮世名異女図会」、「思事鏡写絵」、「当世美人合」、「当世美人流光好」「時世江戸鹿子」、「江戸名所百人美女」、「星の霜当世風俗」などといった美人画シリーズに秀作があり、「豊国漫画図絵」の役者絵30枚も見逃せない。晩年には歌川広重との合作のシリーズものもみられる。元治元年(1865年)に79歳で死去。墓所は亀戸の光明寺にあり、墓も現存している。法名は豊国院貞匠画遷信士。

 

弟子として歌川貞秀歌川貞景歌川貞虎豊原国周、上方では歌川貞広歌川貞升などがおり、その画系は明治以降にも引き継がれた。

 


三代目歌川豊国~今源氏 紅梅 中判

2014年03月11日 | 浮世絵

三代目歌川豊国~今源氏 紅梅 中判

絵 師~三代目歌川豊国 (1786~1864年)

時 代弘化4~嘉永5年 (1847~52年)

サイズ中判

説 明シミ汚れ、色目・状態きれい、三代目歌川豊国の源氏シリーズ絵、第四十三帖、紅梅

購入日~2014/03/19

購入先~オークション、アート芳桐

購入額~3105円+送料1370円÷2~3105円+685円~3790円

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Japanese Art Open Database~http://ja.ukiyo-e.org/image/jaodb/Kunisada_1_Utagawa-Ukiyo_e_Comparison_of_Genji-Unknown_title-00030122-021030-F06

Ch. 43, K�・bai, from the series The Color Print Contest of a Modern Genji (Ima Genji nishiki-e awase)

 

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ボストン美術館~http://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc126452

Ch. 43, K�・bai, from the series The Color Print Contest of a Modern Genji (Ima Genji nishiki-e awase)

 

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ボストン美術館~http://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc126385

Ch. 43, K�・bai, from the series The Color Print Contest of a Modern Genji (Ima Genji nishiki-e awase)

 

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ボストン美術館~http://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc126412

Ch. 43, K�・bai, from the series The Color Print Contest of a Modern Genji (Ima Genji nishiki-e awase)

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ボストン美術館~http://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc168834

Ch. 43, K�・bai, from the series The Color Print Contest of a Modern Genji (Ima Genji nishiki-e awase)

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三代目歌川豊国~初代歌川豊国の門人。本名は角田 庄五郎(すみた しょうごろう)。後に庄蔵、肖造と改める。号は、五渡亭・香蝶楼・一雄斎、琴雷舎、北梅戸、富望山人、富望庵、桃樹園、月波楼、喜翁、浮世又平、不器用又平など。誕生日は不明だが、安政2年(1855年)5月19日に、70歳を祝した宴会を両国中村楼で催す旨を記した招待状を版行配布している事から、5月19日かそれ以前の日が誕生日だと推定できる。

面長猪首型の美人画が特徴。存命中と没後で評価が分かれる。豊国襲名後は工房を安定させ大量の作品を出版、作品の数は浮世絵師の中で最も多い。その作品数は1万点以上に及ぶと言われる。嘉永6年(1853年)の『江戸寿那古細撰記』には「豊国にかほ(似顔)、国芳むしや(武者)、広重めいしよ(名所)」とある。

天明6年(1786年)、江戸本所竪川の五ツ目に渡し船の株を持つ材木問屋の家に生まれた。生家は亀田屋といい、父は庄兵衛といった。15、6歳で豊国の門下に入り、歌川を称し、後に国貞と名乗った。五渡亭の号は狂歌師の大田南畝からつけてもらったものといわれ、国貞は他の号を名乗るようになってもこの号を長く愛用している。文化4年(1807年)22歳頃から美人画を描き始め、文政8年(1825年)には艶本の挿絵も始めた。文化11年から文化12年頃の「大当狂言之内」全9枚シリーズを始めとする役者絵は師をも越えた作品と評価された。

英一蝶に私淑しており、文政10年(1827年)頃より使用した香蝶楼の号は一蝶の「蝶」と一蝶の名の信香の「香」を取ってつけたものであった。天保元年(1830年)、英一珪に師事して英一�柩と号す。歌川広重と合作した「双筆五十三次」においては、三代目豊国が歌舞伎役者などの人物を描き、広重が風景を描いている。この「双筆五十三次」の内、赤坂の画中に英一�柩の落款がみられる。天保の改革により、美人画、役者絵にさまざまな制約が加えられたが、改革の抑圧が緩和すると、嘉永頃にはその反動で彫り摺りの技術は一層高度に極彩、細密なものとなり、目を奪う工芸美といえる浮世絵版画が作られるようになっていった。

弘化元年(1844年)、二代目豊国を称した。同門の歌川豊重が二代目豊国を襲名していたので実際には国貞は三代目豊国であり、現在も豊重と区別する必要があることから「三代目豊国」と呼ばれる。またその居宅を以って亀戸豊国ともいう。弘化2年(1845年)、剃髪して名も肖造と改める。弘化3年、三代目歌川国政を養子にして二代目歌川国貞を継がせ、文久2年(1862年)の77歳以降、喜翁と号した。

作画期が長く、その作品の量も膨大なものになっている。五渡亭国貞時代の美人画が、良く時代の「粋」な女性像を表現し得ている。また柳亭種彦偐紫田舎源氏』の挿絵は「源氏絵」ブームを巻き起こし、歌舞伎に影響するほどであった。この評判に隠れて役者絵は押されがちであるが、質量ともにやはり独自な世界を持っており、ことに大首絵は優れていた。国貞の肉筆浮世絵も見落とせないが、また国貞時代の春画も彼の力量を良く伝えるものであった。代表作として「浮世名異女図会」、「思事鏡写絵」、「当世美人合」、「当世美人流光好」「時世江戸鹿子」、「江戸名所百人美女」、「星の霜当世風俗」などといった美人画シリーズに秀作があり、「豊国漫画図絵」の役者絵30枚も見逃せない。晩年には歌川広重との合作のシリーズものもみられる。元治元年(1865年)に79歳で死去。墓所は亀戸の光明寺にあり、墓も現存している。法名は豊国院貞匠画遷信士。

弟子として歌川貞秀歌川貞景歌川貞虎豊原国周、上方では歌川貞広歌川貞升などがおり、その画系は明治以降にも引き継がれた。

 


三代目歌川豊国~江戸名所百人美女 葵坂

2014年03月11日 | 浮世絵

三代目歌川豊国~江戸名所百人美女 葵坂

1857

購入日~2014/03/11(2014/03/17到着)

購入先~オークション、徳島県、茎田氏

購入額~5750円+送料420円÷4~5750円+送料105円~5855円

安政4年(1857)

この江戸名所百人美女ものを神田神保町・原書房で見たが、20000円から30000円の価格で販売していた、6000円弱で入手出来た綺麗な版画

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歌川 国貞(うたがわ くにさだ、天明6年〈1786年〉 - 元治元年12月15日〈1865年1月12日〉)とは、江戸時代の浮世絵師。のちの三代目歌川豊国。

初代歌川豊国の門人。本名は角田 庄五郎(すみた しょうごろう)。後に庄蔵、肖造と改める。号は、五渡亭・香蝶楼・一雄斎、琴雷舎、北梅戸、富望山人、富望庵、桃樹園、月波楼、喜翁、浮世又平、不器用又平など。誕生日は不明だが、安政2年(1855年)5月19日に、70歳を祝した宴会を両国中村楼で催す旨を記した招待状を版行配布している事から、5月19日かそれ以前の日が誕生日だと推定できる。面長猪首型の美人画が特徴。存命中と没後で評価が分かれる。豊国襲名後は工房を安定させ大量の作品を出版、作品の数は浮世絵師の中で最も多い。その作品数は1万点以上に及ぶと言われる。嘉永6年(1853年)の『江戸寿那古細撰記』には「豊国にかほ(似顔)、国芳むしや(武者)、広重めいしよ(名所)」とある。

天明6年(1786年)、江戸本所竪川の五ツ目に渡し船の株を持つ材木問屋の家に生まれた。生家は亀田屋といい、父は庄兵衛といった。15、6歳で豊国の門下に入り、歌川を称し、後に国貞と名乗った。五渡亭の号は狂歌師の大田南畝からつけてもらったものといわれ、国貞は他の号を名乗るようになってもこの号を長く愛用している。文化4年(1807年)22歳頃から美人画を描き始め、文政8年(1825年)には艶本の挿絵も始めた。文化11年から文化12年頃の「大当狂言之内」全9枚シリーズを始めとする役者絵は師をも越えた作品と評価された。

英一蝶に私淑しており、文政10年(1827年)頃より使用した香蝶楼の号は一蝶の「蝶」と一蝶の名の信香の「香」を取ってつけたものであった。天保元年(1830年)、英一珪に師事して英一螮と号す。歌川広重と合作した「双筆五十三次」においては、三代目豊国が歌舞伎役者などの人物を描き、広重が風景を描いている。この「双筆五十三次」の内、赤坂の画中に英一螮の落款がみられる。天保の改革により、美人画、役者絵にさまざまな制約が加えられたが、改革の抑圧が緩和すると、嘉永頃にはその反動で彫り摺りの技術は一層高度に極彩、細密なものとなり、目を奪う工芸美といえる浮世絵版画が作られるようになっていった。

弘化元年(1844年)、二代目豊国を称した。同門の歌川豊重が二代目豊国を襲名していたので実際には国貞は三代目豊国であり、現在も豊重と区別する必要があることから「三代目豊国」と呼ばれる。またその居宅を以って亀戸豊国ともいう。弘化2年(1845年)、剃髪して名も肖造と改める。弘化3年、三代目歌川国政を養子にして二代目歌川国貞を継がせ、文久2年(1862年)の77歳以降、喜翁と号した。

作画期が長く、その作品の量も膨大なものになっている。五渡亭国貞時代の美人画が、良く時代の「粋」な女性像を表現し得ている。また柳亭種彦偐紫田舎源氏』の挿絵は「源氏絵」ブームを巻き起こし、歌舞伎に影響するほどであった。この評判に隠れて役者絵は押されがちであるが、質量ともにやはり独自な世界を持っており、ことに大首絵は優れていた。国貞の肉筆浮世絵も見落とせないが、また国貞時代の春画も彼の力量を良く伝えるものであった。代表作として「浮世名異女図会」、「思事鏡写絵」、「当世美人合」、「当世美人流光好」「時世江戸鹿子」、「江戸名所百人美女」、「星の霜当世風俗」などといった美人画シリーズに秀作があり、「豊国漫画図絵」の役者絵30枚も見逃せない。晩年には歌川広重との合作のシリーズものもみられる。元治元年(1865年)に79歳で死去。墓所は亀戸の光明寺にあり、墓も現存している。法名は豊国院貞匠画遷信士。

弟子として歌川貞秀歌川貞景歌川貞虎豊原国周、上方では歌川貞広歌川貞升などがおり、その画系は明治以降にも引き継がれた。

 

江戸東京博物館~http://ja.ukiyo-e.org/image/etm/0191220157

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ボストン美術館~http://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc172111

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東京都立図書館http://ja.ukiyo-e.org/image/metro/025-C001-024

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歌川廣景~「江戸名所道戯盡」 「御蔵前の雪」

2014年03月11日 | 浮世絵

歌川廣景~「江戸名所道戯盡」 「御蔵前の雪」

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購入日~2014/03/11(2014/03/17到着)

購入先~オークション、徳島県、茎田氏

購入額~6590円+送料420円÷4~6590円+送料105円~6695円

「江戸名所道戯尽」シリーズについては、25000円程度で販売している~東京都、そうめい堂

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ボストン美術館~http://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc232467

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ボストン美術館~http://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc152458

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ボストン美術館~http://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc143351

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大英博物館http://ja.ukiyo-e.org/image/bm/AN00751825_001_l

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アメリカ議会図書館http://ja.ukiyo-e.org/image/loc/02367v

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ハーバード大学http://ja.ukiyo-e.org/image/harvard/HUAM-CARP01223

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東京都立図書館http://ja.ukiyo-e.org/image/metro/025-C003-023

 

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歌川 広景(うたがわ ひろかげ、生没年不詳)は、江戸時代後期の浮世絵師。歌川広重の門人。画姓として歌川を使用し、広景と号した。安政(1854年‐1860年)から慶応(1865年‐1868年)の頃、大錦「江戸名所道化尽」31枚揃などを残している。


喜多川歌麿~絵本小町引き(Ehon Komachi-biki)

2014年03月07日 | 浮世絵

喜多川歌麿~絵本小町引き

購入日~2014/03/11(2014/03/17到着)

購入先~オークション、徳島県、茎田氏

購入額~15500円+送料420円÷4~15500円+送料105円~15605円

寸法~38.5×25.5

時代~江戸時代(1802)

状態~裏打あり、摺良、汚れ、穴、破れ、補修、中折れ、トリミング

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ここでは、芸者は彼女の恋慕と首ったけな有様を、そこまでは夢中でない男に向って露にし、媾(まぐわ)いに誘っている。(解説=林 美一)

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British Museum~http://ukiyo-e.org/image/bm/AN00583059_001_l

No.11 (Higashioji) / Komachi-biki (Tugging Komachi)

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喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ、宝暦3年〈1753年〉頃? - 文化3年9月20日1806年10月31日〉)とは、江戸時代日本で活躍した浮世絵師。

は北川、後に喜多川。幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)と改める。名は信美。初めのは豊章といい、歌麻呂、哥麿とも号す。通常は「うたまろ」と読むが、秘画本には「うたまる」としているものもある。

俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆の綾丸、紫屋と号して、蔦屋重三郎とともに吉原連に属した。国際的にもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家である。

生年、出生地、出身地など不明。生年に関しては、一般には没年(数え54歳)からの逆算で宝暦3年(1753年)とされるが、関根只誠の『名人忌辰録』では没年が53歳とされているので宝暦4年(1754年)生まれとなり、また瀬木慎一の『日本美術事件簿』では宝暦5年(1755年)から8年(1758年)の間と推定している。出身に関しても江戸市中、あるいは大坂栃木川越との諸説がある。

鳥山石燕のもとで学び、根津に住む。細判の役者絵絵本を制作する。初作は安永4年(1775年)に北川豊章の落款で描いた中村座の富本節正本『四十八手恋所訳』(しじゅうはってこいのしょわけ)の表紙辺りであろうといわれる。

初めは勝川春章風の役者絵、次いで北尾重政風の美人画、鳥居清長風の美人画を描いていた。また天明8年(1788年)から寛政初期にかけては狂歌絵本『百千鳥』、『画本虫ゑらみ』、『汐干のつと』など植物、虫類、鳥類、魚貝類を題材にした華麗で精緻な作品を描く。

その後は版元蔦屋重三郎の援助を得て抜群の才を発揮し、歌麿の画風の独立はその後援によって急速に進むこととなった。ここで歌麿は重政や清長の影響を脱し、自己表現として完成度の高い「風流花之香遊」や「四季遊花之色香」のような清新な作風の美人画を制作した。

寛政2年(1790年)か寛政3年(1791年)の頃から描き始めた「婦女人相十品」、「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で特に人気を博した。「青楼仁和嘉女芸者部」のような全身像で精緻な大判のシリーズもあったが、「当時全盛美人揃」、「娘日時計」、「歌撰恋之部」、「北国五色墨」などと優れた大首半身物の美人画を刊行した。全身を描かず、半身あるいは大首絵でその女性の環境、日常、性格までを描こうとしたのであった。豊麗な情感は一面理想的な女性美の創造の結果であったが、一方、逆に最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとした。

「北国五色墨」の「川岸」、「てっぽう」や「教訓親の目鑑(めがね)」の「ばくれん」、あるいは秘画に見られる肉感の強烈さは決して浄化の方向ではなく、生身の存在、息づき、汚濁もある実存世界へと歌麿の眼が届いていることも知らされる。

やがて、「正銘歌麿」という落款をするほどまでに美人画の歌麿時代を現出、自負した。また、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられる。

歌麿はそれまで全身を描かれていた美人画の体を省き、顔を中心とする構図を考案した。これにより、美人画の人物の顔の表情や内面を詳細に描くことが可能になった。歌麿は遊女花魁、さらに茶屋の娘など無名の女性ばかりを作品の対象としたが、歌麿の浮世絵によってモデルの名前はたちまち江戸中に広まるなどし、歌麿の浮世絵は一つのメディアへと育っていった。
これに対して江戸幕府は世を乱すものとして度々制限を加えたが、歌麿は判じ絵などで対抗し美人画を書き続けた。しかし文化1年(1804年)、豊臣秀吉醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけとなり、幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受ける。
これは当時、豊臣秀吉を芝居や浮世絵などにそのまま扱うことは禁じられていたことに加え、北の政所淀殿、その他側室に囲まれて花見酒にふける秀吉の姿に当代の将軍徳川家斉を揶揄する意図があったとも言われている。
この刑の後、歌麿は非常にやつれたとされる。しかし歌麿の人気は衰えず版元からは仕事が殺到したとされ、その過労からか二年後の文化3年(1806年)死去した。享年54。墓所は世田谷区烏山の専光寺。法名は秋円了教信士。

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歌川広重~東海道五十三次 岡部 狂歌入り 中判

2014年03月03日 | 浮世絵

歌川広重~東海道五十三次 岡部 狂歌入り 中判

1840-42

寸法~21.0×15.0
時代~江戸時代
状態~裏打あり、汚れ、穴、少破れ、補修、トリミング、付耳

購入日~2014/03/11(2014/03/17到着)

購入先~オークション、徳島県、茎田氏

購入額~3000円+送料420円÷4~3000円+送料105円~3105円

ローニン・ギャラリーでの価格~480ドル

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歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日1858年10月12日)は、浮世絵師。本名安藤鉄蔵。江戸定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。かつては安藤広重(あんどう ひろしげ)とも呼ばれたが、安藤は本姓、広重は号であり、両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。また、ゴッホモネなどの画家に影響を与え、世界的に著名な画家である。

歌川豊広の門人。

広重は、江戸の八代洲河岸(やよすがし)定火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。幼名を徳太郎、のち鉄蔵、重右衛門また徳兵衛とも称した。文化6年(1809年)2月、母を亡くし同月父が隠居し、数え13歳で広重が同心職を継ぐ。同年12月には父も死去。幼い頃からの絵心が勝り文化8年(1811年)15歳の頃、初代歌川豊国の門に入ろうとした。しかし、門生満員でことわられ、歌川豊広(1776年-1828年)に入門。翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川廣重の名を与えられた。

11年後の文政6年(1823年)には、祖父方の嫡子仲次郎に家督を譲って、鉄蔵と改名し後見となった。家業の火消同心を辞め、絵師に専心した。

広重は始め役者絵から出発。やがて美人画に手をそめたが、天保元年(1830年)一幽斎廣重と改め、花鳥図を描くようになる。

文政11年(1828年)師の豊廣没後は風景画を主に制作した。天保3年 (1832年)、一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。また一遊斎、立斎とも号した。入門から20年、師は豊廣だけであったが、この頃大岡雲峰に就いて南画を修めている。

天保3年(1832年)、36歳の時に正式に職を仲次郎に譲ってから浮世絵師として独立した。この年、公用で東海道を上り、翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものとなった。以降、種々の「東海道」シリーズを発表したが、各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けており、ともに秀作をみた。また、この間、花鳥画においてもすぐれた作品を出し続け、晩年には美人画3枚続も手掛けている。さらに狂歌本の挿絵も多く残している。

安政5年没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は顕功院徳翁立斎居士。友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。

ホノルル美術館http://ja.ukiyo-e.org/image/honolulu/3597

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大英博物館http://ja.ukiyo-e.org/image/bm/AN00523656_001_l

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